第2話 忍び寄る影と、父の「そこそこ」
フィンの日課は、朝食後、店の掃除から始まる。掃いても掃いても積もる埃は、店の閑散とした現状を何よりも物語っていた。ショーケースのガラスを磨き、棚のポーションの瓶を拭く。一本一本、丁寧に、まるでまだ多くの客が来るかのように。古びた店の窓からは、埃を透かした光が、床に敷かれた粗末な絨毯の上に細長く伸びている。その光の中を、まるで夢遊病者のように、埃の粒子がゆっくりと舞い上がっては、また沈んでいく。
午前十時を過ぎた頃、ようやく最初の客が訪れた。近所の農夫、エルドだ。彼は腰をかがめながら店に入ってきて、いつものように壁の薬草の絵をぼんやりと眺めた。エルドは、ゴードンが若い頃からの常連で、腰痛持ちの彼の命綱は、エメラルド薬舗の回復薬だった。
「やあ、フィン。ゴードンさんはいるかい?」
「はい、父は奥の調合室です。何かお探しですか?」
「ああ、ちょっと関節の痛みに効くやつをな。いつもの、ゴードンさんの作ったのがいいんだ」
エルドはそう言って、調合室の奥に向かう。フィンは、彼がわざわざ「ゴードンさんの作ったのがいい」と言ったことに、ほんの少しの違和感を覚えた。フィンが作った基本的な回復薬や毒消し薬も、父と寸分違わない作り方をしているはずなのに。むしろ、父の教えを真面目に守り、薬草の選別から調合の火加減、攪拌の速度に至るまで、寸分違わず行っている分、もしかしたら自分のものの方が、わずかに精度が高いかもしれないとすら思っていた。それでも、客が求めるのは決まって「ゴードンさんの作ったもの」だった。それは、長年の信頼が生み出す、一種の固定観念なのだろうか。
やがて、ゴードンが奥から出てきて、エルドに回復薬を手渡した。エルドは満足そうに代金を支払い、店を後にする。
「父さん、最近、そういうお客さんが増えた気がするよ。俺が作っても、父さんのを欲しがるんだ」
フィンがそう切り出すと、ゴードンは困ったように頭をかいた。
「そうか? 気のせいだろう。わしらのポーションは、昔ながらの製法で作ってるからな。それが安心できるんだろ。それに、お前もまだ若い。経験が違うんだからな」
彼の言葉には、どこか現実から目を背けようとする響きがあった。フィンには、父が客の要望を「長年の信頼」や「経験の違い」という言葉で片付け、新しいものを受け入れようとしない、あるいは現状の厳しさから目を背けようとしているように感じられた。父の「一見そこそこ」な腕前は、彼の長年の経験に裏打ちされた、確かな技術ではある。だが、それは変化を拒み、革新からは程遠い、現状維持の技術に過ぎなかった。
午後の日差しが店内に差し込み、埃の粒子がキラキラと舞う。フィンは、調合室の棚にある古い書物を手に取った。「薬草の基礎知識」「ポーション調合の心得」「古代の錬金術儀式」……どのページも、父や祖父が何度も読み返したのだろう、紙は黄ばみ、角は擦り切れ、使い込まれた跡があった。フィンもまた、これらの書物を繰り返し読み、その内容を忠実に頭に叩き込んできた。ポーション作りの手順、薬草の選別方法、調合の際の注意点。全てを正確に実行することが、良いポーションを作る秘訣だと教えられてきたからだ。特に「薬草の基礎知識」は彼の愛読書で、あらゆる薬草の特性や、適切な採取時期、保管方法などが克明に記されていた。フィンは、その知識を完璧に記憶し、どんな薬草がどこに生えているか、どのような効能があるか、正確に把握していた。彼の真面目さは、知識の習得においても遺憾なく発揮されていた。
しかし、最近、町の外から新しい薬師がやってきて、活気を取り戻しているという噂を耳にした。町の広場にほど近い大通りに店を構える「アウロラ薬院」だ。彼らは、最新の調合法や、珍しい薬草を使ったポーションを次々と生み出し、瞬く間に評判になっているという。派手な色のポーションは、エメラルド薬舗の地味な瓶とは対照的だった。さらに、彼らはポーションの効果を謳う派手な看板を掲げ、町の人々の好奇心を煽っていた。エメラルド薬舗の常連客の一部も、そちらに流れているらしい。
「アウロラ薬院……」
フィンは、その名を呟いて、古びた地図を広げた。エメルダの町を中心に、周囲の森や山脈、そして他の町へと続く道が描かれている。地図の端には、この地域に生息する薬草の分布図も書き込まれている。フィンが幼い頃から、父と一緒に薬草採集に行った場所が、いくつも記されていた。その地図には、祖父の代に記されたらしい、今はもう存在しない伝説の薬草の生息地を示すような、薄れた印もいくつかあった。
日が傾き始め、町の通りから人々のざわめきが聞こえてくる頃、母のイライザが「木漏れ日の宿」から帰ってきた。彼女の顔には、少し疲れの色が見える。普段は柔らかな笑みを絶やさない母の、そのわずかな疲労の色が、フィンの心を締め付けた。
「ただいま。今日は少しお客さんが多かったわ。珍しいこと」
「そうか、それは良かったね、母さん」
フィンが言うと、イライザは小さくため息をついた。
「ええ、でもね、そのお客さんたち、アウロラ薬院のポーションを褒めていたわ。うちの宿に泊まって、向こうで薬を買うんだって。うちも、もう昔みたいに湯治のお客さんなんて来ないし……。このままだと、宿もいつまで持つか分からないわね」
その言葉は、フィンの胸に重くのしかかった。旅館にも客が戻りつつある中で、その客が他所の薬舗の製品を求めるという現実。エメラルド薬舗の経営が悪化しているのは、父のポーションが「一見そこそこ」だからではない。アウロラ薬院が、品質もそこそこながら、より安価で、そして何よりも新しいものを提供することで、顧客の心を掴んでいるのだ。父の「一見そこそこ」なポーションの品質は決して悪くないが、市場のニーズに応えきれていないという、より深刻な問題があるのではないか。このままでは、父の「そこそこ」な安定感だけでは、この厳しい時代を乗り越えられない。薬舗だけでなく、母の実家の旅館まで、その影響を受けているという事実に、フィンの焦りは一層募った。
フィンは、店の奥にある先祖代々の薬師の肖像画を眺めた。皆、誇らしげな顔で、それぞれの時代に薬舗を守り、発展させてきたのだろう。この埃っぽい、寂れた店を、このまま朽ちさせてはいけない。祖父や曽祖父の時代には、エメラルド薬舗のポーションを求めて、遠方から客が訪れたという。その輝かしい歴史を、この代で途絶えさせてしまうわけにはいかない。その思いが、フィンの心の中で、少しずつ、しかし確実に形になり始めていた。彼の真面目な瞳の奥に、かつてないほどの決意の光が、まだぼんやりとだが、灯り始めていた。彼は、今、この店を救うために、自分に何ができるのか、必死に考え始めていた。