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第十五話『黒き鎧と、決戦の朝』

 夜が明け、裁判当日の朝が来た。

 東の空が白み始め、街がまだ半分眠っている静寂の中、三人は『頑鉄工房』へと向かった。


 工房の奥から現れたバルドゥルは、無言のまま一つの包みを翔一の前に置いた。

 徹夜の作業だったのだろう。その目は充血していたが、職人としての達成感に満ちた光を宿していた。


「……受け取りな。俺の最高傑作だ」


 包みを解くと、現れたのは一着の、黒を基調としたジャケットとパンツだった。

 それは、翔一が要求した通り、彼のいた世界の「スーツ」のように体にぴったりとフィットする、洗練されたシルエットを持っていた。

 だが、ただの服ではない。

 素材は、バルドゥルが鍛え上げた、しなやかで、しかしドラゴンの牙も通さない強度を秘めた、艶消しの黒い魔獣革。

 ステッチに見える部分は、極細の金属糸で編み込まれた補強だ。


 それは、法廷という戦場で、彼の身と心を守るための、正真正銘の『鎧』だった。


 翔一は、その場でボロボロのシャツを脱ぎ捨て、新しい『鎧』に袖を通した。

 吸い付くようなフィット感。革なのに、羽のように軽い。

 ジャケットのボタンを留め、襟を正す。


 鏡に映ったのは、もはやみすぼらしい異邦人ではなかった。

 冷徹で、攻撃的で、および揺るぎない自信を纏った、一人のプロフェッショナル――「悪徳弁護士」の姿だった。


「……上等だ」

 翔一は短く呟き、バルドゥルに向かってニヤリと笑った。

「いい仕事だ、じいさん。これなら、どんな化け物が相手でも戦える」


「はん。礼なら勝ってから言え」

 バルドゥルはぶっきらぼうに返し、ハンマーを握り直した。

「行ってこい。凱旋したら、また美味い酒を飲ませてやる」


 その足で、三人は昨日パンを届けた孤児院へと向かった。

 まだ朝の礼拝前の静かな時間帯。院長に事情を話し、ポポロを預かってもらう手筈は整っていた。


「ポポロ。裁判が終わるまで、ここで待っていてくれますか?」

 リンネアの言葉に、ポポロの顔がさっと曇った。

 彼は、リンネアの服の裾をぎゅっと握りしめる。


「……いやだ」

 彼の声が震える。

「ここにいたら、もう、会えなくなる……。お父さんと、お母さんみたいに……」


 大きな瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。

 自分が、また捨てられる。その、子供にとって世界の終わりにも等しい恐怖が彼を襲っていた。


 その重い沈黙を破ったのは、翔一だった。

 彼の声はいつものように冷たかった。しかし、そこには奇妙な静けさがあった。


「――泣くな」


 その短い命令。

 リンネアが非難の目で彼を睨みつける。

 しかし、翔一は彼女ではなく、泣きじゃくるポポロの小さな頭を真っ直ぐに見下ろしていた。


「いいか、よく聞け。別れに涙は無意味だ。感傷は思考を鈍らせる。

 俺たちはこれから戦場に行くんだ。足手まといの感情は、ここに置いていけ」


 それはあまりにも冷徹な、しかし彼が彼のいた世界で生き抜くために自らに課してきた、唯一のルールだった。

 姉を失ったあの雨の日から、ずっと。


「違います!」

 リンネアの声が震えていた。怒りではない。彼のそのあまりにも歪んだ魂に対する悲しみで。

 彼女は翔一を睨みつけると、ポポロの前に屈み、その小さな両肩をしっかりと掴んだ。


「ポポロ。泣いてもいいのです。怖いときは、怖いと言っていいのです」

 彼女は涙で濡れたポポロの瞳を真っ直ぐに見つめた。

「ですが、これだけは信じてください。あなたの無実の罪がまだ晴れていません。私たちが負ければ、辺境伯はまたあなたを捕まえに来るでしょう。

 だからこそ、決着がつくまで、あなたには絶対に安全な場所にいてほしいのです」


 彼女は、小指を差し出した。

「だから、約束します。裁判が終わったら、必ずここにあなたを迎えに来ますから。

 ……信じて、くれますか?」


 ポポロはしゃくりあげながらも、リンネアの真剣な瞳を見つめ返した。

 やがて、彼は小さな手でごしごしと涙を拭うと、小さく、しかし強く頷き、リンネアの小指に自分の小指を絡ませた。


「……やくそく、だよ。絶対だよ」


「ええ。絶対に」


 ――このときの二人は、まだ知らなかった。

 この「安全な場所」という前提そのものが、権力者の悪意によって、わずか数時間後に踏みにじられることになるなどとは。


 ポポロを院長に託し、裁判所へと向かう翔一とリンネアの足取りには、もはや迷いはなかった。


 街の中心にそびえ立つ、重厚な石造りの裁判所。

 古代神殿を思わせる威圧的な柱と、その奥にある巨大な扉。

 その前には、すでに開廷を待つ群衆が押し寄せ、熱気と殺気にも似た興奮が渦巻いていた。


 二人は、その扉の前で並び立った。

 翔一が、新しい『鎧』の襟を、くい、と正す。

 その背中には、現代日本の法知識と、悪徳と呼ばれた男の矜持プライドが背負われていた。


「――行くぞ」


 翔一の低く、力強い声と共に、重厚な扉がゆっくりと開かれる。

 その向こうから、地鳴りのような、敵意に満ちた喧騒が漏れ出していた。


(第一章 第十五話 完)

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