第7話 旅立ちの朝、そして見送りの影
翌朝、エメルダの町はまだ深い眠りの中にあった。空には薄明かりが差し込み、町の通りはひっそりとしている。フィンは、使い慣れた旅用の革袋を肩にかけ、音を立てないよう薬舗の扉を開けた。中には、数日分の保存食と、父の「一見そこそこ」な回復薬、そして何よりも大切な、読めない古書がしっかりと収められている。そして、革袋の片隅には、彼が幼い頃から使っていた、手のひらサイズの携帯型ポーション調合器があった。それは、下位ポーションならばどこでも簡単に作れるよう、薬研台の機能を最小限に凝縮した、軽量で簡素なものだった。祖父がフィンに持たせてくれた思い出の品だ。万が一、旅の途中で自分が怪我をしたり病気になったりした時に、簡単な回復薬くらいは作れるように、と思ってのことだった。
昨日、校長室を出た後、フィンはすぐに家に帰り、両親に旅の決意を告げた。父のゴードンは、フィンの話を聞くやいなや、顔を真っ赤にしてテーブルを叩いた。
「馬鹿なことを言うな、フィン! お前はまだ若いし、体力があるわけでもない。それに、この店はどうするんだ! 何が書いているかわからない、もしかしたらくだらない内容かもしれない書物を解読する暇があるなら、ここで一つでも多くのポーションを作って経験を積むべきだ! それが、この店を救う唯一の道だろう!」
ゴードンは、フィンの体力のなさを心配しているだけでなく、彼の真面目さを理解しているからこそ、目の前の堅実な努力を求めた。彼にとって、得体の知れない書物を追うことは、現実逃避以外の何物でもなかったのだ。だが、フィンの真面目な目は、決して揺らがなかった。
「父さん、このままでは店は廃業してしまう。僕は、この書物に何か手がかりがあると信じているんだ。祖父も、きっと何か意味があってこれを残したはずだ。僕がこの謎を解き明かせば、きっとエメラルド薬舗は、この町で一番の、いや、この国で一番の薬舗になれるはずだ!」
フィンの切実な言葉に、ゴードンはそれ以上何も言えず、ただ苦い顔で押し黙ってしまった。母のイライザは、静かに二人のやり取りを見守っていた。結局、その日の夜は、重苦しい空気のまま過ぎていった。
その日の夜遅く、フィンが自室で旅の準備をしていると、控えめに扉がノックされた。開けると、母のイライザが、小さなランプを手に立っていた。彼女の顔には、昼間とは違う、複雑な感情が滲んでいた。
「フィン……少し、いいかしら」
母は静かに部屋に入ると、フィンの隣に腰を下ろした。
「父さんの言うこともわかるのよ。でもね、あなたがあの書物に希望を見出したことも、母さんにはわかるわ。あなたのお祖父さんも、きっと同じように、何かを追い求めていたのだから」
イライザはそう言うと、手のひらに握りしめていた小さな革袋を、フィンの手に押し付けた。それは、ずっしりとした重みがあった。
「これは、母さんが、薬舗に何かあった時のために、と、こっそり貯めていたお金よ。決して多くはないけれど、旅の足しにしてちょうだい。この店のことは、母さんがなんとかするから。あなたは、何も心配せず、行ってらっしゃい。無理はしないで、無事に帰ってきておくれ」
母の言葉に、フィンの瞳が潤んだ。廃業寸前の家業、決して裕福ではない生活の中で、母がどれほど苦労してこのお金を貯めてきたか、フィンには痛いほど分かった。それは、単なる旅費ではなかった。家族の愛と、フィンへの信頼、そして「この店は私が守るから」という母の覚悟が詰まった、重い決意の証だった。
「母さん……ありがとう。必ず、このお金を無駄にしない。この店を、必ず立て直してみせるから!」
フィンは、母の手をしっかりと握りしめた。母は、目に涙を浮かべながらも、優しく頷いた。
そして今朝。フィンは、まだ眠る両親の顔をちらりと見て、静かに家を出た。町の東門を目指し、石畳の道を一人、歩き始める。東門は、かつてドラゴンテール山脈を越える旅人たちが利用した、古い門だ。夜明け前の空気はひんやりと肌を刺し、フィンの心に、これから始まる旅の厳しさを予感させた。
門に近づくと、古びた見張り台の陰に、人影があるのが見えた。門番のガンツ老人だ。彼は普段は校門にいるが、朝早くから散歩をしているのだろうか。偶然にもそこに立っていたガンツは、フィンに気づくと、驚いたように振り返った。
「おや、フィンじゃないか。こんな朝早くから、どこへ行くんだね?」
ガンツは目を丸くする。フィンは、昨日からの出来事を簡潔に話し、ヒノモト諸島へ向かう決意を伝えた。ガンツは、フィンの真剣な眼差しを見て、深く頷いた。
「そうか……お前さんの祖父さんも、若い頃はよく遠くの薬草を探しに旅に出ていたものだよ。あの頃の薬舗は、もっと活気があった。お前さんも、祖父さんに負けないくらいの薬師になれると、わしは信じているよ」
ガンツの言葉は、フィンの心に温かく響いた。それは、単なる門番の言葉ではなく、長年エメラルド薬舗を見守ってきた、古くからの隣人の、心からの応援だった。
「ありがとうございます、ガンツさん。必ず、店を立て直して戻ってきます!」
フィンは力強く言い、深々と頭を下げた。ガンツは、何も言わず、ただ静かにフィンの背中を見送っていた。
東門をくぐると、エメルダの町を囲む城壁が、後ろに高くそびえ立っていた。町から伸びる一本道は、東へ東へと続いていく。その先には、ドラゴンテール山脈の険しい山並みが、まだ暗闇の中にぼんやりとシルエットを浮かび上がらせていた。
フィンは、革袋の重みを改めて感じた。不安がないわけではなかった。しかし、家族と薬舗の未来を背負い、未知の文字と、伝説のポーションの謎を解き明かすという決意が、フィンの背中を強く押していた。彼の真面目さが、この広大な世界で、どんな新たな知識と出会いをもたらすのか。それは、まだ誰も知らない。