第三話『異界の審判(前編)』
第一章 第三話『異界の審判(前編)』
鼻先数センチ。突きつけられたナイフの切っ先が、わずかな震えもなく静止している。
その事実だけを、田中翔一は冷ややかに受け止めていた。
目の前の少女が、敵意と共に何事かを鋭く問いかけてくる。意味不明な音の羅列。だが、その声の響きに、焦りと、わずかな恐怖が混じっているのを、彼は聞き逃さなかった。
(……殺意よりも、恐怖か。脅えているのは、むしろそっちだな)
言語による対話は不可能。だが、それでも彼は、自らの土俵に相手を引きずり込むための、最初の一手を打った。
「……正当防衛か、それとも強盗か。
あるいは、公務執行のつもりか? いずれにせよ、名乗りもせずに凶器を向けるのは、感心しないな」
当然、彼の日本語は、少女の眉をさらに険しくさせるだけの結果に終わる。言葉の壁という絶望的な断絶。しかし、互いの瞳に宿る意志だけは、痛いほど伝わっていた。
翔一の、全てを分析し、値踏みするような冷徹な眼差し。
少女の、敵意はあるが昏さのない、澄み切った瞳。排除するためではなく、目の前の異物が何者なのかを、懸命に見極めようとする目。
二つの視線が、真っ直ぐに結ばれる。しかし、それは惹き合う男女のそれではない。同じ極を向けられた、二つの強力な磁石。近づけば近づくほど、互いを激しく弾き飛ばそうとする、絶対的な反発力だけがそこにあった。
膠着状態を破ったのは、少女の方だった。
彼女は、業を煮やしたように一歩踏み出すと、これまでとは違う、どこか公的で硬質な響きを持つ言葉を、宣言するように言い放った。
「シルヴァヌス・レクス、エゴ・テ・カプタラ!」
――レクス。
その響きに、翔一の思考が反応する。ラテン語の『法』。ありえない。
翔一は、少女の言葉の意味までは分からなかった。しかし、彼女の行動は雄弁にその意図を物語っていた。
一歩踏み出し、ナイフの切っ先を、威嚇ではなく明確な『制圧』の意志を持ってこちらに向ける。そして、「法」に似た単語を口にした。
その二つの状況証拠から、彼の弁護士としての脳が、最も可能性の高い結論を弾き出した。
(……なるほど。『法』の名の下に、俺を『拘束』する、ということか。逮捕権の行使か? だが、令状は? 適正手続きの原則は、この世界には存在しないのか?)
その瞬間だった。
ぶわり、と世界が歪むような、奇妙な浮遊感が二人を包んだ。
『――何者なの、この男は!?』
少女の思考が、完璧な日本語として、翔一の脳内に直接響き渡る。
同時に、彼の思考――『……令状は? 逮捕の理由は?』という問いが、流暢な大陸共通語として、少女の脳を揺さぶっていた。
「……え?」
二人の声が、完全に重なった。
「……いま、あなたの考えていることが……?」
少女が、信じられないものを見るような目で、翔一を見つめる。
「……そっちこそ。お前の声が、日本語に聞こえる……いや、違う。脳に直接、意味が……?」
このありえない現象と、目の前の少女の、長く尖った耳。幼い頃に読んだ物語に登場した、伝説の種族。それらが、彼の頭の中で、一つの結論を形作る。
(……エルフ、だと? 馬鹿な。そんなファンタジーごっこが……。だが、この耳、この現象。消去法で残る答えは、それしかないのか)
彼は、不本意ながら、自らの論理が導き出した結論を受け入れざるを得なかった。死んだはずの自分が、科学法則の通用しない、別の世界に来てしまったのだ、と。
***
「まず、確認から始めよう」
混乱から立ち直り、即座に弁護士モードに切り替わった翔一が、主導権を握ろうと口火を切った。
「状況を整理しよう。その特徴的な耳……俺の知識にある『エルフ』という種族と一致する。間違いないか?」
驚きに目を見開く少女の反応を見て、彼は一つ目の仮説が正しかったことを確信する。
「次に、この場所についてだ」
翔一は、自分の周囲の空間を、まるで現場検証するかのように見回した。
「君が俺を最初に見つけたときの反応……。あれは、ただ見知らぬ男が倒れていた、という驚きではなかった。もっと根本的な、『ありえないものが、ありえない場所に存在する』ことへの、純粋な狼狽だった。……図星だろ?」
彼は、少女の表情から、その推論が核心を突いていることを読み取った。
「ここは、ただの森ではない。何らかのルール……あるいは、結界か何かで、部外者の立ち入りが禁じられている、特別な場所だ。違うか?」
