第二話『勝利の代償』
「異議あり!」
検察官が、椅子を蹴倒す勢いで立ち上がった。「遺産の話は、本件とは何の関係もありません! 弁護人は、証人の人格を不当に貶めようとしています!」
「裁判長」
翔一の声が、検察官の激情を遮るように、静かに響いた。
「大いに関係あります。証人の証言に、金銭的な動機という『バイアス』がかかっている可能性を問う、極めて正当な質問です」
裁判長は、苦々しい表情で一度だけ目を閉じ、やがて重々しく口を開いた。
「……異議を、却下します。弁護人、質問を簡潔に」
もはや、勝負は決していた。
「ありがとうございます。――証人、あなたは以前、お父様が遺産の大半をある慈善団体に寄付する意向であることを知り、激しく反対なさった。これは、事実ですね?」
「そ、それは……」
「お答えください。事実ですか、イエスかノーか」
「……っ、はい」
翔一は、畳み掛ける。手元から一枚の書類を取り出し、ひらりと検察官と裁判官に示す。
「これは、あなたが匿名で利用していた、いわゆる『裏アカウント』から発見された投稿の写しです」
少女の顔が、さっと青ざめた。
「読み上げます」
翔一は、一切の感情を込めず、ただ淡々と続けた。
「『親父とマジ喧嘩。死んでほしい。誰か殺してくんないかな、遺産だけ置いてw』……日付は事件の一か月前。これは、あなたのアカウントですね?」
「違う! あれは、ただの愚痴で……!」
「私が聞いているのは、その動機ではありません」
翔一は、少女の感情的な叫びを、冷たく切り捨てた。
「あなたが、ご自身の父親に対して、『誰かに殺害を依頼する』とも取れる、明確な殺意を表明していた。その『事実』について、聞いているのです」
法廷が、大きくどよめいた。
「殺意」、その一言が、これまで悲劇のヒロインだった少女の姿を、全く別のものへと塗り替えていく。
彼女は、もはや気丈な証言者ではなかった。
父親を憎み、遺産を欲し、殺害すら願っていた『容疑者』の目を、傍聴席の誰もが向けている。
もはや、法廷に少女の味方は一人もいなかった。
翔一は、舞台が整ったのを確認すると、初めて声のトーンを落とした。
「……証人、これが最後の質問です」
彼はそう前置きし、ゆっくりと法廷全体を見渡す。まるで迷える子羊たちに真実を説くかのように、静かに、しかし明瞭な声で問いかけた。
「裁判員の方々、想像してみてください。もしも、事件の背景が全く別のものであったとしたら? ……被害者が、我々の知り得ぬ闇の住人と、深刻なトラブルを抱えていたとしたら?」
それは、あまりに都合のいい、しかし、これまでの尋問で提示された「事実」と奇妙に辻褄が合ってしまう、もう一つの「物語」だった。
「検察官。あなたは、この『もう一つの可能性』を、完全に否定することができますか? 百パーセント断言できる、絶対的な証拠を、今この場でお示しになれますか?」
検察官は、沈黙した。
存在しない悪魔の証明など、誰にもできはしない。
翔一はその沈黙を『肯定』と断じ、泣き崩れる寸前の少女へ、慈悲のかけらもない一撃を放った。
「あなたは、憎んでいた父親を殺した真犯人を、その曖昧な記憶のせいで、みすみす取り逃がそうとしているのかもしれないのですよ。……それでもあなたは、被告人だけが犯人だと、神に誓って断言できますか?」
少女の口から、声にならない嗚咽が漏れた。
勝敗は、決した。
数日後。判決の日。
法廷に響いた「無罪」という言葉は、もはや誰の心にも意外なものとしては届かなかった。
翔一は誰に一瞥もくれることなく、足早に法廷を後にする。
彼の瞳には、勝利の熱も、罪悪の陰りも、何一つ宿ってはいなかった。
