第8話 はじめての道、はじめての野宿
エメルダの町の東門をくぐると、石畳の道はすぐに土道へと変わった。夜明け前のひんやりとした空気が肌を刺し、フィンは思わず身震いした。革袋を肩にかけ、見慣れない風景に目を凝らす。町を出て、たった一人で旅をするのは、生まれて初めての経験だ。不安がないわけではなかったが、胸の奥には、読めない古書の謎を解き明かし、エメラルド薬舗を立て直すという確かな決意が燃え上がっていた。
道はなだらかな上り坂となり、やがてフィンは森の中へと足を踏み入れた。エメルダを囲む森とは異なる、深い緑と湿った土の匂いが彼を包む。木々の間からは、まだ届かない朝日がわずかに差し込み、細い光の筋が地面に伸びていた。彼の体力は決して自慢できるものではない。普段の薬草採集で森を歩き慣れているとはいえ、目的地まで歩き続ける長旅は未知の領域だ。足元はすぐに重くなり、背中の革袋がずっしりと肩に食い込んだ。
数時間歩き続け、太陽が空高く昇る頃には、フィンの額には汗が滲み、息も切れ切れになっていた。喉の渇きも限界に達し、足取りはふらつき始めていた。このままでは、日が暮れる前に倒れてしまうかもしれない。そんな時、道の脇に、小さな泉を見つけると、フィンはほっと息をついた。澄んだ水がこんこんと湧き出ており、水面には朝の光がキラキラと反射していた。冷たい水を喉に流し込むと、乾いた体が生き返るようだった。
フィンは泉のほとりに腰を下ろし、革袋から携帯型ポーション調合器を取り出した。手のひらサイズのそれは、真鍮製の小さな薬研と、それを収めるための木製の箱、そして数本の試験管とコルク栓で構成されていた。
「まずは、体力回復のポーションを……」
フィンはそう呟くと、周囲を見回した。森の中には、見慣れた薬草がいくつか生えている。彼は迷わず、薄紫色の花を咲かせた「活力草」と、赤い実をつけた「生命の実」を摘み取った。どちらも、ごく基本的な体力回復ポーションの材料となる薬草だ。
摘み取った薬草を、携帯型ポーション調合器の薬研に丁寧に乗せる。活力草の葉は柔らかく、生命の実は硬い。フィンは、まず生命の実を薬研の中央に置き、真鍮製の小さなすりこぎでゆっくりと潰し始めた。ゴリゴリと硬い音が響き、赤い実が潰れていく。次に活力草を加え、今度は葉の繊維を断ち切るように、細かくすり潰していく。薬研の中では、緑と赤が混ざり合い、やがて鮮やかな緑色のペースト状になった。
次に、泉の水を試験管に汲み、その中にすり潰した薬草のペーストを少量加える。フィンは、試験管をゆっくりと揺らし、水と薬草が均一に混ざり合うようにした。水はすぐに薄い緑色に染まり、薬草特有の、土と植物が混じったような香りが、微かに漂ってきた。最後に、コルク栓で蓋をし、手のひらで包むように温める。薬舗の大きな調合釜で作る時のような、複雑な魔法陣も、魔力炉も必要ない。ただ、薬草の持つ力を水に溶け込ませる、ごく単純な工程だ。
数分後、試験管の中の液体は、淡い緑色から、少しだけ濃い、透き通った緑色へと変化した。これが、ごく初歩的な体力回復ポーションの完成だ。フィンは、コルク栓を抜き、液体を口に含んだ。
「うっ……まずい」
思わず顔をしかめた。薬舗で父が作るポーションは、たとえ下位のものでも、もう少し飲みやすいように工夫されていた。だが、この携帯型調合器で作るポーションは、薬草の苦味や土臭さがダイレクトに伝わってくる。決して美味しいものではない。しかし、飲み干すと、疲労で重かった体が、少しだけ軽くなったような気がした。
「よし……これなら、もう少し歩ける」
フィンは、空になった試験管を革袋にしまい、再び立ち上がった。ポーションの効果は、劇的なものではない。しかし、彼の疲労困憊の体には、確かに活力を与えてくれた。
夕暮れが迫り、森の奥からは動物たちの鳴き声が聞こえ始める。フィンは、今日中にどこかの村にたどり着くのは無理だと悟った。初めての野宿だ。彼は比較的平らな場所を選び、焚き木を集め始めた。火を起こすのは、薬舗でポーションを調合する時に慣れている。パチパチと音を立てて燃える炎が、暗くなり始めた森の中で、暖かく、そして心強い光を灯した。
夜は、思った以上に冷え込んだ。フィンは革袋を枕にし、上着を体に巻き付けて横になった。空には満天の星が輝いていた。エメルダの町で見る星空よりも、はるかに近く、大きく見える。その無数の星々を見上げながら、フィンは故郷の家族のことを思った。父はまだ、自分の旅を納得していないだろう。母は、ちゃんと店のことを切り盛りできているだろうか。
(この旅が無駄じゃないことを、いつか証明してやる……)
ポケットに忍ばせた、読めない古書にそっと触れる。この書物こそが、彼を未知の世界へと駆り立てる原動力だ。ヒノモト諸島、遠い異国の地。そこには、この謎の文字を解読できる人物が、きっといるはずだ。
不安と期待が入り混じった夜は、長く感じられた。フィンの体力は底を尽きかけていたが、それでも彼は、困難から目を背けることなく、真正面から向き合う性格だった。彼は、まずいポーションをもう一口飲み込み、疲労で重くなったまぶたを閉じた。