「なっ……!」
少女の頬が、怒りで朱に染まった。「なぜ、そこまで……! あなた、一体何者なのですか!?」
彼女は、翔一の全てを見透かすような目に、これ以上主導権を握らせてはならないと、本能的に感じた。
「待ちなさい! なぜ、あなたの一方的な質問に答えなければいけないのですか!」
リンネアは、腰につけた小さな革袋を、くいっと指さした。
「瀕死だったあなたに、私の貴重な『癒しの水薬』を使ったのですよ! 命の恩人に対して、先に質問する権利くらいあるはずです!」
その、あまりにシンプルで、しかし何よりも強い「正論」に、翔一は一瞬、言葉を詰まらせた。
「……癒しの、水薬?」
翔一の眉が、ぴくりと動く。
「なるほど、腹の傷が跡形もなく消えていたのは、そういうことか。非科学的だが、目の前の事実だ。……治療には感謝する。で、その薬の代金はいくらだ? 後で請求書を送ってくれ」
「だ、代金……!? あなたという人は、本当に……!」
少女――リンネアは絶句した。この男は、万物を金と権利でしか見ない、魂の穢れた傲慢な人間だと。
「俺の名前は、田中翔一だ」
この得体の知れない世界で、彼が自分自身であると証明できる唯一の記号。それは、彼のアイデンティティの最後の砦だった。
「君の名前は?」
「……リンネアです」
彼女は不満げに、しかし律儀に答えた。
その口論を遮るように、森の奥深くから、茂みをかき分ける音が響いた。
ガサッ、と音を立てて、一番近くの、見慣れない羊歯植物の茂みが大きく揺れる。
次の瞬間、そこから小さな影が、文字通り転がり落ちるように飛び出してきた。
それは、二本足で立つ、小さな人影だった。
しかし、人間ではない。
翔一の目に最初に飛び込んできたのは、その頭からぴんと生えた、二つの三角形の耳だった。
亜麻色の髪に混じって、恐怖に小刻みに震えている、紛れもない獣の耳。
次に、その顔。泥と涙で汚れてはいるが、その造作は人間の子供とほとんど変わらない。大きく潤んだ黒い瞳が、絶望に濡れている。
そして最後に、彼の視線は、その腰のあたりで不安げに揺れているものに釘付けになった。
継ぎ接ぎだらけの麻の服の裾から覗く、ふわふわとした豊かな栗色の尻尾。
(……耳だけじゃない。尻尾まで、あるのか)
彼の頭の中で、先ほど見た耳の尖った少女と、目の前の耳と尻尾を持つ子供が、一つのカテゴリーに分類されていく。
(……この世界では、人類はホモ・サピエンス一種ではない、ということか。耳長族に……こいつは、獣耳族、とでも呼ぶべきか)
翔一の思考が、即座に分析を開始する。
(年の頃は七、八歳。狐の系統か? 生態的地位は? 人間との関係性は?……クソ、情報が足りなすぎる)
子供は、すがるようにリンネアの足元へとしがみついた。
その直後だった。
森の奥から、複数の人間が、重い足音を響かせながら姿を現した。
三人。
いや、それだけではない。茂みの奥から、次々と武装した男たちが現れる。
十名……いや、それ以上。
完全武装した、一個分隊規模の兵士たちだ。
いずれも、日に焼け、無精髭を生やした屈強な男たち。揃いの、くすんだ動物の皮を硬化させたような鎧を身に着け、腰には使い古された剣を吊るしている。
装備は統一されておらず、粗雑だ。だが、その薄汚れた武具から漂う暴力の匂いは、丸腰の人間を萎縮させるには十分すぎた。
先頭に立つ、一際体格のいい、鼻に傷のある男――兵士長らしき男が、子供を指さした。
「おいおい、見つけたぜ。こんな所にいやがったか、『狐憑き』のガキが」
男は、懐から丸められた、黄ばんだシート状のものを取り出し、これ見よがしに広げてみせた。
そこに書かれているのは、翔一には判読不能な、ミミズがのたうったような文字の羅列。この大陸で使われている共通文字――『流文字』というらしいが、彼には全く読むことができない。
(……読めない、だと? この俺が……非識字者?)
(……紙、じゃないな。羊皮紙か? 博物館のガラスケース越しでしか見たことのない代物だが、まさか実用されているとはな)
「我々は、この森で禁じられている『魔力式』の罠を使った密猟者を追っている!
こいつは、我らが主、グレンジャー辺境伯様が発行された、正式な『取締命令書』だ!
『狐の獣人』を見つけ次第、拘束せよとある!
この土地の領主法に基づき、そのケダモノの身柄を確保する!」
(第一章 第三話 完)




