第八話『黒雲種との契約』
治療から一夜明けた朝。
俺たちは、ポポロを連れて再びザガンの店を訪れた。
馬房は静まり返っていた。
一番奥の頑丈な柵の向こうで、あの黒馬が穏やかに干し草を食んでいる。
水で洗われ、泥と垢が落ちたその馬体は、濡れた黒曜石のように美しく輝いていた。
「……綺麗な黒だな」
俺は思わず呟いた。
「名前は『コクヨウ』だ。どうだ、ポポロ?」
「うん! いい名前! コクヨウも気に入ったみたい!」
ポポロが柵越しに手を伸ばすと、コクヨウ――黒馬は静かに鼻面を寄せてきた。
昨日の狂気は嘘のように消え、その瞳には深い知性が宿っている。
「……信じられん」
ザガンが腕を組み、呆然と呟いた。
「昨日まで狂ったように暴れてたのが、まるで別のガロン(馬)みたいじゃねえか」
ザガンはコクヨウに近づき、その体つきを改めて観察し始めた。
「脚の長さ、胸囲、首の角度……どれも一級品だ。こいつ、ただの駄馬じゃねえぞ」
彼はコクヨウのたてがみをかき分け、首筋のあたりを指で探った。
および、顔を青ざめさせた。
「……おい、嘘だろ」
「どうした?」
「見ろ。ここに焼き印がある」
ザガンが指差した場所には、毛の下に隠れるように小さな紋章が刻まれていた。翼を広げた鷲のような意匠だ。
「こいつは……『黒雲』種だ」
ザガンの声が裏返った。
「軍馬の最高峰だぞ! 貴族や騎士団長クラスしか所有できねえ、一頭で金貨五十枚は下らない『ガロンの王様』だ!」
俺は内心で計算を走らせた。
盗難馬か? だとしたら厄介だ。
だが、ザガンは首を振った。
「……なるほどな。古傷のせいで暴れ馬になり、手がつけられなくなってタライ回しにされた成れの果てか。
元の持ち主も、まさか蹄の奥に釘が残っているとは気づかず、使い潰したんだろうよ」
名馬の零落。
俺はコクヨウの瞳を見つめた。人間への不信感があったはずだ。それを、ポポロが解いた。
「クソッ、とんだ宝をタダ同然で渡しちまった……!」
ザガンは頭を抱えて唸った。
「おい、契約を見直させてくれ。金貨八枚じゃ大赤字だ!」
「お断りだ」
俺は即答した。
「契約は昨日成立している。俺はこいつを『処分予定の狂い馬』として売った。
価値を取り戻したのは、俺たちの『投資(治療)』の結果だ。文句を言われる筋合いはない」
ザガンは唸り、葛藤したが、最後にはガックリとうなだれた。
「……チッ。分かったよ。一度吐いた唾は飲み込まねえ」
彼は悔しさを振り払うように、作業場の奥を指差した。
「その代わり、カレッサ(馬車)のほうは完璧に仕上げといたぞ。
……畜生、馬で損した分、こっちで手を抜いてやろうかとも思ったがな。俺の職人としてのプライドがそれを許さなかった。
完璧な仕上がりだ。とっとと持ってけ」
偏屈だが、腕と仕事への誠実さは本物らしい。俺は苦笑した。
***
ザガンが整備した幌馬車は、一見すると塗装の剥げたボロ車だったが、中身は別物だった。
車軸は強化され、車体は革ベルトで吊り下げられている。俺が注文した通りの「振動吸収構造」だ。
「……で、お前ら。こんないいガロンとカレッサを用意して、一体どこへ行く気だ?」
ザガンが尋ねた。
「北だ。『大図書館都市』へ行く」
「正気か? あそこまでは、荒野を突っ切る『死の街道』だぞ」
ザガンは作業台に古い羊皮紙の地図を広げ、指で街道をなぞった。
「リムガーレから大図書館都市まで、距離にしておよそ八十リーグ(約四百キロ)。
順調にいっても十日から二週間はかかる」
彼は地図上のポイントを指差していった。
「二日目に『ミドガルド村』。四日目に『双子街アルス・ベータ』。六日目に……」
「待て。その間の日(三日目や五日目)はどうするんだ?」
「街道沿いに、古びた井戸と避難小屋くらいはある。だが、基本的には野営だ」
ザガンは馬車の荷台をバンと叩いた。
「だが、このカレッサなら問題ねえ。床に毛皮と干し草を敷き詰めて、中で寝られるように改造しておいたからな。
