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第1話 埃と古書の薬舗で

 フィンの朝は、薬草の独特な香りで始まるはずだった。だが、今の「エメラルド薬舗」に満ちているのは、埃と、どこか諦めにも似た古びた匂いだ。町の外れ、人通りの少ない裏通りにひっそりと佇むこの店は、かつては色とりどりのポーションの瓶がぎっしりと並び、旅人や商人、さらには森の民までが訪れる賑やかな場所だったという。


 フィンは、使い古された木製のベッドから体を起こした。まだ薄暗い部屋の窓からは、朝日が細く差し込んでいる。ここは、周囲を深い緑の森と、古びた城壁に囲まれたエメルダの町。この町は、古くから魔法使いや錬金術師たちが集い、その知恵を分かち合ってきたという伝説が残る、魔法王国ルミナリアの東端に位置していた。ルミナリア王国は、豊かな自然と穏やかな気候に恵まれ、国土の大部分が広大な森や肥沃な大地で構成されている。王都ルミナスでは、王立魔法学院が多くの優れた魔術師を輩出し、魔法文化が生活に深く根付いていた。しかし、エメルダの町は王都から遠く離れ、その魔法文化の影響はごく穏やかで、むしろ素朴な暮らしが営まれていた。


 町の象徴である白石造りの城壁は、かつて魔物の襲撃から人々を守ったという言い伝えが残るほど、分厚く、苔むしている。城壁の内側には、長年の人々の往来で磨かれた石畳の道が張り巡らされ、雨上がりの朝には、鈍い光を放っていた。木造の家々が肩を寄せ合うように並び、煙突からは朝食の支度をする煙が細く立ち上る。時折、遠くから市場の賑やかな声や、鍛冶屋の鎚の音が聞こえてくるが、フィンの住む裏通りまでは届かない。ここは、素朴で穏やかな町だ。特に有名なものはないが、北にある広大なドラゴンテール山脈への入口に近いことから、かつては山脈を越える旅人たちの拠点として栄えていた。その名残か、町には今でもいくつかの小さな宿屋や、旅の道具を扱う店が点在している。


「フィン、起きてるかい? 朝餉の時間だよ」


 母のイライザの声が、店の奥にある居住スペースに響く。食卓には、麦の粥と、自家製の乾燥肉が並んでいた。粥からは湯気が立ち上り、ささやかながらも温かい朝食だ。父のゴードンは、既に席に着いて、古びた日刊紙「エメルダ日報」を広げている。眼鏡の奥の目は、いつも少し困ったように細められていた。新聞には、王国の辺境での魔物の出現や、新たな税制改革に関する記事が並んでいる。ゴードンは、それらを真剣な顔で読み込むものの、店のこととなると、どこか楽観的な、あるいは見て見ぬふりをするような態度を取ることが多かった。


「フィン、今日は店番を頼めるかい? お母さん、少し実家の手伝いに行ってくるから」

「分かったよ、母さん。気をつけて行ってきてね」


 母の実家は、エメルダの町の中心、歴史ある広場に面した「木漏れ日の宿」だ。広場には町のシンボルである大きな噴水があり、季節の花々が植えられている。かつては多くの旅人が疲れを癒した場所で、その名前の通り、中庭には樹齢数百年の大きな古木がそびえ立ち、そこから差し込む木漏れ日が心地よい、趣のある旅館だ。客室は全部で十数部屋あり、全ての部屋から中庭の景色が楽しめる造りになっている。特に評判だったのは、母が作る山の幸を使った温かいスープで、遠方からわざわざそのスープを味わいに来る客もいたほどだ。最近は観光客も減り、寂れてはいるものの、今でも町で唯一、湯浴みができる大きな風呂がある場所として、細々と営業を続けている。母は、旅館の仕事を手伝いながら、時折、店で仕入れた薬草を使って、簡単な薬膳料理を作ることもあった。彼女が作る薬膳料理は、体に優しく、フィンも幼い頃からその味に慣れ親しんでいた。


 フィンは、そんな母の背中を見送りながら、静かに粥を口に運んだ。父のゴードンは、エメラルド薬舗の伝統を受け継ぐポーション職人だ。彼の作るポーションは、ごく基本的な回復薬や毒消し薬が主で、特別に珍しいものはない。しかし、彼のポーションは、なぜか効き目が穏やかで、体に負担が少ないと一部の常連客には好評だった。それは、彼の調合の際に、意識せずとも薬草の持つ自然な力を引き出す、彼なりの感覚があったからかもしれない。フィンから見れば、父の腕は「一見そこそこ」に見える。つまり、致命的に悪いわけではないが、かといって抜きんでて素晴らしいわけでもない。ただ、長年同じ方法でポーションを作り続けてきた職人としての、一種の安定感はあった。


 食後、フィンは店に出た。ひんやりとした空気と、積もった埃の匂いが鼻をくすぐる。ショーケースの中には、ほとんど売れない回復薬と、色の褪せた活力薬が寂しそうに並んでいる。窓の外は、古き良き石畳の道が静かに広がり、たまに物売りの声や、近所の子供たちが遊ぶ声が聞こえるだけだ。店の壁には、祖父の代に流行したという、カラフルなポーションの広告のポスターが、色褪せて貼られている。埃っぽい棚には、使い古された薬研と乳鉢、そして大小様々なガラス瓶が並んでいた。昔はここに、新しい薬草が毎週のように運び込まれ、活気があったと聞く。店の奥、ゴードンの調合室は、彼の身長ほどもある巨大な薬研台が鎮座し、壁一面には様々な種類の薬草が乾燥されて吊るされていた。カモミール、ラベンダー、サンダーソウ、ムーンブルーム……それぞれの薬草が持つ香りが、店の空気に複雑な層を与えている。乾燥した薬草特有の土っぽい匂いと、微かに甘いハーブの香りが混じり合い、それがエメラルド薬舗の、どこか懐かしい匂いだった。


 この数年で、エメラルド薬舗の客足は目に見えて減っていった。その原因は、町の中心部に新しく開店した「アウロラ薬院」の存在だった。アウロラ薬院は、最新の調合法と、より効率的な生産システムを導入し、エメラルド薬舗のポーションと比べて、安価で大量に、そして品質もそこそこ良いポーションを市場に供給し始めたのだ。


「回復薬ひとつ、ください」


 そう言って店を訪れる客は、今では週に数人いるかどうか。かつては朝から晩まで賑わっていたエメラルド薬舗は、もはや過去の栄光だった。アウロラ薬院の登場により、ゴードンの「一見そこそこ」なポーションは、高価で手が出しにくいもの、あるいはわざわざ裏通りまで足を運ぶ価値のないものと見なされるようになってしまった。


「……何か、できることはないだろうか」


 フィンは、静まり返った店の中で、ぽつりと呟いた。このままでは、先祖代々続く「エメラルド薬舗」は、本当に廃業してしまう。古くからの常連客も、新しいポーションを求めて町の外の店へ流れていく。フィンの心には、漠然とした焦りが募っていた。かつては町一番の薬舗として名を馳せたこの店が、今や閑古鳥が鳴くばかりだ。フィンの脳裏には、父が客から「回復薬をひとつ」と頼まれて、申し訳なさそうに古びた瓶を差し出す姿が浮かんだ。それは、かつての誇り高い薬舗の姿とはかけ離れていた。彼は真面目な性格ゆえに、この状況をただ見過ごすことができなかった。しかし、具体的な打開策は、まだ見つかっていなかった。



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