第十話『気まずい朝食と、鎧の定義』
焼きたてのパンの香ばしい匂いで、翔一の意識は深い眠りの底から浮上した。
最初に感じたのは、背中と腰に走る鈍い痛みだった。硬い木の床に毛布一枚。お世辞にも快適とは言えない寝床が、容赦なく現実を突きつけてくる。
枕代わりにしていたのも、分厚い法律書の一冊らしい。
(……最悪の目覚めだ。だが……)
翔一は自嘲気味に口の端を歪めた。
不思議なことに、ここ数年で最も深く眠れたような気がした。高層マンションの高級なベッドの上で、いつ刺されるかという悪夢にうなされることもなく。
ただ、泥のように眠っていた。
部屋の隅では、ポポロが毛布にくるまり、すやすやと寝息を立てている。
そして、部屋の主――リンネアは、すでに起きていた。
窓際に置かれた小さな机で、彼女は背筋を伸ばし、一心不乱に羊皮紙の巻物に目を通している。朝日に透ける白金の髪が神々しく輝き、三百二十歳という年齢が冗談に思えるほど凛としている。
「……起きたか、三百歳」
翔一がわざと悪態をつくように声をかけると、リンネアの肩がびくりと跳ねた。
彼女は振り返り、少しだけ寝惚けたような潤んだ瞳で翔一を見つめ、やがてはっとしたように頬を赤らめた。
「……おはようございます、翔一『くん』。あなたこそ、よく眠れたようですね。赤子のように穏やかな寝顔でしたよ」
その的確すぎる意趣返しに、翔一は言葉に詰まる。
彼は寝起きの気怠さを振り払うように身を起こした。その瞬間、着の身のままだったスーツの惨状が改めて目についた。泥と皺だらけで、腹部のあたりは生地が破れたままだ。
リンネアはふっと真面目な顔に戻り、言った。
「……さて。裁判まであと二日しかありません。その前に、これを」
彼女は簡素な布包みを翔一の前に置いた。
「あなたの服ですが……さすがにその姿で法廷に立つのは裁判官に対して失礼です。あり合わせのものですが、用意しておきました」
包みを開くと、中から出てきたのは、洗いざらしの麻のシャツと、丈夫そうな革のズボンだった。
「……着替えなさい」
リンネアが促す。
しかし、翔一はその服を汚物でも見るような目で見ると、鼻で笑った。
「……冗談だろ?」
「何がです?」
「こんなもの、着られるわけがないだろう」
翔一は麻のシャツを指先でつまみ上げると、心底軽蔑したように言い放った。
「あんた、俺が平民の労働者が着るような服で、辺境伯という権力者と戦えと本気で言っているのか?
弁護士にとって、服装は『鎧』だ。こんな威厳のない布切れをまとって、誰が俺の言葉を信じる?」
「贅沢を言わないでください! 私に高価な服を仕立てるようなお金はありません!」
「……なるほどな」
翔一の視線が、部屋を埋め尽くす本の山をなぞった。背表紙に並ぶ、彼には読めない『流文字』の列。
(……法律書に、判例集。弁護士の武器庫か)
彼は冷たい笑みを浮かべた。
「金がないんじゃない。こんな紙の束に全部つぎ込んでるってわけか。おい、だったらそのうちの数冊でも売れば、いい金になるだろ」
その一言が、引き金だった。
「――黙りなさいッ!!」
リンネアの一喝が部屋を震わせた。
「……あなたには分からないのですね。これはただの紙の束などではない! 私のような力を持たない者が、理不尽な権力と戦うための唯一の武器なんです!
それを……それを、売れですって……!?」
「……お、おい……」
「出ていきなさい! あなたのような、人の心も法の誇りも金でしか測れないような人と、共に戦うことなど到底できません!」
シン、と部屋が静まり返る。決裂は決定的かと思われた。
そのとき。
――きゅるるるるぅぅぅ……。
部屋の隅から、盛大な腹の虫が鳴り響いた。
ポポロがぱちりと目を開け、固まっている二人を見上げて首を傾げた。
「……あれ? 二人とも、どうしたの?」
***
リンネアの事務所での朝食は、とても会話を楽しむ雰囲気ではなかった。
リンネアは無言のまま何やら茶色く濁ったスープを温め、階下のパン屋から買ってきたらしいパンを切り分けた。
「ポポロ、こちらへ」
彼女はポポロにだけ優しい声をかけ、食事を並べた。
翔一の分の食事もテーブルの端に無言で置かれているが、「食べていい」という許可の言葉はない。
そのあまりに子供じみた態度に、翔一は内心でため息をついた。手を出すべきか逡巡する。
そのとき、ポポロがスープで口の周りを汚しながら言った。
「翔一も食べなよ! リンネアのスープ、すっごく美味しいんだ!」
その一言が、凍りついた空気をほんの少しだけ溶かした。
翔一はふんと鼻を鳴らし、仕方なく食べてやるという体でスプーンを手に取った。
やがて食事が終わると、ポポロが椅子から飛び降りた。
「ごちそうさまでした! すっごく美味しかった!」
彼は三枚の皿を、小さな手で器用に重ねて持ち上げた。
「僕、お皿洗ってくるよ! お世話になってるんだもん、これくらいしなきゃ」
ポポロがパタパタと足音を立てて階下の水場へ向かうと、二人きりの部屋に再び重苦しい静寂が戻った。
翔一が、静かに口火を切った。
その表情からは苛立ちは消え、冷徹な弁護士の顔が戻っていた。
「……あんたの今朝の態度で、よく分かったよ」
彼は自嘲するように息を漏らした。
「俺は、この世界では何の資格もない、ただの住所不定無職の男だ。……違うか?」
リンネアは答えない。
翔一は続けた。
「だが、俺の頭の中にある知識と技術は本物だ。それはあんたも見たはずだ。
俺たちは今、被告人だ。そして、俺たちは俺たち自身の『弁護人』でもある。違うか?」
彼はリンネアの目を真っ直ぐに見つめた。
「弁護人は、依頼人の利益を最大化するためにあらゆる手を尽くす義務がある。
俺は、俺という『依頼人』のために、最高の『鎧』が必要だと判断している。
……それでもあんたは、自分の個人的な感情と、ちっぽけな金銭の問題で、俺たち自身の弁護を放棄するのか?」
それはただのわがままではない。リンネアが最も大切にしている「弁護士倫理」を逆手に取った、悪魔的な正論だった。
リンネアは唇を噛み締め、激しく葛藤した。この男の傲慢さは腹立たしい。だが、弁護士としてその理屈を否定できない。
「……分かりました」
やがて、彼女は吐き捨てるように言った。
「弁護人として、あなたのその『ふざけた要求』に付き合いましょう。ですが勘違いしないでください。私はあなたのためじゃない。私自身の『依頼人』のために動くだけです」
彼女は鞄を手に取ると、付け加えた。
「心当たりはあります。ですが、そこは『仕立て屋』ではありません。『鍛冶屋』です」
(第一章 十話 完)




