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第十三話『商人の名刺と、ドワーフの祝杯』

 工房には、しばしの沈黙が流れた。

 その沈黙を破ったのは、誰あろう、ヘイムダルだった。

 彼は、先ほどまでの屈辱を分厚い面の皮の下に完全に隠し、再びあの蛇のような商人の笑みを顔に貼り付けていた。


「……面白い。実に、面白い茶番だった」

 彼はそう言うと、敵意ではなく、純粋な値踏みをする目で翔一をじろりと見た。

「……そこの、『氏名不詳』のあんた。あんたの『調停案』は実に興味深かった。久しぶりに、血が沸き立つような『交渉』だったよ」


 ヘイムダルは、懐から一枚の名刺のような上質な紙を取り出した。

「明後日、裁判所にご出頭なさるのだろう? 裁判所の前の掲示板はいつも見ているのでね。

 かの高名なリンネア『上級』弁護士が、氏名不詳の男と共に被告人となるとあっては、この街の商人仲間ではもっぱらの噂でね」


 彼は、その名刺を翔一に向かってひらりと差し出す。

「もし、その裁判を無事に切り抜けられたなら……もう一度、会おうじゃないか。

 あんたのその頭脳、正義のためだけに使っているのは、あまりにももったいない」


 その言葉は、挑発であり、および最高の賛辞だった。

 翔一は何も言わず、その名刺を受け取る。そこには、彼には読めない『流文字』で何事かが書かれていた。


「では、ごきげんよう」

 ヘイムダルはバルドゥルを一瞥もすることなく、優雅に一礼すると工房から去っていった。

 嵐が、去った。


 工房には、再び沈黙が訪れる。

 翔一は、手の中にあるその上質な紙片を、無言で見下ろしている。


「……おい」

 彼はリンネアにその名刺を突き出した。「これ、何て書いてある?」


 リンネアは一瞬いぶかしげな顔をしたが、その名刺を受け取ると、プロの目ですばやく内容を確認した。

「……『ヘイムダル。リムガーレ商人ギルド、土地資産管理部長』。……それと、彼の個人事務所の紋章と、その住所ですね」

 彼女はそう言うと、当然のように付け加えた。

「もちろん、大陸共通語の『流文字』で書かれています」


「共通語? 人間族の文字じゃないのか?」

 翔一の素朴な問い。

 それを聞いたリンネアは、まるで文字も知らない未開の地の子供に言い聞かせるかのように、少しだけあきれたように息をついた。


「……当たり前でしょう? ここはリムガーレです。人間だけでなく、ドワーフも、獣人も、全ての種族が商売をする街。

 そんな場所で、自らの種族の文字のみで書かれた名刺を渡すような、視野の狭い商人が成功できると思いますか?」


 彼女は翔一の黒い瞳を真っ直ぐに見据えた。

「それに、何よりも重要なのは、この大陸では『古き盟約』に基づき、法的な効力を持つ全ての契約書は『流文字』で書かれなければならないということです。

 ……つまり、ビジネスの場において、『流文字』を使えない者は『信用できない』と見なされるのです。たとえそれが、人間同士の取引であってもね」


 その、あまりにも明快な世界の「ルール」。

 それを聞いた翔一の口元に、あの不遜な笑みが浮かんだ。

「……なるほどな。面白い。実に、面白い世界だ」


 その会話を聞いていたバルドゥルが、忌々しげに、しかしどこか楽しそうに吐き捨てた。

「……ふん、相変わらず食えねえ野郎だ。だが、あいつがあんたを認めたのは確かだな」

 彼はニカッと笑うと、翔一の肩をバン! と痛いほど強く叩いた。

「さあ、立ったままでなんだ! 奥へ入れ! 祝杯だ!」


 ***


 バルドゥルの工房の奥は、質素だが清潔な居住区画になっていた。

 中央の分厚い木のテーブルに並んだのは、ドワーフの家庭料理――らしきものだった。


