第4話 読めない文字と、新たな模索
数日が過ぎた。フィンは、父の部屋から持ち帰った古書の一番下にあった、ずっしりと重い羊皮紙の書物を手に取った。それは、他の書物と同じように簡素な羊皮紙の表紙で、特に目立つ装丁ではなかった。埃を払うと、ただの古い本だとしか思えない。フィンの知的好奇心は、これまで読み進めてきた他の古書と同じように、この本にも何か面白い事実や、薬舗の歴史に関わる意外な記述があるかもしれないという、漠然としたものだった。
その日の午後、フィンは店番をしながら、この最後の書物を読み始めた。相変わらず客足は途絶え、店の中には埃の舞う音が聞こえるばかりだ。こんな時こそ、退屈しのぎに読むにはうってつけだった。彼は表紙を開き、最初のページに目を落とした。
しかし、その書物を開いた瞬間、フィンの眉間に皺が寄った。書かれている文字が、彼が普段目にしているルミナリア王国の共通語とは、全く異なるものだったからだ。それは、まるで、見慣れた文字が、規則正しく複雑に並べられているのに、それぞれの文字の形がまるで意味をなさないように見える、奇妙な羅列だった。彼の知るどの文字とも異なり、しかし整然としていて、まるで別の世界の言葉を見ているかのようだった。頁の端には、時折、複雑な魔法陣のような図形や、奇妙な植物の絵が描かれているが、文字は全く読めない。
「これは……一体、なんて書いてあるんだ?」
フィンは、その未知の文字が記された書物を前に、呆然と立ち尽くした。長年この薬舗に受け継がれてきた古書の中に、まさか自分が読めない言語のものが混じっているとは、全く予想していなかった。彼が必死に読み解こうと目を凝らしても、ただ無意味な記号の羅列にしか見えない。しかし、その文字の奥には、何か途方もない秘密が隠されているような、不思議な予感があった。彼の目の前に立ちはだかる、最初の大きな壁。それは、言葉の壁だった。
フィンは、読めない書物を前に、途方に暮れた。エメルダの町で、この文字を読める人物がいるだろうか? 彼は、思いつく限りの知識を頭の中で巡らせたが、答えは出ない。町の高校で教わるのは共通語のみ。古文書を専門とする学者は、きっと王都にいるのだろう。しかし、今のフィンに、王都へ向かうほどの余裕はなかった。店の経営は逼迫しており、一刻も早く何か手を打たなければならない状況なのだ。
彼は、書物を机の上に置き、ランプの灯りの下で改めて眺めた。文字は読めないが、その紙質やインクの古さから、それが途方もなく古いものであることは理解できた。ひょっとしたら、祖父がこの文字を読んでいたのだろうか? しかし、父のゴードンもこの書物に興味を示さなかったことから、祖父もまた、この文字を完全に理解していたわけではないのかもしれない。
フィンは、次の日も店番の合間に書物を開いては、頭を悩ませた。店にはほとんど客が来ないため、時間だけはいくらでもあった。彼は何時間もかけて、書物に描かれた紋様や図形を書き写し、何か規則性がないかを探した。しかし、彼の知るどの文字体系にも当てはまらず、暗号のようだった。
読めない書物を前に、フィンはがっくりと肩を落とし、自分の部屋に戻った。疲労と、途方もない壁にぶつかった絶望感が彼を襲う。店を立て直すための光明かと思ったのに、これではまるで八方塞がりだ。
その時、店の戸口に、珍しく客の姿があった。彼の高校時代の同級生である、パン屋の息子、ロッドだ。彼は焼きたてのパンを届けに来たのだろう。
「よお、フィン! 元気にしてたか?」
ロッドは明るい声で話しかけてきた。エメラルド薬舗の窮状は町でも知られているはずだが、ロッドはいつもと変わらない様子だ。フィンは、彼との雑談の中で、ふと、この読めない書物のことを相談してみようかと思い立った。
「なあ、ロッド。お前に一つ、聞きたいことがあるんだけど」
フィンがそう言って、自分の部屋から件の書物を持ってきた。ロッドは興味深げに書物を覗き込む。
「なんだ、これ? 見たことねぇ文字だな。古そうだけど、どこで見つけたんだ?」
フィンは、父の部屋で見つけたこと、そして自分が読めないことを説明した。ロッドはしばらく書物を眺めていたが、やがて何かを思い出したようにポンと手を叩いた。
「ああ、そういえばさ、俺たちの高校にいたよな、変な先生が。ほら、遠い異国から来たって言ってた、サヲリ先生って。お前、覚えてるか?」
フィンはハッとした。確かに、記憶の片隅に、その女性教師の姿があった。細身の体にいつもきちんと整えられた黒い髪、そして知的な印象を与える丸眼鏡をかけていた。フィンは直接サヲリ先生の授業を受けたことはなかったが、高校の廊下や校庭で、たまにその姿を見かけることがあった。いつも冷静で、感情をあまり表に出さないクールな女性だったという印象だけが残っている。
「ああ、サヲリ先生か! 覚えてるぞ。でも、あの先生が、こんな古い文字を読めるのか?」
フィンが尋ねると、ロッドは首を傾げながら、彼が学校で聞いた話を話し始めた。
「俺のクラスの奴らが言ってたんだけどさ、サヲリ先生って、ちょっと変わってたよな。いつも分厚い本を読んでたって噂だったし、その本も、俺たちには読めないような、なんか変な文字で書かれてたらしいぜ。なんか、すげぇ難しい言葉を研究してるって噂だったけど、真偽はわかんねぇな」
ロッドの話を聞きながら、フィンは耳を疑った。読めない文字の本を読んでいた? その言葉がフィンの頭の中で何度も反響した。アウロラ薬院に客を奪われ、廃業寸前の家業。その閉塞感を打ち破る、たった一つの希望。彼の意識は、ロッドの次の言葉、例えば「やたらと方向音痴だった」とか、「遠足で真っ先にバテていた」といった、どうでもいい噂話には全く向かなかった。サヲリ先生が、この書物を解読できるかもしれない。その可能性だけが、彼の心を支配していた。
サヲリ先生が、見慣れない古い言語に興味を持っているという事実は、彼にとっての唯一の光明だった。