……行先も知らねえで作ったが、大正解だったな」
俺は腕を組んだ。
「……なるほどな。寝床の確保はできた、か。
だが、問題は治安だ。町と町の間は法も秩序も通用しねえ無法地帯だろ?」
「その通りだ。魔獣も野盗も出る。素人だけで行くのは自殺行為だぞ。」
脅威の解像度が上がった。やはり、護衛は必須だ。
「分かった。護衛は探す。
……だがその前に、俺たちがこの馬車を動かせなきゃ意味がねえ。」
俺はコクヨウを見やった。
「親方。俺たちにガロンの扱い方を叩き込んでくれ。コクヨウの傷が癒えるまでの三日間でな。」
「はん。黒雲種に乗るにゃあ百年早いが……」
ザガンは別の馬房から、一頭の老いたガロンを引いてきた。
「いいだろう。こいつを使え。俺の店で一番頑固な老ガロンだ。
こいつを乗りこなせれば、賢いコクヨウなんて指一本で動かせるようになる。」
***
それからの三日間は、地獄のような特訓の日々だった。
俺は現代日本で車の免許は持っていたが、生き物であるガロンの操作は勝手が違いすぎた。
「違う! 手綱は引くんじゃねえ、添えるんだ! ガロンの口の動きを感じ取れ!」
ザガンの怒号が飛ぶ。
まず教わったのは、「御者」としての技術だ。
馬車において、手綱はハンドルではない。
重要なのは「声」と「鞭」、および「ブレーキ」だ。
「発進は『ハイ!』と短く声をかけろ! 減速は『ドー……』と低く長く!」
「鞭は叩くんじゃねえ! 肩に軽く触れて合図を送るんだ!」
「下り坂ではブレーキペダルを踏め! カレッサがガロンを押したら転倒するぞ!」
頭では分かる。だが、体がついていかない。
練習用の老ガロンは、俺が少しでも間違った合図を送ると、鼻を鳴らしてテコでも動かなくなる。
さらに難関だったのが、「騎乗」の訓練だ。
緊急時には馬車を切り離して逃げることもある。乗れなければ話にならない。
「体幹だ! 鞍の上でグラグラするな!」
「曲がりたい方向の鐙に体重を乗せろ! ガロンは背中の重心移動だけで意図を察知するんだ!」
「脚を使え! 腹を蹴るんじゃねえ、圧迫するんだ!」
全身の筋肉が悲鳴を上げる。
太腿が擦り切れ、腰が砕けそうだ。
「……くそ。言葉の通じる相手(人間)を操るより難しいな」
俺は泥まみれになりながら悪態をついた。
理屈じゃない。感覚の世界だ。俺が最も苦手とする分野かもしれない。
だが、隣にいたポポロは違った。
「見て見て翔一! この子、僕の合図でバックできるようになったよ!」
小さな体で器用に手綱を操り、頑固なはずの老ガロンを自在に動かしている。
ザガンに教わった「音声扶助」も「体重移動」も、まるで最初から知っていたかのように自然にこなしていた。
「すげえな、坊主……」
ザガンも舌を巻いている。
「獣人の血のおかげか? いや、それだけじゃねえな。飲み込みが早すぎる。」
俺は、御者台ではしゃぐポポロを見上げた。
出会ってからひと月ほどだが、服の袖が短くなっている。
体だけじゃない。技術の吸収速度も、日に日に「子供」から脱皮しつつある。
(……一年で大人になる、か)
今のこの驚異的な学習速度は、その命の炎の強さそのものなのだろう。
「……チッ。ガキの成長速度には勝てねえな」
俺は、頼もしさと、ほんの少しの焦燥感が混じった複雑な感情を飲み込んだ。
***
三日目の夕暮れ時。
なんとか「死なない程度」には馬車を動かせるようになった俺たちは、ザガン商会を後にした。
「馬と馬車は手に入った。操縦も、ポポロがいればなんとかなる」
俺は、夕日に染まる街を見渡した。
「あとは、護衛か」
ザガンが別れ際に教えてくれた情報を思い出す。
『腕の立つ傭兵を探すなら、裏通りの酒場『荒野の牙』に行け。そこには、護衛で飯を食ってる荒くれ者どもがたむろしてる』
「行くぞ、ポポロ。
最後のピースを埋めにな」
俺たちはその足で、荒くれ者たちが集うという酒場へと向かった。
(第二章 第八話 完)




