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8.未知の解明に必ず伴うリスクとその末路


 ただの観劇だった。


 そのはずの一日があまりにも重くて、まるで重圧なミステリーを一気に読破したはいいものの、まだ謎が残ったまま読み解けていないような。

 なにか大きな忘れ物があるかのような、よくわからないが、とにかく翌日になっても僕の頭は忙しかった。


 まだうまく飲み込めずにいる。観劇中に抱いた感情の流れ、ひよりの表情と態度、神崎の言葉。

 どれから手を付けていいのか、まず手を付けるべきなのか、それはつまりどうやって――?


 取り留めのない思考だけがぐるぐると回る終着点。

 机の上にそっと置かれた件の『ハムレット』、それが今回の事件の原点であることさえ思い出せば、後は簡単だった。


 ひとまず、これを読む。

 話はそれからである!




 そして意気揚々と、また最初のページから捲り直し――




「ぜんっっぜん、……わからない……」


 結局、また同じところで躓いた。




 ***




 翌朝、週明けの登校。


 結局二度目の敗北を喫した昨夜だったが、前回『ハムレット』を読めずに挫折した時とは違い、休日の昼間から読み進めたことにより寝不足ではなかった。


 それに、前回は一切の内容が頭に入ってこなかったが、今回は少し違った。

 観劇で得た舞台のイメージがある程度は浮かぶようになっていたから、中盤くらいまではなんとか話を追えたのだ。


 しかし同じところでページを捲る手が止まり、あえなく撤退したことはれっきとした事実だった。




 そんなわけで、今日もひよりに顔を合わせるのが少し気まずいのだが――


「おはよー真中くん! 土曜日の舞台楽しかったねー! また一緒に行こうね! もう全部部長に奢ってもらおう!」


 当然、ひよりはそんなことおかまいなしだ。

 朝から清々しい程に神崎を蔑ろしていた。


「……おはよう、空原さん」


 僕は適当に挨拶を返す。

 また本を途中で投げ出した後ろめたさや、読み切れなかった恥ずかしさが押し寄せ、ろくに顔を見れない。


 ひよりからその話題を出されるかもしれない、と思うと気が気でなかった。


「今日は一緒に部活行こうよ! 私は演劇部の今後の活動について作戦会議が必要だと思います!」


 それは部長と二人で勝手にやってくれ!


