第十二話『悪徳の流儀』
「単刀直入に言おう。この店、もっといい値で借りたいという方が現れたのだよ」
ヘイムダルは、古びた羊皮紙の束を突きつけた。
「これは五年前に交わした『更新契約書』だ。この、小さな小さな条項に、こう書いてある。
『貸主は、より有利な条件の借主が現れた場合、一か月前の通告をもって、現契約を一方的に破棄できる』。
すべて、法に則っているだろう?」
バルドゥルは、その羊皮紙を睨みつけ、吐き捨てるように言った。
「……ちっ! 俺に、そんなミミズが這ったような字が、読めるわけねえだろうが!」
その一言を、翔一は聞き逃さなかった。
自分と同じだ。文字が読めない弱みにつけ込まれている。
「読め」
翔一は、リンネアに低い声で命じた。
リンネアは頷くと、契約書に素早く目を通す。そして、問題の条項を見つけて驚愕に目を見開いた。
「なっ……!? 」
彼女はヘイムダルに向き直り、弾かれたように叫んだ。
「待ちなさい! 五年前の更新の際に、そのような極めて重要な特約条項の変更を、あなたは彼に説明したのですか!?」
「おっと、リンネア上級弁護士」
ヘイムダルは、待ってましたとばかりに肩をすくめる。
「説明? いいえ、していないね。私はただ、『条件は先代の頃と何も変わりませんよ』と言っただけだ。
それを信じて、契約書をよく読みもせず、サインしたのは、このドワーフ自身だ。
私はただ、彼がサインした契約書の内容を、『法に則って』執行するだけ。そこに、何の問題が?」
「そ、それは……!」
リンネアは言葉に失う。
契約書にサインがある以上、形式上は「合意した」とみなされる。この世界の単純な法解釈では、そこを覆すのは難しい。
万事休すか。
そのやり取りの全てを、腕を組んで聞いていた翔一が、静かに一歩前に出た。
「――待て」
その声は静かだったが、その場の全員の耳に、奇妙なほどはっきりと届いた。
「『法に則っている』だと? 笑わせるな」
翔一はヘイムダルの前に立つと、冷たく言い放った。
「それは法の適用じゃない。ただの『条文の悪用』だ。
お前がやっていることは、法家から見れば、あまりに稚拙で隙だらけなんだよ」
ヘイムダルの眉がぴくりと動く。「……何だと?」
「最大の問題は、あんたが『何も変わらない』と嘘をつき、重要な変更点を隠してサインさせた点だ」
翔一は、まるで講義をするように淡々と続けた。
「法には『信義誠実の原則』がある。契約の当事者は、互いに信頼を裏切らないよう行動する義務があるんだ。
重要な不利益条項を、相手が文字を読めないことを知っていてわざと説明しなかった場合、それは明白な『説明義務違反』だ」
彼は、ヘイムダルの目を射抜く。
「つまり、このサインはあんたの嘘によって誘導された『錯誤』に基づくものだ。
法的に言えば、意思表示に瑕疵がある。
よって、この契約書の更新条項は……最初から『無効』だ」
ヘイムダルの顔から、余裕の笑みが消えた。
「な、何を……この世界の法では、サインが全てだ! 騙されるほうが悪い!」
「ほう、そうか。そこまで言うなら」
翔一は、隣に立つリンネアを親指で示した。
「ここにいるのは、大陸に数十人しかいない『星付き』だ。彼女がその気になれば、あんたの商会を『悪質な詐欺業者』として、中央のギルド本部に通報できるぞ?」
翔一は、悪魔のように囁いた。
「契約の無効だけじゃない。
『信用』を売り物にする商人が、客を騙してサインさせたとなれば……『業務停止命令』くらいは食らうんじゃないか?