 大きな樫のジョッキになみなみと注がれた、泡立つ琥珀色の液体。見た目はビールそっくりだが、果たして味はどうだか。

 その横には、鈍器になりそうなほど硬い、黒っぽいパン。そして、大鍋で煮込まれた、何かの肉と野菜の料理……シチューのようなものか。


「さあ、食え! 話はそれからだ!」

 バルドゥルに促され、翔一は生まれて初めてドワーフの料理を口にした。

 洗練とはほど遠い。だが、そこには職人の手仕事が作り出す、素朴で力強い「本物」の味があった。


 苦味の強い酒で喉を潤し、塩気の効いた煮込みで腹が満たされてきた頃、翔一が本題を切り出した。

 その目は、もはやただの『氏名不詳の男』ではない。獲物を見つけた、冷徹なコンサルタントの目だった。


 彼はまず、目の前のドワーフに向き直り言った。

「俺の名前はタナカだ。タナカ・ショウイチ。……あんたの名前は?」


 突然の、対等な自己紹介に、バルドゥルは一瞬虚を突かれたように目を瞬かせた。

「……バルドゥルだ。それが、どうした」


「バルドゥル。いいか、よく聞け」

 翔一はその名を呼び、そして続けた。

「あんたの店で、一番手間がかからずに高く売れるものはなんだ?」

「次に、この街で一番金払いのいい客層はどんな連中だ?」

「最後に、あんたの店の『看板』は、本当にあの槌と金床だけでいいのか?」


 矢継ぎ早の、しかし的確な質問。

 バルドゥルはその一つ一つの問いに正直に答えながらも、心の奥でかすかな違和感を覚えていた。

(……こいつの言ってることは分かる。だが、何かが違う)

 この男の言葉には、「誰に、何を届けるか」という視点が完全に欠けている。そこにあるのは、ただ「どうすれば最も効率よく儲けられるか」という、乾いた金属のような響きだけだ。

 俺たちが槌を振るうのは、金のためだけじゃねえ。それを使う人間の、生活と命のためにだ。


 バルドゥルはその違和感を言葉にできずに、ただ黙って次の酒をあおった。


 翔一はそんなドワーフの内心を知る由もなく、満足げに頷いた。

「……なるほどな。話は見えた。まあ、詳しい話は明後日の裁判が終わってからだ。それまでに、あんたも頭を整理しておけ」


 昼食の後、改めて翔一の採寸が行われた。

 バルドゥルは翔一の体の隅々までを専門家の目で検分し、その手がふと止まった。


「……兄ちゃん。あんた、一体どこで育ったんだ?」

 その問いは、侮蔑でも敵意でもない。長年の経験則が目の前の男によって覆されたことへの、職人としての純粋な戸惑いに満ちていた。

「この辺りの人間族ってのは、だいたい二種類だ。ろくに働きもしねえでふんぞり返ってる、線の細え貴族の連中か。それとも、泥にままみれて骨太に育った、俺たちみたいな平民か」


 バルドゥルは翔一の体を、頭のてっぺんから爪先まで改めて品定めするようにじろりと眺めた。

 今日のあの光景が脳裏に蘇る。労働を知らねえ、貴族みてえに華奢な体つき。だが、あの食えねえ商人ヘイムダルを言葉だけで追い詰めた、あの眼光。ありゃあ、ただもんの目じゃねえ。


「……あんたの体つきは、貴族みてえに華奢だ。だが、その目つきは、何度も炉で焼かれ、槌で叩かれた、鍛え抜かれたはがねのようだ。

 ……貴族でもねえ、平民でもねえ。一体、あんた何者なんだ?」


 翔一はその、全てを見透かすような視線に一瞬だけ言葉に詰まった。

 だが、すぐにいつもの不遜な笑みを口元に浮かべた。


「……さあな。あんたが知る、どんな人間とも違う。それだけは確かだ」


 その、はぐらかすような、しかしどこか真実味を帯びた答えに、バルドゥルはふんと一度だけ鼻を鳴らした。

「……まあ、いい。どこの馬の骨だろうと、俺の仕事は変わらねえ。任せとけ。明後日の朝一までには、最高の『鎧』を仕立ててやる」


(第一章 第十三話 完)

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