 いつも通り無茶なことばかり言うひより。しかし、本についてはめっきり触れてくる様子がなかった。


 思考回路が僕とは全く異なる宇宙人のことだ。油断はできないが、もしかして本を貸したことさえ忘れているのではないだろうか。

 もしそうだったらとても気が楽なのだが、なにしろ本は借りたら返さねばならない。

 いずれは読み切って、なんでもなかったことのように簡単な感想を与える必要があるのだ。


 それに、多少は読み解けたからこそ、今度は気になって仕方がない。


「……あの、空原さん」


 この宇宙人は、どのような考えでもって『ハムレット』を僕に渡してきたのか。

 あの難解な文章をひよりが完全解読できているなどとは到底思えないが、少なくとも人に渡すくらいだ、読み切ってはいるはずなのだ。


「うん、どうしたの真中くん!」


 読んでいないため僕の感想は告げられないが、その意図と、ひよりなりの本の印象を聞きたかった。


 読めないのが読解力不足ではなく、どうせまた演劇の理解度の問題なのだろうと思えば多少の我慢は効く。

 僕は意を決してひよりに、本を読み途中だがなかなか進めないことを打ち明けようと――


「……えっと、今日も部活には行けなくて」


 もちろん、できるわけもなく。

 事前に心の準備もせずそんなことを言えるわけがないのだ、僕という人間は。


「えー! 駄目だよ真中くん! 今日こそは一緒に行くって決めてるの!」


 僕の意思を無視して決定事項を告げるひより。

 その様子に胸が苦しくなる。

 好き放題に一方的な要求を喚くひより。対象的に、僕はこんな簡単なことさえ言えない。


「……ごめん」


 なんだか居たたまれなくなり、僕は小声で謝罪する他なかった。




 ***




 それから数日間、僕は何度も『ハムレット』の話をひよりに持ち掛けようと思ったが、悉く失敗した。

 放課後に家に帰ってからは再度挑戦し、失敗する。その繰り返しで、一向に読む手が進まない。


 何度じっくり読み返しても亀のような速度でしか前に進めず、しかも内容の理解には程遠いのだ。


 やっぱり正直に読めなかったことを話し、ひよりの印象も踏まえて何が足りないのかを明確化したい。

 そうでなくても僕はここ数日間、読めない本との格闘で疲弊しているのだ。


 もう後がないぞ、そう言い聞かせて朝の校門をくぐる。

 教室に入ると、早速ひよりが押し掛けてきた。


「おはよう真中くん! 今日は一緒に部活に行こう! 飴ちゃんあげるから!」


 ひよりの新たな作戦が驚くほど浅はかで、僕の開いた口が塞がらない。餌付け……?

 人を野生動物のように扱うのはやめてほしい。


 そんなことより、である。


「えっと……空原さん」


「はい空原です! 真中くんどうかした?」


 意を決して、今日こそ――


「……あー、放課後、ちょっと話したいことがあって。……部活前に時間ある?」


 ――うん、今日中に話せれば、同じことだよね。


 情けなくも、僕の口からは問題を先送りにする言葉しか出てこなかった。

 これでも進歩しているのだと自分に言い聞かせる。進歩してるよね……?


「えーなんだろう! もちろん大丈夫だよ! なんならそのあと部活行っちゃおう!」


 一応は承諾をもらえたということで、僕は一安心する。

 同時に放課後には話すんだという重荷が圧し掛かるが、今ここで言ってしまうよりはましに思えた。


 そしてひよりが去ったあと、隣の席から大翔のとぼけた声が一つ。


「なに透……ついに告白?」


 なわけあるかい。




 ***




「放課後です! ねえ話って何? 真中くん!」


 放課後になると、すぐにひよりが僕の席に突撃してきた。

 大翔は目を輝かせてこちらを眺めていたが、すぐに同じクラスのサッカー部の人が来て「大翔どした? 早く行かないとまた先輩にどつかれるぞ!」と引っぱられていった。いい気味である。


「えっと……」


 僕は言葉に詰まるが、ひよりは相変わらず満面の笑み。静かに先を待つ姿勢が逆に怖い。


 さっきまで事前に用意していた言葉の端々が吹っ飛んだようだった。

 大した話ではないはずなのに、なんでだろう、こんなに口が重いのは。


 やっぱりなんでもない。

 実は今日からしばらく放課後は本当に忙しくて。


 逸らしたり、言い訳したり、そんなことばかりが脳裏を過ぎる。

 それでも言わなきゃ――というより、言いたい気持ちも確かに本物だった。


 気付かれないように小さく息を吸い、ゆっくり吐く。今度こそ意を決する。


「あの……実は借りた『ハムレット』なんだけど、半分くらいはどうにか読めたんだ。でもどうしても、そこから読み進めるのが難しくて――いや、ちゃんと読むつもりなんだけど、空原さんはあの本をどんな風に感じているのか気になったというか、その、つまりは……」


 結局全然まとまらなかった。

 読めなかった、読み切るつもりはある、ひよりの感想も聞きたい。

 要約すればたったこれだけのことなのに、言葉がぐちゃぐちゃになるのがひどくもどかしい。


 だから会話は苦手なんだ、言いたいことが全然伝えられないではないか。


 そして、それを聞いたひよりの反応は果たして――


「えー! 真中くんあれ半分も読めたの? すごいね! 私難しくて全然読めなかったの!」




 ――………………はい?




 耳を疑った。聞き間違いだろうか?


 一旦整理しよう。


 ひよりから借りた本をうまく読めなかったことに、僕は後ろめたさを感じていた。

 そして当の本人であるひよりがどのようにしてあれを読み進めたのか、その感想や読み方のイメージが参考になる可能性を考えた。


 どん詰まりだった僕は、苦汁を飲む思いでそれを打ち明け、ひよりに問うた。

 それに対する回答が、えっと、――なんだって?


