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第三章 第一話『鉄の味のするパンと、草原の洗礼』

第三章 第一話『鉄の味のするパンと、草原の洗礼』


 ガタンッ――尻の下で板が跳ねた。


 その衝撃は容赦なく背骨を突き抜け、脳天を揺らし、俺の口から恥も外聞もない呻き声を絞り出させる。


「…………ぐぇ」


「翔一くん、舌を噛みますよ」


 向かいの席で、リンネアが涼やかな声で忠告しながら、まるで凪の海を行く船の上にでもいるかのように、落ち着いた手つきでページをめくった。


 彼女の細く白い指先は、分厚い革表紙の本――いつもの判例集の上を音もなく滑っている。


 非識字者イリテレイトの俺にはミミズののたうち回っているようにしか見えないあの文字の羅列を、この揺れの中で目で追えるとは。


「……相変わらず勉強熱心なこった。酔わないのか?」


「慣れですよ。それに、揺れに合わせて視線を動かせば問題ありません」


 揺れに揺れる車内だというのに、彼女の体はまるで水平器レベルのように微動だにしない。いったい体幹はどうなってるんだ、このエルフ。まるで重力が彼女だけを特別扱いしているかのようだ。


「……なぁ、リンネア先生。あとどれくらいで休憩だ?」


 言いながら、俺は痛む腰をさすった。尻の骨が悲鳴を上げている。


「さっき出発したばかりでしょう。まだ『一の砂』も落ちきっていませんよ」


 リンネアは視線を本から外さず、顎で横をしゃくった。その仕草には、まるで数百回も同じ質問に答えてきたかのような、穏やかな倦怠感が滲んでいる。


 御者台との仕切り窓の横に、木枠で固定された砂時計が吊るされている。さらさらと落ちる白い砂は、時の流れを淡々と刻みながら、まだ半分も減っていない。あれが全部落ちて、ようやく小鐘一つ分(約一時間)だ。


「マジかよ……」


 俺は深いため息をつき、窓の外を眺めた。


 振り返ると、出発地の辺境都市リムガーレの灰色の城壁が、陽炎に揺らめきながら、まだ遠くに見えていた。一時間足らずの移動だ。距離にして一リーグ(約五キロ)弱。視界を遮るものがなければ、見えていて当然だ。


 異世界の道が悪路だとは聞いていたが、ここまでとはな――。


 しかし、馬車が緩やかな起伏を越え、背の高い草むら――大人の背丈ほどもある荒々しい茂みに突入すると、その人工的な直線は、あっという間に緑の波に飲み込まれてしまった。まるで文明が、自然という圧倒的な存在に敗北を認めたかのように。


「……へえ。こりゃすげえ。前も後ろも草の壁だ」


 俺は思わず声を漏らした。


 そこにあるのは、どこまでも続く緑の大地と、視界を塞ぐほどの生命力に満ちた植物群。日本の整然と管理された森林とは、まるで別の生き物だ。どこか野性味あふれる、食うか食われるかの原始的な気配が、風に乗って漂ってくる『未開の沃野』――。


 俺たちが目指す北の大陸中央部へは、この無法地帯を八十リーグ(約四百キロ)も突っ切らなければならない。


 現代日本なら、コンビニで缶コーヒーでも買いながら、高速道路を使って半日のドライブだ。音楽でも聴きながら、快適なシートに身を預けて。


 だがここでは、尻の痛みに耐えながら、野獣や盗賊の脅威に怯えながらの、十日間のサバイバルツアーとなる。


「おーい! あそこに『竜骨』が見えてきたよー!」


 御者台から、ポポロの高い声が響いた。その声には、子供らしい無邪気な興奮が混じっている。


 俺は窓から首を出す。


 進行方向、揺らめく草の海の向こうに、真っ白な何かが突き出ているのが見えた。高さ三メートル(三メイル)ほどの、白亜の石柱だ。根本には青々とした『水瓶樹』が植えられ、そこだけが濃い影を落としている。まるで、命の灯台のように。


