第十六話『開廷』
翔一の「行くぞ」という言葉と共に、重厚な扉が押し開かれる。
その瞬間、地鳴りのような「うねり」が、物理的な圧力を伴って二人に襲いかかった。
足を踏み入れた翔一の足が、わずかに止まった。
(……マジかよ)
彼の視界に飛び込んできたのは、日本の地方裁判所にあるような慎ましい小部屋ではなかった。
そこにあったのは、巨大な「円形劇場」だった。
すり鉢状に競り上がった客席は、ドーム球場のように遥か頭上まで続き、そこを千、いや二千を超える群衆がびっしりと埋め尽くしている。
天窓から降り注ぐ光が、中央の法廷をスポットライトのように照らし出していた。
――『万民の法廷』。
かつて『古き盟約』が結ばれた際、「密室での裁きが種族間の不信を生む」という教訓から作られた巨大空間。
だが今の辺境伯にとって、この「透明性」は好都合だった。己に逆らう者が社会的に抹殺される様を見せつけるための、壮大な「処刑台」として利用できるのだから。
「引っ込め!」「罪人め!」
ドッ、と波のように押し寄せる罵声と敵意の圧力。
本来なら静粛を命じるべき警備兵たちは、壁際に直立したまま、この集団リンチのような光景を黙認している。
翔一は、震える指先を握りしめ、口元を歪めた。
(……ゾクゾクしやがる)
それは恐怖ではない。武者震いだ。これだけの人間が、俺の敗北を願っている。
ならば、ここから逆転したときのカタルシスは、どれほどの味だろうか。
翔一は、わざとらしく悠然とした足取りで歩き出し、被告人席へと着く。
「――あっ!」
隣に座ったリンネアが、小さく悲鳴を上げた。
彼女の視線の先。法廷の脇に設けられた、鉄柵で囲まれた重々しい「特別証言台」。
本来は猛獣や凶悪犯を収容するためのその場所に、小さな影があった。
ポポロだ。
彼は大人用の無骨な椅子にぽつんと座らされ、怯えたように身体を丸めていた。すぐ背後には武装した兵士が仁王立ちしている。
「ポポロ……! なぜ!?」
リンネアが駆け寄ろうとするが、衛兵が槍を突き出して制止する。
「席に戻れ、被告人。証人との接触は禁じられている」
「証人ですって!? あの子はまだ子供ですよ! ついさっき、教会に預けたはずなのに!」
「『特例』だ」
冷ややかな声が、法廷の喧騒を切り裂いた。
翔一が視線を転じる。
法廷の反対側、検察席。そこに、その男はいた。
エルフだった。だが、白髪は一筋の乱れもなく撫で付けられ、片目にはモノクル。その容貌は若々しくも、瞳の奥には千年の時間を宿したような昏い静寂がある。
辺境伯領・首席法務官、ギデオン。
ギデオンは、虫でも見るような無感情な瞳で二人を一瞥した。
「獣人族は早熟だ。生存本能と識別能力においては人間に劣らん。故に、本件の『原因』となった彼には、重要参考人として特例的に出廷してもらった。
……つい先ほど、教会へ『召喚状』を執行させてもらったよ」
「ギデオン様……!」
リンネアが唇を噛む。
翔一たちが目を離した隙を狙い、合法的な召喚状でポポロを無理やり引きずり出したのだ。翔一たちへの、見せしめと揺さぶりのために。
「久しいな、リンネア。君の師が死んで以来か」
ギデオンの声は、砂のように乾いていた。
「君が、薄汚い獣の弁護ごっこに興じていると聞いてな。師の名誉のために、私が直々に引導を渡しに来てやったのだよ」
「……あなたが、法の精神を歪める側に回るとは」
「法とは秩序だ。秩序なき理想など、世を乱す毒に過ぎん」
会話はそこで途切れた。廷吏の声が響き渡る。
「――総員、起立!」
法廷内の空気が一変し、水を打ったような静寂が支配した。
裁判官席の扉が開き、三人の影が現れる。
中央には、事務的で冷徹な目をしたドワーフの裁判長。
右側には、翔一たちを睨みつける、恰幅の良い人間の男。
および左側には、リンネアの方を見ようともしない、神経質そうな女性エルフ。
見事なまでの、完全アウェイ。
中央の裁判長が、木槌を手に取り、翔一を見下ろした。
「これより、被告人リンネア、および氏名不詳の男に対する、公務執行妨害事件の審理を始める!」
裁判長の視線が、翔一を射抜く。
「まず、人定質問を行う。そこの男、名を名乗れ」
翔一は、ふてぶてしく胸を張った。
「タナカだ。タナカ・ショウイチ」
「……タナカ・ショウイチか。奇妙な響きだ。
職業、および住所は?」
「住所不定。無職だ」
法廷がざわめく。「無職だって?」「浮浪者かよ」
裁判長は眉をひそめたが、事務的に記録係に頷いた。
「よかろう。被告人を特定した。
……検察官、冒頭陳述を」
続けて、ギデオンがゆらりと立ち上がった。
彼は片眼鏡の位置を直し、講義を始める老教授のような足取りで、法廷の中央へと進み出た。
「裁判官、並びに、ここに集いし良識ある市民諸君。
……まず、諸君に問いたい。『法』とは、何だ?」
ギデオンは、宙を見上げ、切々と語り始めた。
「我々が住むこのリムガーレは、中央の温室とは違う。一歩外に出れば、飢えた魔獣が徘徊し、無法者が獲物を狙う、過酷な『辺境』だ。
故に、この地における『法』とは、理想ではない。『生存』と『現実』だ。
領主様が定めた鉄の規律こそが、我々の日常を混沌から守っている『防波堤』なのだ」
傍聴席から同意の頷きが見える。ギデオンは、民衆の不安と秩序への渇望を的確に刺激している。
「だが!」
ギデオンの声が鋭く跳ね上がった。彼は杖を突き出し、その切っ先を翔一たちに向けた。
「この二人は、その防波堤を、自らの浅はかなエゴで破壊しようとした!」
彼は獲物を追い詰める蛇のように言葉を紡ぐ。
「被告人、自称タナカ・ショウイチ。身元不明、住所不定、職業不詳。
どこから湧いたかもしれぬこの男は、神聖なる公務の執行中であった兵士たちに対し、狡猾な弁舌と暴力で混乱をもたらし、あまつさえ重大な密猟の容疑者である獣人を強奪した。
これは単なる公務執行妨害ではない。この国の安全保障に対する、明確な『国家への反逆』である!」
(……テロリスト扱いかよ。大きく出たな)
翔一は表情を崩さずに内心で舌を巻いた。
「検察側は、被告人両名に対し、領内からの永久追放、および秩序回復のための最大限の厳罰を求刑する。以上だ」
爆発のような拍手と歓声が巻き起こった。
千人の群衆の心が、完全に検察側に傾いた瞬間だった。
裁判長が事務的な声で告げる。
「……静粛に。
検察側の主張は以上の通りである。
被告人、および弁護人。今の公訴事実に対し、何か申し開き(罪状認否)はあるか?」
すべての視線が、嘲笑と軽蔑を孕んで翔一に集まる。
さあ、どう言い訳をするんだ、と。
翔一は、ゆっくりと席を立った。
彼は隣で震えるリンネアの肩を、ポンと軽く叩く。
(顔を上げろ。ここからは、俺のターンだ)
彼は黒革の鎧を翻し、法廷の中央へと歩み出た。
その口元には、獰猛な笑みが浮かんでいた。
「さあ、反撃の時間だ」
(第一章 第十六話 完)