「やっぱり真中くんすごいね! あれ、中学校の演劇部でもほとんどみんな挫折してたよ? 演技の参考になるから読めって顧問の先生に言われたのに、全然誰も読めないの! もうおかしくて笑っちゃうよね!」


 みんな、挫折、ひよりも。

 徐々に脳の回転が間に合ってきて、僕の思考が鮮明になる。


 なるほど、つまりひよりは自分でも読めなかった本を、何の迷いもなく僕に渡していたのだ。

 痛いほどよくわかった――やはりこいつは宇宙人だ。理解の範疇を優に超えている。


「あ、そうなんだ。……うん。今後も読書を頑張ります。それじゃ空原さん、また明日」


 僕はなんだかすべてどうでもよくなったような気持ちで、さっさとリュックを背負う。

 一体何だったんだろう、この数日間の悩みは……。


「待って待って! そんな真中くんに、とっておきの提案があります! そうです――部長に聞いてみよう!」


 どこまでもいいように使われる神崎、もはや不憫に思えてきた。

 しかしそんな他人事のように神崎を憐れんでいる場合ではなかったようで。


「いや、だから放課後は――って空原さん? 引っ張らないでって!」


「いいからいいから! 部長なら絶対わかるって! あの人根っからの演劇オタクだもん!」


 なんと珍しく強行手段に出たひより。ついに宇宙人の侵略である。

 僕の腕を掴み、絶対に離さないという意思を感じさせる力強さで引きずり回される。


 大翔が引っぱっていかれるのを見て、いい気味だなんて考えた罰が当たったのだろうか。

 だとしても、裁くのがこの宇宙人ということには皆目納得がいかないのだが。


「待って、空原さん! 自分で歩くから!」


 もはや抵抗を諦めた僕が、腕を引くのだけはやめてほしいと懇願するも――


「私も部長からハムレットの話聞くの楽しみだなー! 真中くん、また一緒に部活に行けて嬉しいね!」


 ひよりは聞いてもいなかった。本当にもう――勘弁してくれ。




 ***




「ふむ。それで珍しく部に顔を出したわけだね、真中君」


「……不本意ながら」


 ひよりは僕を部室へ連行すると、部長に『ハムレット』の話を簡単に告げた。

 二度と入室するものかと拒絶していた部室内は、もはや懐かしさすら覚える光景だった。


「まぁ掛けたまえよ」と促され、渋々神崎と向かい合う形でぼろいソファに腰を掛ける。

 ひよりが横に座った。


「さて、『ハムレット』の話だったね。まずは真中君、どこまで読めたんだい?」


 これに対する回答は容易だった。

 なにしろひよりが読んでいないことなどは完全に想定外で、僕がどこまで読んだのか、ひよりにこそ聞かれる覚悟をしていたのだ。


 何度も考えて、自分の中でざっくりとまとめた概要を思い起こす。


 大枠でまず重要なのは、前王である父を失った悲しみに暮れるハムレットと、二ヶ月も経たずに再婚した叔父と母の会話。

 父を失った悲しみがそう簡単に癒えるものかと訴えるハムレットと、それを受け入れるよう諭す大人たちは対象的だった。


 僕はどちらかと言えば理性的で筋の通った大人の説得にこそ共感したが、ハムレットが父の亡霊と出会うことで物語は一変する。

 なんと母の再婚相手であり、新たに王となった叔父こそが、前王である自分を毒殺した犯人だと、父の亡霊が告げたのだ!


 この展開は結構面白かったし、続きが気になった。


 その後は真相を探るために狂気を演じるハムレット。

 次第に彼を取り巻く登場人物も続々と出てきて、整理が大変だった。


 この辺りから、まず真相を探るのにハムレットが狂人を演じているのが何故かよくわからなかったし、彼の発言も難解化して意図が汲み取れなくなっていく。

 極めつけはハムレットが城に演劇団を迎え入れたシーンだ。

 ここで前回もぽっきり心が折れたのだが、――もう誰が何を喋っているのか、その内容も背景も全てが迷路のように入り組んで読解不可能になるのだ。


 読解不能なシーンを飛ばして先を読んでみても、しばしハムレットの台詞は飛躍したように意図が外されるし、劇台本の中で劇が行われている描写にはどうしても頭が混乱した。


 ここまでが僕が読めた部分と、読めなかった部分の概要をまとめた内容だった。

 そして恐らくは、神崎に話す分には躓いたシーンの特徴だけで十分なのだろう。


「狂人を演じるハムレットが、城に劇団を招いた辺りまでです」


「ふむ。まぁ予想通りだね」


 思った通り、一瞬で察してくれたような――待て、今なんと?


