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第五話『渇きの代償と、逆転の封鎖』

 静まり返った『白兎亭』のロビーに、不穏な空気が張り詰めていた。

「金貨五枚……ですって?」

 突きつけられた請求書を見て、リンネアが信じられないという顔で声を震わせた。

 金貨五枚。日本円にして約二十五万円。

 たかが一泊二食、しかも「銀貨一枚」と謳っていた宿の請求額としては、常軌を逸している。

「内訳はどうなっているのですか!」

 リンネアの抗議に、ムロックは悪びれる様子もなく、指で項目をなぞってみせた。

「ええ、明朗会計ですよ。宿泊費は銀貨一枚。ですが、当村独自の『村内空気清浄税』『景観維持協力金』『深夜警備費』……これらが加算されております」

「そんな馬鹿な! 昨日の説明にはありませんでした!」

「契約書に『村の規定に基づく諸経費を支払う』という一文があったはずです。お客様はそれにサインされた。つまり、合意の上での契約成立です」

 ムロックの口調は、慇懃無礼そのものだった。昨日の好々爺の面影はどこにもない。そこにあるのは、獲物を罠にかけた狩人の、冷酷で狡猾な目だった。

「お支払いが確認でき次第、お預かりしている馬と馬車はお返しします。……払えないのであれば、残念ですが『債務不履行』として、担保物件(馬車)を処分させていただきますが」

「ふざけるな!」

 ガルムが剣に手をかける。

 だが、ムロックは眉一つ動かさない。

「おや、暴力ですか? いいでしょう。そうなれば、我々は即座にこの先の都市へ走り、領主の騎士団に通報します。『無銭宿泊のうえ、宿の主人を脅迫した凶悪犯がいる』とね」

 完璧な脅しだった。逃げ足の速い兎人族を捕まえるのは困難だ。もし通報されれば、俺たちは指名手配犯として追われることになる。

「……待ちなさい」

 ガルムを制して前に出たのは、リンネアだった。彼女の碧眼が、冷ややかな怒りに燃えている。

「その請求は、法的に無効です」

 彼女は、法律家プロとしての顔で断言した。

「たとえ契約書に一文があったとしても、このような重要な不利益事実を事前に説明せず、後から過大な請求を行うことは、『信義誠実の原則』に反します。また、『空気代』や『景観税』など、対価性のない一方的な暴利行為は『公序良俗違反』により、契約そのものが無効です!」

 正論だ。一点の曇りもない、完璧な法的反論。

 だが、ムロックはニヤリと笑った。

「おやおや……あなた様のご職業は、弁護士様か何かでしょうか? ですが……先生。まさか、契約書の『裏面』をお読みにならなかったのですか?」

「……え?」

「裏面の第百二十八条『特別料金規定』。そこには明確に『キャンペーン期間中は、別途の協力金を申し受ける』と記載し、金額も明示してあります。文字は小さいですが、読めないほどではありません」

 ムロックは、あきれたように肩をすくめた。

「それに、我々は聞かれたことには正直にお答えしております。お客様が裏面について質問されなかったので、ご納得いただけたものと判断し、説明を省略したまでです。……まさか、法律家がご職業であるとすれば、契約書の裏面を確認せずにサインなさったということはないですよね? ご自身の『確認不足(過失)』を棚に上げて、貧しい我々を『詐欺師』呼ばわりするとは……随分と傲慢な言い草ですなぁ」

「っ……!」

 リンネアが言葉に詰まる。完全に、彼女の落ち度だ。相手が善人だと信じ込み、プロとしてあるまじき確認漏れを犯した。その羞恥心と、自らの未熟さを指摘された衝撃で、彼女は反論の言葉を失ってしまったのだ。

「……ぐ、ぬぅ……」

 リンネアが悔しげに唇を噛み、俯く。ムロックが勝ち誇ったように鼻を鳴らした。

「お分かりいただけたようですな。では、お支払いを……」

「――はぁ。真面目すぎるんだよ、優等生ちゃんは」

 そのとき、俺は深いため息をついて、前に出た。リンネアの肩をポンと叩き、後ろへ下がらせる。

「……翔一くん?」

「下がってろ。ここからは、泥仕合(俺の領分)だ」

 俺はカウンターに歩み寄り、突きつけられた請求書を指先で弾いた。紙切れが、乾いた音を立てて床に落ちる。

「……何をするんですか」

 ムロックの目が細められた。

「じいさん。民事の理屈で勝ったつもりか? リンネア先生は優しいから『契約の有効性』なんて高尚な議論に付き合ってくれたが……俺は違うぞ」

 俺は、ムロックの顔を至近距離から覗き込んだ。

「あんたがやってるのは『商取引』じゃない。衛兵詰め所行きの、『詐欺』および『恐喝』だ」

「……なっ?」

「安いと誤信させて契約させるのは『詐欺』。馬車を隠して使えなくする行為は『器物損壊』。それを盾に金を巻き上げるのは『恐喝』だ。担保権の行使? 寝言は牢屋で言え。俺たちはこれから『大図書館都市』へ行く。そこには領主の騎士団も駐屯しているよな? ここから徒歩で脱出して、騎士団に通報したらどうなると思う?」

「ふん、脅しか。我々が事情を話せば……」

「『たかが金貨五枚の民事トラブル』と、『旅人の財産を組織的に強奪・隠匿した山賊村』……騎士団がどっちを重く見ると思う?」

 ムロックの顔色が、さっと変わった。俺はさらに追い打ちをかける。

「騎士団ってのは、面倒ごとが嫌いなんだ。いちいち民事の仲裁なんかしない。だが、『街道の治安を脅かす山賊』となれば話は別だ。点数稼ぎのために、喜んで軍を動かすだろうな。……そうなれば、この村は焼き討ちだ。あんたはもちろん、村人全員が縛り首になるかもな」

 ハッタリだ。だが、半分は真実だ。治安維持部隊というのは、得てしてそういうものだ。

「さあ、選べよ、村長。金貨五枚のために村ごと焼かれるか、それとも銀貨一枚で手を打って、平和に商売を続けるか」

「……あ……あぁ……」

 ムロックの膝が震え始めた。根が臆病な兎人族だ。「騎士団」「焼き討ち」という単語の暴力に、思考が耐えられなくなったのだ。

「ま、待ってくれ……! 悪かった! 馬は返す! 通報だけは……!」

 ムロックはその場に崩れ落ちた。勝負ありだ。


          ***


 十分後。宿の裏手から、コクヨウと馬車が無傷で戻ってきた。ポポロが泣きながらコクヨウの首に抱きついている。俺たちは荷物を改め、村を出ようとした。

 だが、その背中に、悲痛な声が投げかけられた。

「どうか……どうかお慈悲を……!」

 振り返ると、ムロックが土下座をしていた。その後ろでは、武装していた村人たちも地面に座り込み、絶望的な顔でうなだれている。

 俺は足を止め、冷ややかに見下ろした。そこには、先ほどまでの狡猾な商人の姿はなかった。追い詰められ、震える、一匹の老いた兎がいるだけだった。


「……おい。金を巻き上げられなかったからって、なんでそこまで絶望的な顔をする?」


 ただの詐欺師なら、失敗したら逃げるか、舌打ちをする程度だろう。だが、ムロックの反応は異常だった。まるで、世界の終わりを見たかのような。

「……実は……事情が……」

 ムロックが掠れた声でつぶやく。

「……話くらいは聞いてやる。場所を変えるぞ」

 俺は短く告げた。ムロックは涙を流しながら、何度も地面に額を擦り付けた。


(第三章 第五話 完)

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