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第十話『狼の兵站学と、天秤の指輪』

 出発の前日。

 俺たちは最後の買い出しのため、市場を回っていた。

 同行者は、護衛兼荷物持ちのガルムと、監修役のリンネアだ。


「おい、その干し肉はやめておけ」

 食料品店で財布を取り出した俺の手を、ガルムの無骨な手が制止した。

「脂が多すぎる。街中で食うなら美味いが、旅の保存食には向かん。すぐに酸化して腹を壊すぞ」

 ガルムは棚の奥にある、石のように硬く乾燥した肉を顎でしゃくった。

「買うならあっちだ。『岩猪ロック・ボア』の塩漬け。味は落ちるが、三ヶ月は持つ」

「…………なるほど。専門家の意見に従おう」


 その後も、ガルムのダメ出しは続いた。

 水袋は「大角兎の革」では砂漠の乾燥で割れるため、少し値は張るが「地竜のなめし革」にしろ。

 塩は今の倍量買え。調理だけでなく、怪我の消毒にも使うし、魔獣除けの簡易結界にもなる。


 消毒、という言葉でガルムが俺たちを振り返った。

「そういえば、薬や包帯はどうした? 怪我をしてから探しても遅いぞ」

「ああ、それなら大丈夫だ。リンネアが持ってるらしい」

 俺が視線を向けると、リンネアが自信たっぷりに頷いた。


「ええ、任せてください。王都で作られた最高級の『救急医療箱』が事務所にありますから」

「ほう、それは頼もしい。いつ買ったんだ?」

「リムガーレに来たときに揃えたんです。つい最近ですよ」

「なんだ、新品か。……具体的には?」


 リンネアは小首を傾げ、さらりと言った。

「ほんの十年前です」


「…………」

「…………」

 俺とガルムの間に、冷たい沈黙が流れた。

 十年前。俺なら大学生の頃だ。薬効期限切れどころか、包帯が劣化してボロボロになっているレベルだ。


「……おい、雇い主」

「分かってる」

 俺たちは無言で頷き合うと、薬屋の棚にある新しい包帯と消毒用の火酒ウォッカ、傷薬をカゴに放り込んだ。

「え? ちょ、ちょっと翔一くん? まだ使えますよ!?」

「エルフの時間感覚にはついて行けん! 黙ってカゴを持て!」


 さらに道具屋では、俺がカゴに入れた安物の火打ち石セットを見てガルムが鼻で笑い、無骨な真鍮の筒と、いくつかの石を放り込んできた。


「『封火罐ふうかかん』と『種火石たねびいし』だ。それも一週間用じゃなく、一ヶ月用の高いやつを買え」

「い、一ヶ月用? これだけで銀貨三十枚もするぞ!?」

「ケチるな。移動中の煮炊きは速さが命だ。煙を出して位置をバラしたくなければな」


 さらにガルムは、黒い棒のようなものと、木枠に入った砂時計も追加した。

「それと予備の『火種棒イグニス・ロッド』。こっちは野営用だ。あと、御者の交代用に『一鐘砂いっしょうずな』もいる。……素人が。死にたくなければ道具に金を惜しむな」


 俺は内心で舌を巻いた。

 こいつは単なる剣の使い手ではない。兵站へいたん管理のプロフェッショナルだ。

 金貨八枚(成功報酬込み)は、彼の実力からすれば破格の安さだったかもしれない。


 ***


 買い物を終え、重くなった荷物を抱えて歩いていると、不意にリンネアが足を止めた。

「翔一くん。少しだけ寄り道してもいいですか?」

 彼女が指差したのは、小さな彫金細工の店だった。


「アクセサリーか? 悪いが洒落込んでる余裕は……」

「違います。あなたに『印章指輪シグネット・リング』を作らせたいんです」

 リンネアは真剣な顔で俺を見た。

「これから向かう中央部は、契約社会です。でも、あなたは文字が書けない」

「……痛いところを突くな」

「代筆は私がしますが、最終的な承認の証が必要です。拇印ぼいんは野蛮とみなされますから、あなた専用の印章を持っておくべきです」


 なるほど。確かに非識字者イリテラシーの俺が、馬の骨ではないと証明するアイテムは必要だ。

 俺たちは店に入り、鉄と真鍮を混ぜた安価だが頑丈な指輪を注文した。

 意匠は、俺のイニシャルである『S』と、公平を表す『天秤』を組み合わせたものにした。

 出来上がりは明日の朝だという。


 店を出ると、リンネアは自分の鞄から、木枠に挟まれた黒っぽい板を取り出し、俺に手渡した。

「それと、これを使ってください。『蝋板ろうばん』と鉄筆です」

「……何に使うんだ?」

「勉強用です。ポポロに文字を教えるためと…………翔一くん、あなたのためでもあります」

 リンネアは悪戯っぽく微笑んだ。

「旅の間、少しずつ教えますからね。契約書も読めない法律家なんて、詐欺師の格好の的ですよ?」

「……ぐうの音も出ねえ」

 俺は渋々、その子供用の学習セットを受け取った。


 ***


 買い出しを終えた後、俺たちは孤児院へ向かった。

 ポポロが、院長のマーサに最後の別れを告げるためだ。

 俺は門の外で、壁に寄りかかって待っていた。


 中庭では、ポポロがマーサと向き合っている。

 二週間前、俺の服を掴んで泣いていた子供は、もういない。

 新しい旅装束に身を包み、背筋を伸ばして立っているその姿は、一人前の「仕事人」のそれだった。


「…………そう。行くのね」

 マーサは、寂しそうに、けれど誇らしげに微笑んだ。

「お聞きなさい、ポポロ。あなたのその耳と鼻は、神様がくれた贈り物です。

 でも、一番大切なのは、その優しい心よ。それを忘れないで」

「うん。行ってきます、院長先生!」


 ポポロが深く頭を下げる。

 話が終わったのを見計らって、俺は門の中へと歩み寄った。

 そして、懐から小さな革袋を取り出し、マーサに無造作に押し付けた。


「…………これは?」

 マーサが重みに驚いて中を覗く。金貨が三枚入っていた。

 この街の孤児院の運営費としては、半年分に相当する大金だ。


「寄付ですか?」

「まさか。『精算』だ」

 俺は鼻を鳴らした。

「ポポロは今日から、俺の正式な『従業員』だ。

 従業員の過去の養育費や、お前らにかけた迷惑料を清算しておかないと、寝覚めが悪いんでな。

 …………これで貸し借りはなしだ。文句ねえな?」


 それは詭弁だ。法的な支払い義務などない。

 だが、マーサは俺の目を見て、ふふっと柔らかく笑った。

「…………ええ。確かに受け取りました。

 あの子のこと、よろしくお願いしますね。…………不器用な雇い主さん」


 俺は背を向け、手をひらりと振ってその場を後にした。

 背後から聞こえる子供たちの笑い声が、少しずつ遠ざかっていく。

 もう、振り返らない。

 俺たちの戦場は、あの緑の原野にあるのだから。


(第二章 第十話 完)

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