「いくら舞台の雰囲気を掴んでも、『ハムレット』の劇中劇を取り巻く描写はあまりにも複雑構造すぎる。あんなの劇台本に初めて挑戦する人間が読めたものじゃないさ。安心したまえ」


 おいあんた話が違うじゃないか!

 元はと言えば神崎が「それを読めないのは演劇を知らないからだ」とかなんとか言っていたから、わざわざ観劇を受け入れたのだ。

 それをこうもあっさりと、まだ読めなくて当然だなどと言われても困る。


 僕の目が細くなるのも不可抗力である。


「まぁ落ち着きたまえよ、真中君。それ以前のシーンは驚くほど読みやすくなっただろう? それこそが演劇を知るか、知らぬかの違いさ」


 言われ、それも事実であったので僕は留飲を下げる。

 確かに序盤から中盤にかけての内容は、すんなりと理解できるようになっていた。


 観劇をしてはっきりと認識できたのだが、あの台詞形式の文章を、実際に起こっている出来事に変換して想像するのは不可能だった。

 仮にファンタジーのように夢想を描かれているのならば、その描写された様子を想像すればよい。

 しかし劇台本はあくまで舞台で人が演じることを前提にされた台本だ。情景描写などはほぼないのである。

 必然的に、劇で演じられている場面を想像する必要があった。


「それはまぁ、確かに」


「そうだろう?」と勝ち誇ったように言う神崎。いちいち癇に障る男である。


「更に言えば、シェイクスピアの作品はストーリー展開そのものに重きを置いていない。物語の展開をあらかじめ頭に入れておくのも一つの手段だよ。……君はどうあっても嫌がりそうだが」


 神崎が苦笑交じりに言うが、全然納得できずに僕は首を傾げる。

 嫌に決まっているというか、いかにストーリーに重点を置いていなかったとしても、先に展開を知るのなんて邪道に当たるだろう。

 演劇の世界ではそれも普通なのだろうか。


「まぁそれは選択肢の一つさ。とにかく君の読解力が高いのは事実だ。比較的読みやすい劇台本をいくつか経由し、文体に慣れるだけであとは解決する。よければ部室の本を貸し出そう。おすすめはそうだな――」


 神崎はソファから立ち上がり、本棚へと向かった。顎に手を当て、何やら思案している様子を見せる。

 ふむ、とかそうだな、とか一人でぶつぶつ考え込んだ末に、2冊の本を手に取って戻る。ソファに掛け直すやいなやそれを僕に差し出した。


 タイトルは『ロミオとジュリエット』、『十二夜』――どちらも表紙にシェイクスピアと記載されている。

 前者はさておき、後者は初めて見る本だった。


「この辺りが妥当だろう。――『ロミオとジュリエット』はさすがに知っているね? 嫌でも内容の一端が頭にあるから読みやすく、その上内容も喜悲劇的でバランスが良い。対して『十二夜』は純然たる喜劇、こういう作品にも触れておくといいさ」


 隣ではひよりが「私はどっちも好きです!」と宣言している。

 それならばよほどお花畑で夢物語のはずだが、ロミオとジュリエットは悲しいお話ではなかっただろうか?一体どういうことなのか。


「まぁ……時間があったら読みます」


 またも神崎から押し付けられる形にはなったが、正直に言えば多少の興味もあるのだ。

 僕は素直にそれを受け取ると、リュックに丁寧に仕舞った。


「じゃあ、僕はこれで」


 ともかくこれでようやく話が済んだと判断し、立ち上がる。

 僕はあくまで神崎と話すために連れてこられただけで、部活に来たわけではないのだ。


「ま、気負わずに読みたまえよ。そして時が満ちれば、我々は語り合わずにいられない――君も既に共犯者なのだから」


 共犯者という表現にどこか引っかかりを覚えるが、神崎の言うことにいちいち意味を求めていたら、陽が暮れてしまう。


「真中くんまた明日ね! ばいばーい!」というひよりの声を皮切りに、僕は部室を後にした。


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