第三章 第二話『夜営の掟と、泥だらけの文字』
第三章 第二話『夜営の掟と、泥だらけの文字』
あれから数時間。俺たちはいくつかの道標を越え、襲撃の気配もなく平穏な――しかし尻には過酷な旅路を進んでいた。
乾いた土を噛む車輪の音だけが、広大な草原に響いている。
夕日が地平線の彼方に沈みかけ、空が茜色から深い群青へと、暴力的なまでに鮮やかなグラデーションを描き始めている。
俺は馬車の御者台で、尻の痛みに悶絶しながら手綱を握りしめていた。
「…………なぁ、そろそろ休憩しないか? 俺の尻が、そろそろ限界を迎えて分裂しそうなんだが」
情けない声を上げる俺に、隣で足をぶらつかせているポポロがクスクスと笑う。狐の耳が、楽しげにピコピコと揺れていた。
「翔一、軟弱だなあ。僕は全然平気だよ? 尻尾があるからクッションになってるのかな?」
「お前は子供で体が軽いからだろ…………こっちは大人の重量が全て尻の一点に集中してるんだよ。この馬車のサスペンション、絶対設計ミスだって」
俺は毒づきながら、周囲の景色に目を向けた。
午後になって、それまでの視界を遮っていた背の高い草の壁を抜けると、景色が一変していた。
見渡す限りの緑の草原が広がっている。午前中までの密生した茂みとは打って変わって、膝丈ほどの草が風に揺れ、視界はどこまでも開けていた。
風が運んでくる匂いも変わった。湿った土の匂いから、乾いた草と埃の匂いへ。それは、俺たちが人間の生存圏を離れ、本格的な「原野」へと足を踏み入れたことを告げていた。
俺が呻いていると、馬車の脇を黙々と歩いていたガルムが、不意に足を止めた。
彼は鼻をひくつかせ、湿った指を空に掲げて風向きを確認する。その仕草は、熟練の猟師そのものだった。
「…………ダメだ。ここは開けすぎている」
ガルムの低い声が風に乗る。
「え? でも見晴らしがいいし、敵が来てもすぐに分かるんじゃないか? 奇襲される心配はないだろ」
「逆だ。敵からも俺たちが丸見えになる。それに、風が強すぎる」
ガルムは足元の草を引き抜き、パラパラと落とした。草は真横に流れていく。
「焚き火の煙が真横に流れて、数リーグ先からでも位置が特定されるぞ。暗闇の中で『ここに獲物がいます』と狼煙を上げるようなもんだ」
「…………なるほど。確かに自殺行為だな」
俺は周囲を見回した。確かに、隠れる場所もなければ、風を遮るものもない。ここでの野営は、外敵に対してあまりに無防備だ。
「じゃあ、どこで休むんだ?」
「もう少し先だ。地形が少し隆起している場所があったはずだ。…………風下に向かうぞ」
ガルムの判断は的確だった。
さらに三十分ほど馬車を進めると、緩やかな丘の中腹に、風化して半ば崩れかけた岩陰を見つけた。馬蹄のような形に岩が配置されており、風を避けつつ、こちらからは周囲を見渡せる絶好の場所だ。
背後は岩壁、前方は開けた視界。攻めるに易く守るに堅い。
「ここにしよう。馬車は出口に向けて、いつでも出られるように停めろ」
「了解。緊急時の脱出用の確保だな」
俺は感心しながら、コクヨウを誘導して馬車を定位置に着けた。
***
野営の準備は、まるで軍隊のように組織的かつ迅速だった。
リンネアが手際よく荷台から食料を降ろし、ポポロは鼻を利かせて周辺の警戒と、燃えそうな乾いた牛糞や枝集めを担当する。
俺はガルムの手伝いをしようと、彼に近づいた。
「俺は何をすればいい? 薪なら集めてくるが」
「いや、お前はそこに座って見ていろ」
ガルムは素っ気なく言い放ち、腰から携帯用のスコップを取り出した。
「見ていろって…………俺も手伝うぞ。働かざる者食うべからず、だろ」
「素人が下手に手を出すと、全員が死ぬことになる」
ガルムの言葉には、拒絶ではなく、真剣な警告が含まれていた。彼は俺の目を真っ直ぐに見据えて続ける。
「お前は火の扱いを知らない。都市育ちの人間は、火といえば暖炉やコンロしか思い浮かばないだろう。だが、ここでの火は命綱であり、同時に死を招く標的灯だ」
「…………手厳しいな」
「事実だ。湿った薪を使ったり、空気の通り道を間違えれば、白い煙が立ち上る。だから、まずは俺のやり方を黙って見て、目に焼き付けろ」
そういうと、ガルムは岩陰の地面に直径三十センチほどの穴を掘り始めた。深さは三十センチほど。さらに、そこから少し離れた風上側にもう一つ、小さな穴を掘り、地中で二つの穴をトンネルで繋げた。
「…………なぁ、ガルム。煙を出したくないなら、街で買った『封火罐』を使えばいいんじゃないか? 銀貨三十枚もしたんだぞ」
俺の指摘に、ガルムは手を止めずに答えた。
「あれは雨天時や、緊急で移動しながら煮炊きするためのものだ。消耗品の魔石を使う。
