第八話『貴族の美学と、泥まみれの勝利』
ガバリエ男爵の館は、川に突き出すように建てられた豪奢な石造りだった。
特に自慢だというテラスは、夕日を反射して輝く川面を一望できる絶好のロケーションにある。
磨き上げられた白亜の床。彫刻が施された石の手すり。そこにあるのは、計算され尽くした「美」だけだった。
「……美しい」
ガバリエ男爵は、グラスを傾けながら陶酔したようにつぶやいた。
グラスの中身は、芳醇な香りを放つ琥珀色の液体。夕日を受けて煌めいている。
「この静寂。この眺望。これこそが、選ばれた人間に許される特権というものだ」
彼は自身の金髪を指ですき、満足げに頷いた。
しかし、その静寂は無粋な足音によって破られた。
「旦那様。……申し上げにくいのですが」
老執事が、困惑した様子で声をかける。
「チッ……。せっかくの美酒がまずくなる。何事だ」
「はっ。それが、門前に薄汚れた集団が……押し掛けてまいりまして。『ククルカ村の代理人』と名乗る男が、どうしても旦那様に直接お話ししたいと」
「……フン。アポなしか。野蛮な連中め」
ガバリエは不快げに眉をひそめたが、すぐに口元を歪めた。
「まあいい。私の慈悲深さを見せてやるのも、貴族の美学だ。通せ」
ガバリエは鷹揚に頷き、再びグラスを口に運んだ。
***
「うわぁ……すげえな」
テラスに足を踏み入れた俺は、思わず感嘆の声を漏らした。
眼下には雄大な川の流れ。心地よい川風。素晴らしい眺めだ。
だが、そのテラスの主は、俺たちを見るなり露骨に鼻を覆った。
「……臭うな。泥と汗と、家畜の臭いだ」
ガバリエ男爵は、ハンカチで口元を押さえながら、蔑むような視線を向けた。
俺の後ろには、ムロック、トルバルド、サハギンの三人の村長が控えている。彼らは一様に緊張し、身を縮こまらせていた。
「私の美しいテラスが汚れる。……用件だけ聞こうか。金なら恵んでやるから、さっさと立ち去れ」
「金はいらない。あんたに要求がある」
俺は単刀直入に切り出した。
「三つの村に対する『水利税』の即時撤廃。および、過去の徴収分の返還。……これだけだ」
一瞬の沈黙の後、ガバリエは吹き出した。
「ハッ! 何を言い出すかと思えば……。断るに決まっているだろう。水は私の土地から湧き出ている。私がどう値をつけようが自由だ」
「限度があるだろ。村が干上がっちまうぞ」
「それがどうした? 払えない貧乏人が悪いのだ。代わりなどいくらでもいる」
ガバリエは冷酷に言い放つ。彼にとって領民は、人間ではなく、富を生み出すための道具に過ぎないらしい。
俺の後ろで、ムロックたちが悔しげに拳を握りしめる気配がした。
「……交渉決裂だな」
俺は肩をすくめ、テラスの端へと歩み寄った。
手すりの下を覗き込む。すぐ真下を、たっぷりと水を湛えた川が流れている。
「いい眺めだ。……ところで男爵。上流にある『古い水門』を知ってるか?」
「水門? ……ああ、あのボロ屑か」
「さっき、村長たちと『安全点検』をしてきたんだがね。……かなり老朽化していたよ。もし今、あの水門が『故障』して、完全に閉まったままになったらどうなると思う?」
俺がニヤリと笑うと、ガバリエの表情が凍りついた。
「な……貴様、まさか……!」
「バックウォーター現象だ。行き場を失った水は逆流し、水位を一気に押し上げる。……この美しいテラスも、その下の酒蔵も、泥水に沈むことになるなぁ」
ガバリエが立ち上がり、グラスをテーブルに叩きつけた。
「き、貴様ら……! そんなことをすればタダでは済まさんぞ! 我が私兵団を差し向け、村ごと灰にしてやる!」
