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第3話 父の書斎と日々の読解

 エメラルド薬舗の午後は、いつも変わらず静かだった。通りを行き交う人の声もまばらで、店の中にいると、時間の流れまでがゆっくりになったように感じる。フィンは、カウンターの埃を拭きながら、ぼんやりと外を眺めていた。アウロラ薬院ができてからというもの、この裏通りを通る客はほとんどいなくなった。たまに通りかかるのは、町外れの森へ薬草採集に行く薬師か、あるいは迷い込んだ旅人くらいなものだ。


 このままではいけない。焦りが、フィンの胸を締め付ける。しかし、何をどうすればいいのか、具体策が全く見えなかった。父のゴードンは、相変わらず古びた新聞を広げ、政治や経済のニュースには熱心だが、店の経営にはどこか無関心なままだ。彼が「一見そこそこ」のポーションを作り続ける限り、店は緩やかに、しかし確実に衰退していくのだろう。


 フィンは、店の奥にある調合室へと足を踏み入れた。壁一面に吊るされた乾燥薬草は、色褪せ、香りを失いかけている。棚に並んだガラス瓶も、中身が減る一方で、補充されることはめったにない。彼は、先祖代々使われてきた、使い込まれた薬研台の前に立った。冷たい石の感触が、フィンの指先に現実を突きつける。


 その日の午後、店内に鈍い音が響き渡った。ゴードンの自室の方からだ。フィンが慌てて駆けつけると、扉が半開きになっており、中ではゴードンが何かに呻いている。部屋の中は、いつも以上に散らかっていた。積み上げられた古書の山が崩れ落ち、父の足元には分厚い本が散乱している。ゴードンは、その本に足を取られたらしく、バランスを崩して尻もちをついていた。


「父さん! 大丈夫!?」

「ああ、フィンか。いや、少し足をひねったようだ……情けない。これだから、わしの部屋は……」


 ゴードンは苦笑いをしたが、普段から他人にあまり私室に入られたがらない彼が、フィンを咎めるどころか助けを求めるほどには、足を痛めたようだった。


「僕が片付けます。父さんは座っていてください」


 フィンはそう言って、散乱した本を拾い集め始めた。父の部屋は、古い書物や道具、意味の分からないガラクタで溢れていた。本棚も机の上も、書類や書籍、小物が無造作に積み上げられている。フィンは一つ一つ丁寧に本を拾い上げ、埃を払いながら元の場所に戻していく。彼の真面目な性格が、こんな時にも発揮されていた。


 彼はふと、本棚の奥に、見慣れない分厚い書物の束が押し込まれているのを見つけた。他の本とは異なり、簡素な羊皮紙の表紙には、古びた紋様が描かれている。おそらく、先祖代々エメラルド薬舗に伝わる、通常の営業時間では表に出さない類の書物なのだろう。フィンの好奇心が刺激された。


「父さん、この本、読んでもいいかい?」


 フィンが尋ねると、ゴードンは顔を上げて、その書物の束をちらりと見た。


「ああ、それは昔の書物だな。わしも碌に読んだことはないが、どうせ古い薬草の図鑑か、秘伝のレシピかなんかだろう。好きなだけ読むといいさ」


 ゴードンはそう言いながら、再び新聞に目を落とした。彼にとって、それらの書物は、単なる「古いもの」であり、特別な価値を見出していなかった。フィンの真面目さが、このような「一見そこそこ」な父の無関心さによって、思わぬ形で活かされることになったのだ。


 フィンは、その書物の束を自分の部屋に持ち帰った。日々の店番の合間、客が途絶えた午後の静寂の中、あるいは夜、家族が寝静まった後に、彼はその古書を思い出したかのように読み始めた。部屋の隅にある小さなランプの柔らかな光だけを頼りに、一枚一枚、羊皮紙のページをめくっていく。羊皮紙は古く、指先に触れるたびに乾いた音がした。埃を吸い込みすぎたのか、彼の喉は時折イガイガとした。


 一つ目の書物は、ルミナリア王国の歴史に関するもので、「王国の興隆と変遷」と題されていた。退屈ながらも、フィンは持ち前の真面目さで読み進めた。王都ルミナスがどのようにして建国されたか、歴代の王がどのような治世を敷いたか、そしてエメルダの町がドラゴンテール山脈を越える交易路の要衝としてどのように発展していったかが克明に記されていた。特に興味を引かれたのは、初期の王国の魔法文化に関する記述だった。古代の魔術師たちが、自然の力を借りて壮大な建造物を築き、人々の生活を豊かにしたという話は、フィンの想像力を刺激した。彼が知る現在の魔法使いは、せいぜい火を灯したり、物を浮かせたりする程度の、ごく日常的な魔法しか使わない。かつての魔法が、これほどまでに力を持っていたとは驚きだった。しかし、この書物には、店の立て直しに役立つような情報は何も見つからなかった。


 二つ目の書物は、様々な地域の魔物の生態図鑑で、「未知なる生物の記録」と題されていた。挿絵として描かれた、奇妙な姿かたちをした魔物たちの絵に、フィンは幼い頃の冒険心をくすぐられた。漆黒の森に棲むという巨大な影のような獣、灼熱の砂漠を泳ぐ炎の蛇、そして天空を舞う虹色の鳥。それぞれの魔物の特徴や、危険度、そしてごく稀に、彼らの体の一部が薬草の代わりになるといった記述もあった。フィンは、いつかこの目で見てみたいと、子供のように胸を躍らせた。しかし、同時に、これほどの魔物が生息する世界で、たった一人で旅に出るということが、どれほど危険なことかという現実も突きつけられた。それでも、この本には、今すぐ店の経営を改善するためのヒントはなかった。


 彼は真面目な性格ゆえに、飽きることなく、丁寧にページをめくり続けた。夜が更け、ランプの油が減っていくのも気づかずに、彼は黙々と古書と向き合った。時には難解な専門用語に首を傾げ、時には眠気と戦いながら、彼はただひたすらに、書物の内容を頭に叩き込んだ。彼は、この古書の中に、何か面白い事実や、薬舗の歴史に関わる意外な記述があるかもしれないという、漠然とした知的好奇心から読み続けていた。それはまるで、祖父が彼に語りかけているかのようだった。しかし、それが具体的な店の立て直しに繋がるとは、この時点ではまだ考えていなかった。



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