…………ここでは枯草もあれば、時間もある。使えるときは自然のものを使え。道具に頼り切りになれば、いざというときに死ぬぞ」
正論だ。俺はぐうの音も出ないまま、彼の作業を見守った。
「これは…………」
完成した穴の形状に、俺は見おぼえがあった。元の世界のアウトドア雑誌やサバイバル動画で見たことがある知識だ。
「…………ダコタファイアーホール、か」
「ん? なんだその奇妙な名前は」
「いや、こっちの話だ。俺の故郷にも似たような技術があるんだよ。煙を極力出さず、少ない燃料で高火力を得られるカマドだろ?」
ガルムは意外そうに眉を上げた。
「ほう…………温室育ちにしては知恵があるな。その通りだ。風上の穴から新鮮な空気が入り込み、燃焼効率を上げる。炎は穴の中で燃えるから外からは見えず、完全燃焼に近いから煙もほとんど出ない」
どこの世界でも、生存への渇望は同じような発明に行き着くらしい。俺は妙な感動を覚えながら、ガルムが懐から『火種棒』を取り出し、枯草に火を点ける様を見守った。
吸い込まれるように空気が循環し、穴の底で赤い炎が静かに揺らめき始める。煙は驚くほど少ない。
火が安定すると、リンネアが鍋をセットした。今日の夕食は干し肉と豆のスープだ。
俺たちは配られた硬い鉄麦パンをスープに浸し、ふやけるのを待った。こうでもしないと、歯が何本あっても足りない。
煮えるのを待つ間、リンネアは鞄から蝋板と鉄筆を取り出しながら言った。
「さて、ご飯ができるまでお勉強の時間ですよ。翔一くん、ポポロ」
「えー、また勉強? 院長先生にもたっぷりやらされたのにー」
ポポロが不満げに頬を膨らませるが、リンネアは容赦なく二枚の蝋板を配った。教育ママのような圧力だ。
「ダメです。継続は力なり、ですよ。特にポポロは、将来立派な商人になりたいんでしょう? 契約書が読めなくてどうするんですか」
「むぅ…………分かったよぅ」
「はい、素直でよろしい。ポポロの今日の課題はこれ。『契約』と『報酬』」
「うわっ、画数多い…………」
ポポロに渡された板には、複雑な文字の手本が刻まれている。画数が多く、バランスを取るのが難しそうだ。
一方、俺に渡された板には。
「…………なぁ、リンネア先生。俺の板、なんかスカスカなんだが」
そこには、拍き抜けするほど単純な文字が三つだけ並んでいた。
「翔一くんはここからです。はい、『水』『火』『木』」
幼児向けの絵本に出てきそうな、基本中の基本の三文字だった。
「…………俺の扱い、ポポロより低くないか?」
「当たり前です」
リンネアはきっぱりと言い放った。
「ポポロは孤児院で基礎教育を受けていますからね。ある程度の読み書きはできます。
一方、今のあなたは、文字に関しては三歳児以下ですよ? いきなり難しい文字を教えて、変な癖がついたらどうするんですか」
「ぐっ…………正論すぎて腹が立つ」
「さあ、文句を言わずに手を動かす! 流文字は流れを意識して刻むんです。カクカクさせないで、風が吹くように」
リンネアの手本を真似て、俺は蝋板に傷をつけていく。だが、どうにもバランスが悪い。ミミズののた打ち回ったような惨状だ。
鉄筆の力加減が分からない。力を入れすぎると蝋が削れすぎるし、弱すぎると線が見えない。
「ちっ、なんでこんなに難しいんだ…………六法全書の条文なら一瞬で覚えられるのに」
ふと隣を見ると、ポポロが舌を少し出しながら、器用に文字を刻んでいた。
「できた! リンネア、見て!」
「あら! 素晴らしいですポポロ! 『酬』の字のバランスが完璧ですね」
「えへへ、院長先生に褒められたことあるもん。この文字、お金の匂いがするから好きなんだ」
「…………動機が不純ですが、まあいいでしょう」
ポポロが得意げに胸を張る。
(……それにしても、覚えが早すぎないか?)
俺は心の中で舌を巻いた。孤児院で習っていたとはいえ、ポポロの上達速度は異常だ。昼間の食欲といい、この学習能力といい、やはり獣人の「成長」は人間とは違う時間軸にあるのかもしれない。
一方、俺の手元には、前衛芸術のような『水』の残骸が転がっている。
「…………くそっ、三十路手前で子供にマウント取られるとは…………」
プライドと実用性、および明確な敗北感の間で、俺はスープの香りが漂うまで鉄筆と格闘し続けた。
やがて、夜が訪れた。
「獣除けの火よりも、位置がバレるリスクのほうが高い」というガルムの判断で、焚き火は完全に埋め戻された。
静寂と闇が支配する時間。
俺たちは、見えない何かに囲まれているような、肌を刺すような緊張感を感じ始めていた。
(第三章 第二話 完)