 ――『竜骨の道標ドラゴ・ポスト』。


 一リーグごとに設置された、旅人の生命線だ。かつてこの地を支配した古代人が、竜のあばら骨を模して作ったと言われるその石柱は、緑の海原の中で、異世界の深淵を感じさせる異様な存在感を放っている。


「よし、ポポロ。あの道標を越えたら交代だ。砂時計もちょうど落ちきる。」


「はーい! でも僕、まだ全然疲れてないよ?」


「俺の尻が限界なんだよ」


 俺は苦笑し、天井をドンと叩いて合図を送った。ポポロの笑い声が、風に乗って聞こえてくる。




          ***



 道標の影に馬車を停め、俺たちは遅い昼食をとることにした。


 外に出ると、草原特有の湿った風が、絶え間なく吹き付けてくる。


 頭上では太陽がジリジリと容赦なく肌を焼いているが、水瓶樹の木陰に入ると、驚くほど涼しい。まるで自然が旅人に与える、ささやかな慈悲のようだ。


「ほら、翔一。配給だよ」


 御者台から軽やかに飛び降りたポポロが、麻袋から無造作に何かを取り出し、俺に放り投げた。


 ゴツッ、と鈍い音を立てて掌に収まったそれは、石ころ――ではない。


「……出たな。『鉄麦』のパン」


 俺は小さく呻いた。


 黒く焼き締められた、握り拳大の塊。保存性だけを追求し、味と柔らかさを悪魔に売り渡した携帯食料だ。文明の利器というより、拷問器具に近い。


 俺はそれをコンコンと道標の石柱に叩きつけた。カツン、カツンと乾いた音が響く。石柱のほうが少し削れた気がする。いや、錯覚じゃないかもしれない。


「文句を言わない。スープに浸せば食べられます」


 リンネアが足元に置いた真鍮製の箱――『封火罐ふうかかん』のダイヤルに指をかけた。


 昨日買ったばかりの新品だが、彼女はガルムから教わった手順を反芻するように、慎重に操作していく。


 パシュッ、と空気が吸い込まれる音がして、箱の中に密閉されていた『種火石』が赤熱し、陽炎が立ち上る。魔法のような技術だが、この世界では当たり前の道具なのだろう。


 彼女はその上に小鍋を置き、手際よく干し肉のスープを温め始めた。


 便利な道具だが、燃料の石が高いのが玉に瑕だ。出発前にガルムに脅されて高い『一か月用』を買わされたが、正解だった。


 予備の『火種棒』もあるが、あれは擦って火をつけるマッチのようなものだ。この吹きさらしの中で、いちいち火種を作って薪に燃え移らせようとしていたら、日が暮れていただろう。


 俺は配られたスープに石のようなパンを放り込み、ふやけるのを待った。じっと見つめていると、パンは頑なに硬さを保ち続けている。まるで意地でも柔らかくなることを拒否しているかのようだ。


 その横で。


「いっただきまーす!」


 ガリッ! ボリボリボリ!


 ポポロが、スープに浸すこともなく、鉄麦パンを豪快に噛み砕いていた。子狐のような鋭い犬歯が、硬いパンを煎餅か何かのように粉砕していく。咀嚼音が、静かな草原に響き渡る。


「……お前、その石ころを噛み砕いたのか? 顎はどうなってんだ」


 俺はあきれたように言った。


「ん? おいしいよ? 噛むと甘いし」


 ポポロはケロリと言って、あっという間に一つを平らげた。その満足そうな表情は、まるで高級レストランの料理を堪能したかのようだ。


「翔一、おかわり!」


「は? もう食ったのか? 俺はまだ一口も食ってねえぞ」


「だってお腹空くんだもん。体が燃えてるみたいに熱いんだ」


 ポポロは服の裾をパタパタさせて、もっと寄越せと手を伸ばしてくる。その仕草は無邪気で、まるで幼い子供のようだ。


 その食欲に、俺は少しだけ呆気にとられた。


(……成長期にしては早すぎるか?)


