第三章 第三話『狼の対話と、隔世の血』
第三章 第三話『狼の対話と、隔世の血』
深夜。
草原の夜は、恐ろしいほどに静まりかえっていた。
風の音も虫の声も、全てが闇に溶けて消えている。あるのは、頭上に広がる満天の星空と、冷たく澄んだ空気だけだった。
俺たちは交代で見張りに立っていた。今は俺とガルムの番だ。
焚き火はとっくに消し、埋め戻してある。月明かりだけが頼りだった。
俺は寒さを紛らわせるために、ブランケットを肩まで引き上げた。異世界の夜は、昼間の暑さが嘘のように冷え込む。
「……静かすぎるな」
俺がポツリと呟くと、隣で剣の手入れをしていたガルムが、手をやめた。
「ああ。虫が鳴くのをやめた」
「え? 」
「何かが、来るぞ」
そのとき、繋いであったコクヨウが不安げに鼻を鳴らし、前足で地面を掻いた。
それまでわずかに聞こえていた風の音すら、ピタリと止む。
世界が息を止めたような、重苦しい静寂が訪れた。
「……全員起きろ」
ガルムの低く鋭い声が響いた。
仮眠をとっていたリンネアとポポロが、弾かれたように飛び起きる。
「何が来るんだ?」
「囲まれた。……風下から近づいてきやがった。匂いを消すためにな」
ガルムは剣の柄に手を掛けたが、抜こうとはしなかった。ただ、油断なく闇を見据えている。
やがて、草むらを音もなく分けて、六つの黒い影が現れた。
体長一メートル五十センチほど。通常の狼よりも一回り大きい。
月光に照らされた毛並みは、闇そのものを纏ったように濡れて黒く光っている。そして何より、その瞳には、獣特有の凶暴さとは違う、冷徹な知性が宿っていた。
ただの獣ではない。
「……ナイトウルフ(夜行狼)か」
ガルムが低く呟いた。
俺は万能斧を構え、前に出る。リンネアがポポロを背に庇い、護身用の短剣の柄に手をかける。
だが、狼たちは襲い掛かってこなかった。一定の距離を保ち、こちらを値踏みするように観察している。
「怖いけど……悪い匂いじゃない」
ポポロが背後で小さく呟いた。
その言葉に反応したのか、リーダー格と思われる一際大きな狼が、一歩前に進み出た。
ガルムが俺を手で制する。
「待て。手出しするな。……俺に任せろ」
彼は武器から手を離し、両手を広げて無防備な姿を晒した。
そして、喉の奥から低く、腹に響くような唸り声を発した。
「グルルル……ヴォフ、ガァ……」
それは威嚇ではなく、まるで歌うような独特の抑揚を持っていた。
空気そのものを震わせるような、重低音の響き。
リーダー狼が耳をピクリと動かし、同じような唸り声で応える。
「……会話してるのか?」
「狼族の言語ですね」
リンネアが驚きを隠せずに囁く。
ガルムと狼の対話は数分続いた。俺には唸り声の応酬にしか聞こえないが、そこには明らかな意思の疎通があった。張り詰めていた殺気が、少しずつ和らいでいくのを感じる。
やがて、ガルムがこちらを振り返った。
「『通行料』を払えば見逃してくれるそうだ。彼らは腹を空かせている」
「それだけか? 襲ってくるつもりは?」
「今のところはない。彼らは無益な争いを好まない、誇り高い種族だ。ただ、群れの子供たちが飢えているらしい」
ガルムの視線の先には、群れの後ろに隠れるようにしている、あばら骨の浮いた痩せた子狼たちの姿があった。
俺は腰の袋から干し肉を取り出した。貴重な食料だが、命には代えられない。それに、ここで恩を売っておくのは悪い取引ではない。
「分かった。これを持っていけ」
俺は干し肉の半分を、放り投げずに丁寧に地面に置いた。
リーダーがガルムを見やる。ガルムが短く唸ると、狼たちは警戒しながらも肉に近づき、子狼たちに分け与え始めた。
ハフハフと肉を貪る子狼たちの姿は、そこらの犬と変わらない。
「……いい仲間を持ったな、と言っている」
ガルムが少し照れくさそうに通訳した。
狼たちは肉を食べ終えると、リーダーが一鳴きして群れをまとめた。
去り際、リーダーはガルムの近くまで歩み寄り、その濡れた鼻先を、ガルムの手に一度だけ押し付けた。
それは、種族を超えた敬愛の証に見えた。
***
夜明けとともに、狼たちは草原の彼方へと消えていった。
朝霧の中、出発の準備をしながら俺はガルムに声をかけた。
「助かったよ、ガルム。……それにしても、やはり酒場の噂は本当だったんだな」
ガルムは荷物を縛り上げながら、背中越しに答えた。
「……噂?」
「とぼけるなよ。お前が『獣人』だって話だよ。狼と会話できるなんて、もう言い逃れできないだろ」
俺の言葉に、ガルムの手が止まった。
彼は観念したように息を吐くと、ゆっくりと振り返り、どこか遠い目をした。
「……ひいばあちゃんが、狼族だったんだ。俺は隔世遺伝(先祖返り)ってやつだな」
彼は作業の手を止めずに、淡々と語った。
「血は薄いから、見た目は人間と変わらん。耳も尻尾もないしな。だが……こういうときには役に立つ」
「役に立つどころじゃない。お前がいなけりゃ、今頃俺たちは狼のえさだ」
俺は正直な感想を伝えた。ガルムはふん、と鼻を鳴らしたが、その表情は昨日よりも穏やかに見えた。
「ガルムおじさんも獣人さんなの?」
ポポロが荷台から顔を出し、純真な瞳で問いかける。彼には酒場の噂話など関係ない。ただの純粋な興味だ。
「僕と同じ? でもフサフサじゃないよ?」
「ああ、お前ほど立派な尻尾はないさ。だが、遠い親戚みたいなもんだ」
ガルムはポポロの頭を、大きな手で無造作に撫でた。ポポロは嬉しそうに目を細める。
俺は改めて、この凸凹なパーティーを見回した。
元悪徳弁護士の人間、生真面目なエルフ、純真な獣人の子供、および狼の血を引く用心棒。
共通点は何もない。だが、昨夜の焚き火と狼たちとの対話が、俺たちを少しだけ「仲間」に近づけた気がした。
「よし、出発するぞ。次の街までには、もう少しマシな文字が書けるようになれよ、翔一」
「へいへい、努力しますよ、先生」
俺は御者台に上がり、手綱を振るった。
車輪が回り出し、俺たちは朝日に輝く草原の海へと再び漕ぎ出した。
(第三章 第三話 完)




