9.憂鬱の種
目を逸らしても問題が解決しないことは明白だ。
何故なら大抵の問題は時間が解決してくれない。
夏休みの宿題は待っていても終わらないし、虫歯は自然治癒しないらしいし、風化したと思った心の痛みはふとある時にぶり返すして精神を蝕む。
だから結局は戦うしかないのだ、それがどんなに困難な道のりでも。
果たして困難な道というのは、例えばこうだ。
「先週渡した校外学習のしおり忘れたやつは前まで取りに来るようになー」
そう、校外学習。
何の変哲もない日常というのは幻想だ。
つまるところ学校には数多くの試練が待ち受けており、そのどれもが必ず苦難を要求する。
これは、その中でも最たる例と言って差し支えない。
「先週も説明した通り、2日間は宿泊施設も含めて主に行動班で活動してもらうからな。今日の授業では各班集まってリーダーと寝るときのベッドの位置を決めてくれー。決まったら2日間の日程を確認して、質問があれば俺んとこ聞きに来るようになー」
担任の指示に、教室の空気が一気にがやがやと崩れ、揺れる。
その揺れに取り残された僕はしばし呆然と、しかしすぐに流れに身を任せる。
「俺ら同じ班だったよな、透。席近いしこの辺集めちゃうか。メンバーは斉藤、四宮と、あと誰だっけ……そうそう飯塚! こっち集まろうぜ!」
大翔が班員に次々と声をかけていく。
瞬く間に集まった班員が、近くの机を寄せて固まる。それに倣って僕もいそいそと自分の机を寄せた。
この一瞬でも、大翔と同じ班だったのがせめてもの救いだと確信した。
大翔は能動的だ。僕が黙っていても勝手に事が運ぶ。
「大翔と同じ班でよかったわー。つかリーダーもうお前でよくね? 今日の授業ほぼ終わりじゃん」
「いやふざけんなって、こういう時はまず自己紹介だろ!」
「俺ら自己紹介いる?」
「いやこいつら……えーっと。あーそうそう、真中と飯塚ね、俺らのこと知らないだろ。はい、俺が斉藤でこいつが四宮。で大翔」
「雑すぎ、つか勝手に俺らのことまで紹介すんなよ。合コンか」
濁流のような会話、笑い声が耳をつんざく。
仲睦まじく話すのは真っ先に大翔が声を掛けた斉藤、四宮の二人。
確か同じサッカー部らしくて、大翔もよく彼らといる。
流れ、流れたことも忘れ、また流れるような会話。僕は蚊帳の外で、おおよそ水たまりにいる。
「お前らなあ……あ、こっちは俺の親友の透ね。あだ名はネガ太郎。あと飯塚君、あんま話したことないけどよろしく!」
それらの中でも特筆して自然で、濁流と水たまりのどちらにも潜れる大翔は特異だった。
もう一人、声をかけられた飯塚も控えめに「よろしく」と返していた。
それらをぼやりと眺め、まぁバランスがいいのか、と他人事のように考える。
班分けを教師側で選出した以上は、必ず意図があるはずだし、この班一つとっても理に適っているように感じた。
僕や飯塚みたいなのが5人も集まったら当然話が進まないからだ。
大翔のような潤滑剤はさぞ使い勝手がいいことだろう。
ところで、僕はいつ大翔と親友になったのか?
「あ、前に大翔言ってたやつな、ネガ太郎。動画見たけどあれうけるよな。何、真中あんな感じ?」
「確かに言ってそー。ちょっとやってみてよそれ」
ほら来た。
こうなるから嫌だったんだ!
大翔とひよりが面白がる分にはいい。あの二人は勝手に面白がって、その場で完結する。
しかし普通はきっとそうでないのだ。
無自覚に求め、消費しようとする。
僕は困ったように笑ってやり過ごすことしかできなくなった。
「おい透にだる絡みすんなって! いいから班の話しようぜ、ベッドの位置決め残ってんだろ」
「そんなん適当でいいって。それより空原の話聞かせてよ、いつも話してるじゃん。あいつ顔は可愛いのに天然ぶってるからきついとこあるよな」
「わかる、悪い奴じゃないと思うんだけどさ、ちょっと大げさで痛いよな。でも細いのに結構胸ありそうだし、俺も話して―!」
大翔が助け船を出すが、それで止まらないのだって請け合い。
更にはひよりの話題にまで飛び火したことで、僕は一気に居たたまれなくなる。
人をアニメのキャラクターみたいに語る様子や、それがひよりに向けられていることも少し気に食わなかった。
「最低だなお前ら!」と笑って受け流せる大翔の軽やかさが、今は羨ましい限りである。
その後もやっぱり4組の嵩原ちゃんの方がタイプだとか、数学教師が説教臭くてうざいとか、飯塚は頭良さそうだけど偏差値どのくらいなのかとか、取り留めのない会話を大翔がたまに修正してベッドの位置決めを行った。
僕と飯塚はたまに巻き込まれながらも、ほとんどそれらを見守っている内に授業が終わった。
***
「さっきは悪い! 前にネガ太郎見せてもらったじゃん? あれ面白かったからサッカー部のやつらに見せたんだよ。あんな風にいじられると思わなくて」
授業後、大翔は声を潜めて僕に謝った。
大翔が何か悪いことをしたなどと思ってもみなかった僕は面食らう。
「四宮と斉藤、悪いやつらじゃないんだけどちょっとデリカシーなくてさ」
友人も否定せず、僕にも気遣いを残す。
僕が絶対にできない綺麗な立ち回りが、別世界のことのようでしばし混乱した。
「あ、いや……気にしてないよ」
そんな気の利いた事しか言えない自分が、尚更嫌になった。
「真中くん! 今日は部活――」
「行かないからね」
放課後になると、当然これである。
ひよりの侵略など、僕にはもう恐れるに足らない。この頃は言い切る前にぶった切ってやっているのだ。
そんなー、とわざとらしく驚くのももう見慣れたものである。
「あ、そうだ! 真中くんの班どうだった? 風見くんと一緒だったよね? 私はじゃんけんで二段ベッドの上を勝ち取りました!」
ひよりが思い出したように言う。どうやら校外学習の話がしたいらしい。
もっとも、日程は事前にしおりに記載された通りだし、ベッドの位置が決まった以外に何も進展はないはずなのだが。
「……普通。ベッドは端の下」
「うん! 真中くんっぽいね!」
どういう意味だろう、ひょっとして喧嘩を売られているのだろうか。
「楽しみだねー! お寺とか、真中くんと回りたかったけど班決めは男女別だもんね!」
想像するだけでもぞっとした。
朝や放課後に少し話すだけで疲れ果てるというのに、この宇宙人と寺巡りなど冗談じゃない。
「……空原さんの班は?」
そして何の気なしに班分けの様子を聞いてみる。
自分以外の班など見てもいないし、ひよりが誰と一緒なのかも知らないが。
まぁこの宇宙人ならどんな群れでも笑って制圧することであろうと疑っていないのに――
「うーん……? うん、みんないい人だよ! 当日楽しみ!」
僕の聞き方があまりに雑だったせいか、ひよりは一瞬目を伏せて言い淀んだ。
確かに、何を聞かれているのかよくわからない質問の仕方だったように思う。
やはり会話は苦手である。
僕はひよりに別れの挨拶を告げ、肩を落としながら帰宅した。