 俺の脳裏に、以前リンネアから聞いた言葉が過ぎる。獣人の寿命は短い。人間よりも遥かに速い速度で大人になり、そして老いていく――。


 目の前でパンを貪る小さな背中が、急に儚いものに見えた。この子は、俺が思っているよりもずっと速く、大人になって、そして去っていくのだろうか。


 胸の奥が、小さく痛んだ。


「――来るぞ」


 不意に、低く重い声が響いた。


 それまで黙々とパンを齧っていたガルムだ。彼は半眼のまま、街道脇の背の高い草むらを、まるで壁の向こうを見通すかのように睨んでいる。


「え?」


 俺が聞き返すよりも早く、ポポロの耳がピクリと動いた。獣人特有の鋭敏な聴覚が、風で揺れる草鳴りの音に混じって、別の音を捉えたらしい。


「……臭い! 獣の匂い!」


 ポポロの声に、緊張が走る。


 ガサガサガサッ!


 草の波を強引に割り、巨大な影が飛び出した。


 岩のようにゴツゴツとした皮膚を持つ、灰色の猪――『岩猪ロックボア』だ。軽自動車並みの巨体が、鼻息荒くこちらへ突進してくる。狙いは馬のコクヨウか、それとも食料か。地面が振動し、空気が震える。


「うわっ、デカい!」


 俺は反射的に腰へと手を伸ばし、バルドゥルから貰ったばかりの『万能工兵斧』の柄を握りしめた。


 隣ではリンネアが息を呑み、咄嗟に身を硬くしてポポロを背に庇おうとする。


 心臓が激しく脈打ち、喉が渇く。素人が対応できる相手じゃない。


 だが、それより速かったのは、やはりあの男だった。


 ガルムは剣を抜かなかった。


 ただ、食べかけのパンを懐にしまうと、億劫そうに立ち上がり――ゆらりと前に出た。その動きは、まるで朝の散歩にでも出るかのような、恐ろしいほどの余裕に満ちていた。


 ブモォオオッ!


 岩猪が加速する。地面を揺らす轟音。土煙が舞い上がる。衝突まであと数メートル(メイル)。


 ガルムは避けない。


 正面からぶつかる直前、彼は半歩だけ体を沈め、すれ違いざまに――拳を突き出した。


 ドォン。


 重く、鈍い打撃音が響く。空気が震えた。


 岩猪の巨体が、慣性のまま数メートル滑り――そして、糸が切れた人形のように、崩れ落ちた。痙攣すらしていない。即死だ。


 静寂が訪れる。


 風が草を揺らす音だけが、やけに大きく聞こえた。


「……硬いな。肉質が悪そうだ」


 ガルムは痛くもなさそうに拳を振ると、何事もなかったように戻ってきて、パンの続きを齧り始めた。その表情には、何の感慨も浮かんでいない。


 俺とリンネアは、開いた口が塞がらなかった。


 魔法も、剣も使っていない。ただの『一撃』で、岩をも砕く猪を沈めたのか。まるで、虫でも払うかのように。


「……とんでもねえ用心棒を雇っちまったもんだ」


 俺は乾いた笑いを漏らし、スープの中でようやく柔らかくなったパンを口に運んだ。


 ジャリッ。


 嫌な音が脳内に響く。


 さっきの攻防で巻き上げられた土煙が、器の中に入り込んでいたらしい。口の中に広がるのは、粗末な麦のざらついた味と、砂の感触。そして、どこか鉄のような、血のような、土の匂い。


 これが、俺たちの旅の始まりの味だった。


 前途多難を予感させる、苦く、ざらついた、しかし妙に心に残る――異世界の味だった。




(第三章 第一話 完)


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