たかだか一軒の立ち退きのために、商会ごとお取り潰しになる覚悟はあるのか?」
それは刑事罰(逮捕)よりも、商人にとっては恐ろしい「社会的抹殺」の宣告だった。
ヘイムダルの顔から血の気が引いた。
法的には、完敗だった。
翔一は、勝ち誇るバルドゥルと、屈辱に顔を歪めるヘイムダルの両者を見渡し、そして続けた。
「――だが、待て。この話は、ここで終わりじゃない」
その場にいた全員が、息をのんだ。翔一は何をしようとしているのか。
「商人」
翔一は、ヘイムダルに向き直った。
「立ち退きは不可能だ。このまま揉めれば、あんたは信用を失い、破滅する。
だが、この土地の価値が上がっているのも事実だ。そうだな?」
「あ、ああ……」
「なら、発想を変えろ。
お前がこの店に『投資』するなら、俺がこの頑固なじじいを説得して、正当な家賃交渉のテーブルにつかせてやる」
「……は?」
ヘイムダルも、バルドゥルも、ポカンとした顔をする。
翔一は畳み掛けた。
「この店が街の名物になれば、周りの土地の価値はさらに上がる。お前は大家として、家賃収入だけでなく、エリア全体の価値向上という利益を得られる。
詐欺師として破滅するか、有力なパトロンとして儲けるか。……商人なら、どっちが得か分かるよな?」
次に、彼はバルドゥルに向き直った。
「じいさん。店は守れた。だが、この街も時代も変わっていく。家賃も少しは上がるだろう。
その代わり、この商人から投資を引き出して、店を改装しろ」
「改装だと? 俺は媚びた商売なんざ……」
「媚びるんじゃない。間口を広げるんだ。
あんたの武具は一級品だが、客を選ぶ。もっと一般客向けの、革小物やアクセサリーも売るんだ。
あんたの技術があれば、貴族の婦人が欲しがるような最高級品が作れるはずだ。伝統だけじゃ、腹は膨れない。違うか?」
それは、誰もが予想しなかった、第三の道だった。
「論破」ではない。「調停」であり、「ビジネス」だった。
バルドゥルも、ヘイムダルも、すぐには納得しなかった。
だが、翔一の提案が、両者にとって「負け」ではない、唯一の道であることを、本能的に理解していた。
長い沈黙の後。
ヘイムダルが、初めて粘ついた笑みではなく、獰猛な肉食獣のような鋭い笑みを浮かべた。
「……面白い」
彼は翔一を見た。
「……あんた、何者だ? ただの弁護士のヒモじゃねえな」
彼の瞳には、敵意ではなく、畏怖と、同類に対する強烈な興味の光が宿っていた。
「いいだろう。投資の話、乗ろうじゃないか」
バルドゥルもまた、深く、長い息を吐いた。
彼は翔一を、改めて頭のてっぺんから爪先までじろりと見つめ直した。
その目には、もはや侮蔑はない。未知の鉱脈を発見した探鉱夫のような、ギラギラとした光が宿っている。
そして、彼はニカッと歯を見せて笑った。
「……おい、兄ちゃん。気に入った!」
彼は、翔一の肩をバン! と、痛いほど強く叩いた。
「分かった。あんたたちの『鎧』、俺が最高の技術で仕立ててやる。金の話じゃねえ。
……あんたの、そのふてぶてしい頭脳に、俺の魂が賭けたくなったんだ」
リンネアが、信じられないという顔で翔一を見ている。
法律と正論だけでは動かなかった二人が、翔一の「利益の論理」によって、手を結ぼうとしている。
「礼だ、昼飯を食ってけ! うちのシチューは、そこらの店のよりよっぽど美味えぞ!」
翔一は、痛む肩をさすりながら、不敵に笑った。
無一文のまま、最高の武器(鎧)を手に入れる約束と、この街で最も信頼できる職人の心意気、および予期せぬスポンサーを、同時に手に入れたのだ。
彼の、異世界での本当の「仕事」が、今、始まった。
(第一章 第十二話 完)




