第十四話『嵐の前の静寂(模擬裁判)』
午後もだいぶ傾いた頃、三人はバルドゥルに深く頭を下げ、職人通りを後にした。
帰り道、建物の影が長く伸び、街の家々の窓にランプの温かい光が灯り始める時間だ。
翔一とリンネアの間には、まだ朝の口論の気まずさが残っている。しかし、一つの困難な「交渉」を共に成し遂げたことによる微かな連帯感が、その沈黙を決して不快ではないものに変えていた。
リンネアが、ふと足を止めた。
「……少しだけ、寄り道をさせてください」
彼女が示したのは、大通りから一本入った静かな路地にある、古びた、しかし清潔に掃き清められた建物の前だった。
「馬鹿を言え」
翔一は即座に苛立ちを露わにした。「これから作戦会議だ。一分一秒も無駄にできるか」
「お腹を空かせた子供たちとの、約束です」
リンネアは、彼の言葉を静かに、しかし決して揺るがない声で遮った。
「あなたには、到底理解できないでしょうけれど」
その、一切の弁解を許さない絶対的な響きに、翔一は忌々しげに舌打ちをした。
合理性では反論できない。彼女のその行動は、彼女自身の「法」なのだ。
彼は腕を組み、壁に寄りかかると、黙って待つことにした。
リンネアは、鞄から朝用意していたパンの包みを取り出すと、建物の扉を静かにノックした。
すぐに扉が開き、簡素な灰色のローブをまとった、穏やかな雰囲気の女性が出てきた。
「ああ、リンネア様。いつもありがとうございます」
「いえ、院長先生。少しですが、子供たちと分けてください」
短い、しかし温かい信頼に満ちた言葉が交わされ、パンの包みがそっと手渡される。
その全てを、翔一は冷めた、分析するような目でただじっと見つめていた。
***
翌日。裁判を明日に控えた、最後の一日。
リンネアの事務所は、静かな「戦場」と化していた。
午前中、リンネアは辺境伯の権限を定めた領主法、公務執行妨害に関する過去の判例がびっしりと書き込まれた分厚い本を、ただひたすら翔一に読み聞かせた。
翔一は目を閉じ、指でこめかみを軽く叩きながら、その全てを一字一句違えることなく、自らの脳内に刻み込んでいく。
議論が一段落したところで、翔一がリンネアの言葉を制した。
「おい。基本的なことを確認する。
あんたたちの世界には、『魔力』とやらが存在する。そうだろ?」
彼は、まるでビジネス交渉の前提条件を確認するかのように淡々と切り出した。
「あの兵士どもが言っていた。『魔力式の罠』。つまり、魔法は犯罪にも使われる。
……ならば、当然、法廷でも使われるんだろうな?」
彼の目が、鋭くリンネアを射抜く。
「証拠を作り出す魔法。証言の真偽を判定する魔法。あるいは、裁判官の心を操る魔法。
そういう、俺の知らない『ルール』が、この戦場には存在するんじゃないのか? 全て洗いざらい吐け。俺はイカサマは嫌いなんでな」
「……あなた、本気でそんなことを言っているのですか! 」
リンネアは、心底軽蔑したような冷たい目で翔一を一瞥した。
「確かに、あなたの言うような魔法は存在します。人の心を覗く『読心術』、真実を強要する『自白魔法』。古代の魔法の中には、そういった禁忌とされるものがいくつもあったと記録されています」
彼女は静かに立ち上がると、うず高く積まれた本の壁を、まるで戦友を見やるかのように見渡した。
「ですが、なぜそれらが、『古き盟約』によって法廷から永久に追放されたか、分かりますか?」
彼女は、翔一の疑心暗鬼に満ちた目を真っ直ぐに見据えた。
「それは、我々の先人たちが、および何より竜人族が悟ったからです。
『真実』とは、便利な魔法でこじ開けるものではない。
それは、対立する当事者たちが自らの言葉を尽くし、『証拠』を積み上げ、および互いの主張をぶつけ合わせる、その苦痛に満ちた『過程』そのものの中にしか存在しないのだと」
彼女の声には、侮蔑ではなく、プロフェッショナルとしての純粋な、および揺るぎない誇りが込められていた。
「もし魔法で全てが分かってしまうなら、人は考えることをやめる。議論することをやめる。相手を理解しようとすることをやめる。
ただ魔法が示した『答え』に思考停止で従うだけの家畜になる。……それが、あなたの言う『効率的な』裁判ですか?」
彼女は断言した。
「法廷とは、あらゆる超常的な力が禁じられた聖域。
そこで問われるのはただ一つ。我々がいかにして『真実』へと辿り着こうともがき苦しんだか、その『誠実さ』なのです。
そんな子供だましの魔法の道具に頼るような者に、弁護士を名乗る資格はありません」
その、凛とした、および一切の妥協を許さない宣言。
それを聞いた翔一の反応は、リンネアの予想とは全く違うものだった。
彼は失望するどころか、その口元に、あの全てを見下すような、悪魔的な獰猛な笑みをゆっくりと浮かべていた。
「……面白い」
その声は、心の底からの歓喜に打ち震えていた。
「実に、面白い。魔法も、奇跡も、ない。ただ奴らの嘘と矛盾だけが渦巻いている。
……最高の戦場じゃねえか」
リンネアは、そのあまりにも異質な反応に言葉を失う。
なぜなら、それこそが、彼がいた世界で最も得意とし、最も知り尽くした、唯一無二の「ホームグラウンド」だったからだ。
彼はこの瞬間、確信したのだ。「この戦場なら、俺は勝てる」と。
そして、午後。主導権は完全に翔一へと移った。
「――尋問のシミュレーションを始める」
彼がそう宣言した瞬間、部屋の空気はさらに張り詰めた。
翔一は冷徹な検察官になりきり、リンネアを容赦なく追及し始めた。
「証人リンネア。あなたは、我らが主、グレンジャー辺境伯様の正当な公務を妨害した。その自覚はありますかな?」
「正当な公務ではありません! あれは、不法な身柄拘束です!」
「ほう。その根拠は?」
「『古き盟約』に基づき、正式な手続きが……」
「異議あり!」
翔一の声が、刃のようにリンネアの言葉を切り裂いた。
「『古き盟約』は、異種族『間』の紛争を律する法。辺境伯様が自らの領地内で、領主法に基づき犯罪者を取り締まる行為は純粋な国内問題。そこに、あなたの言う『古き盟約』が介入する余地はない。
――そう反論されたら、あなたはどう答える?」
「そ、それは……!」
翔一の的確すぎる、および心を抉るような攻撃に、リンネアは何度も言葉を詰まらせ、悔しさに唇を噛んだ。
シミュレーションは深夜にまで及んだ。
「……もう、無理です……」
最後の力を振り絞るようにそう呟くと、リンネアは机の上に広げられた本の山に突っ伏してしまった。
規則正しい、穏やかな寝息がすぐに聞こえ始める。
翔一はしばらく、その無防備な寝顔を無表情で見下ろしていた。
やがて、彼は静かに立ち上がると、自分が使っていた毛布を彼女の肩にそっとかけた。
朝の口論の熱は、もうどこにもない。
そこにはただ、同じ戦場に向かう「戦友」だけがいた。
(第一章 第十四話 完)