***
夜になり、冷たい雨がアスファルトを黒く濡らしていた。
都心の殺風景な事務所で、翔一は一人、ウイスキーのグラスを傾けていた。PCの画面には、高額な報酬の振込通知が、ただのデジタル信号として無機質に明滅していた。
机の引き出しの奥。そこに眠る、色褪せた姉の写真には、今夜も触れることすらなかった。
コートの襟を立て、街に出る。
雨音だけが支配する、人通りのない路地裏。彼がショートカットとしてよく使う道だった。
その曲がり角を曲がった瞬間、翔一は足を止めた。
闇の中に、一人の男が立っていた。
傘も差さずに、ずぶ濡れになった若い男。被害者だった娘の兄だった。
男は、叫びもしない。ただ、憎悪と絶望に焼き尽くされた、空虚な瞳で翔一を見つめていた。
翔一も、何も言わなかった。
逃げようとも、叫びとも思わなかった。ただ、目の前の男が、これから何をするのかを、静かに理解した。
男が、ゆっくりと歩み寄ってくる。雨音に混じって、ちゃぷ、ちゃぷ、と水たまりを踏む音だけが響く。
すれ違いざま、男の腕が閃いた。腹部に走る、焼けるような熱と、冷たい異物感。
男は、そのまま翔一の体を突き放し、闇の中へと消えていく。
翔一は、その場にゆっくりと膝から崩れ落ちた。腹から流れ出す血が、雨に混じって、排水溝へと吸い込まれていくのが見えた。
痛みよりも先に、奇妙な納得感が、彼の思考を支配した。
論理への妄執が、肉体の軛を離れ、死の間際に極限まで加速していく。なぜ、法は無力なのか。なぜ、力は正義を凌駕するのか。その問いの果てに、彼は、まるで天啓のように、一つの答えに辿り着いた。
それは、いかなる法典にも記されてはいない、世界の根源的な法則。
(……ああ、そうか。そういうことか。……『勝者の剣こそが、法である』……)
彼の脳裏に、自嘲の笑みが浮かぶ。
(……ならば、俺は剣を持っていなかった。……ただ、それだけの話か)
アスファルトの冷たさが、頬から全身へと広がっていく。
雨音だけが遠ざかり、世界が、静かに闇へと沈んだ。
***
最初に届いたのは、音だった。
アスファルトを叩く、無機質な雨音ではない。
聞いたこともない鳥たちの、複雑で、音楽的なさえずり。風が木々の葉を揺らす、囁きのような音。
次に、匂い。
血と、鉄錆と、都会の排気ガスの匂いではない。
雨上がりの、湿った土の匂い。
そして、光が訪れた。
重く、鉛のようだった瞼を、こじ開ける。
視界に飛び込んできたのは、無数の緑が織りなす、光の天蓋だった。木々の葉の隙間から、まるで教会のステンドグラスのように、黄金色の光が筋となって降り注いでいる。
状況を、整理しろ。
五感から得られるすべての情報が、ここが自分の知る世界ではないと告げている。そして、致命傷のはずの傷が、ない。
思考が、追いつかない。
そのとき、彼は気づいた。視線の先に、誰かがいることに。
ゆっくりと、焦点を合わせる。
そこに立っていたのは、一人の少女だった。
長く、緩やかに尖った耳。
陽光を透かすその薄い皮膚は、作り物にはない血の通った実在感を放っていた。
森そのものを溶かし込んだような、翠玉の瞳。陽光を浴びて輝く白金の髪。
現実離れした美貌と、未知の生態的特徴。その矛盾した光景に、翔一の論理は一時停止を余儀なくされた。
しかし、彼女の瞳の奥には、射抜くような警戒心が宿っていた。
その手には、質素だが鋭いナイフが握られている。
少女は、敵意を隠そうともせず、翔一をじっと見下ろしていた。
まるで、森で道に迷った、得体の知れない異邦人を値踏みするように。
(第一章 第二話 完)