予想通りの反応だ。武力による報復。それが権力者の常套手段だ。
三人の村長が怯えて後ずさる。だが、俺は動じずに鼻で笑った。
「灰にする、か。……できるといいな」
「何だと?」
「その兵隊たちだが……『戦える状態』ならいいんだがな」
俺の合図と共に、まずドワーフのトルバルドが一歩前に出た。
「……ガバリエ様。俺たちドワーフは、もうあんたの兵隊の剣も鎧も修理しねぇ。新しい武器も作らねぇ」
続いて、蜥蜴人のサハギンが進み出る。
「……我々もだ。兵糧の干し魚は、今後一切納めない」
最後に、ムロックが震える声を張り上げた。
「……へ、兵隊様たちの軍服や下着に使っている月光綿も、もう織りません!」
ガバリエはあっけにとられたように口を開けた。
「な、何を……気でも狂ったか? 取引停止だと? そんなことをすれば困るのは貴様らのほうだぞ!」
「いいや、困るのはあんただ」
俺は冷ややかに告げた。
「あんたの自慢の私兵団は、装備も食料も衣服も、すべてこの三つの村に依存している。……武器は錆びつき、腹は減り、パンツも履けない兵隊に、戦争ができると思うか?」
「なっ……!?」
ガバリエの顔が蒼白になる。彼は気づいていなかったのだ。自分の足元が、誰によって支えられているのかを。
「やってみろよ、皆殺しを。……そうすれば、あんたの富の源泉も消える。ドワーフの鍛冶技術も、蜥蜴人の漁も、月光綿の栽培も、全部『替えが効かない』技術だ」
俺はガバリエに歩み寄り、至近距離で囁いた。
「あんたが守りたい『優雅な生活(美学)』は、こいつらの『泥だらけの手』が支えてるんだよ。……その手を切り落としたら、泥まみれになって野垂れ死ぬのはあんたのほうだ」
カチャン、と乾いた音がした。ガバリエの手から、ポマリスの瓶が滑り落ちて砕けたのだ。
彼はわななき、唇を震わせ、やがて力なく椅子に崩れ落ちた。プライドという名の背骨をへし折られ、ただの無力な中年男に成り下がった瞬間だった。
「……勝負ありだな」
俺は後ろを振り返り、リンネアに合図を送った。
「リンネア先生。契約書を」
「はい」
リンネアが凛とした表情で進み出て、羊皮紙をテーブルに広げた。
『水利権確認書・兼・不可侵条約』。水利税の撤廃と、三村への不可侵、およびインフラ整備への投資を約束させる屈辱的な契約書だ。
ガバリエは震える手で羽ペンを取り、屈辱に顔を歪ませながら署名した。
***
館を出た頃には、日はすっかり沈んでいた。
「やった……やったぞ!」
ムロックたちが、子供のように抱き合って喜んでいる。長年彼らを苦しめてきた重石が、ようやく取れたのだ。
「翔一さん……本当に、ありがとうございました!」
ムロックが涙を流して俺の手を握る。俺はその手を軽く振り払った。
「礼なら金でくれ。……と言いたいところだが、現物はもらってるからな」
俺は懐から、別の羊皮紙を取り出して眺めた。
『月光綿・最高級糸独占販売権』。これがあれば、街に戻って商売を広げるときに大きな武器になる。
「……翔一。あなた、本当に悪党ですね」
リンネアがあきれたように、しかしどこか嬉しそうに言った。
「褒め言葉として受け取っておくよ。……さて、戻るか」
「戻るのですか? ククルカ村へ?」
「ああ。今日はもう一泊だ。祝勝会で、最高級のポマリスをおごらせてやるさ」
俺たちはガルムの待つ馬車に乗り込んだ。背後の館では、まだガバリエが床にこぼれた酒を呆然と眺めていることだろう。
気取ったテラスで味わう美酒より、泥だらけの連中と騒ぐ夜のほうが、今の俺には性に合っている。
俺は夜空に浮かぶ月を見上げ、ニヤリと笑った。
(第三章 第八話 完)




