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7.初観劇


 人生で初めて見たディズニー作品を覚えているだろうか。


 そもそもが人気であるし、ことさら興味がなくても金曜ロードショーで頻繁に放送されているし、中学校の映画鑑賞に教材として使われることもある。

 一つも見たことがないなんて人はおそらくごく少数だろう。


 僕という人間もそうだ。

 両親が結構好きで、時々気が向けばDVDをレンタルしてリビングで鑑賞をしていたし、金曜ロードショーで放送される際には見逃さなかった。

 そんなわけでよく一緒に映画を見ていた。

 以前住んでいた実家からはなかなか行けなかったが、東京旅行ではディズニーランドにも行った。


 幼き頃の僕はそれらに強い関心は示さないまでも、特に拒絶感もなく一緒に楽しんでいたように思う。

 特に好きだったのがベイマックスで、たしか白くて丸いぽよぽよとしたフォルムと、機械感の残る喋り口調のギャップが面白くて気に入っていた。


 何故こんなことを考えているか、それは言うまでもなく。


『今回共に観劇するのは有名劇団の美女と野獣だ。詳細はホームページにて確認してくれたまえ』


 神崎のせいである。


『開演は12時半だが、遅れると中には入れないんだ。余裕を持って11時40分に舞浜駅の改札前で待ち合わせにしよう』


 ご丁寧に待ち合わせ時間と場所まで知らせてくれた。


 断ろうか何度も悩んだが、チケットを購入済みというのがどうしても引っかかった。

 しかし、こちらの予定を聞きもせずに勝手に送り付けられたのだから、断る方が気を遣うのもどうかしている。

 それでもやはり日本人。思いやりという呪いに縛られた僕には、もう逃げ場なんてなかったのだ。


 そんなわけで、僕は舞台を見に行くことを渋々承諾し、そしてディズニー作品の記憶を呼び起こしていたわけなのだ。


 肝心の美女と野獣だが、あまり強く記憶に残ってはいなかった。

 古いアニメか、実写映画か、どちらかをなんとなく見たような気はするのだが、内容をよく覚えていなかったのである。


 そのため、観劇に際して事前に内容の把握をしようとアニメ映画を見た。

 なんとなしに懐かしさを感じつつも、かなり古い作品だった為になかなか絵柄に馴染めなかった。


 感想はありきたりな子ども向けのディズニー映画。それ以上でも以下でもなく。

 人を見かけで判断してはいけない、という普遍的テーマを含むが、高校生にもなった今では深く感情移入することが難しかった。


 だが、ひとまずこれで準備は万端だろうか?


 ――いや、まだ大事な問題が残っている。


『観劇、10代、男、服装』


 僕はせっせと"浮かない格好"を調べ上げた。




 ***




 当日、意識して小ぎれいな格好をして、待ち合わせの舞浜駅へと向かった。

 すっきりと晴れ渡る青空は、4月も末だというのにぽかぽかと暖かい風を運んでいる。


 何度か電車を乗り継ぐこと数十分。

 目的地へと辿り着く。




 ――そしてこれは、想定内だ。




 そう、僕だって馬鹿じゃないのだ。


 神崎から強引に押し付けられた観劇、部にはもう一人演劇好きの宇宙人。

 つまり、ひよりが改札を抜けた僕に駆け寄ってくることなど、もはや想定の範囲内なのである。


「あ! 真中くん! こっちだよ!」


 ひよりは落ち着いた白いワンピースに、薄っすらとピンクの色素が染みたカーディガンを羽織っている。

 普段の制服とは違いかなり大人びて見えるというのに、挙動に一切変化がないことがむしろ不思議だった。


「……今日、空原さんも来たんだね」


「うん! 部長が私にもチケット奢ってくれたの! 高いチケットなのに太っ腹だよね! あ、真中くんには当日まで内緒って言ってたけどどうしてかな? でももう当日だからいいよね! 楽しみだね!」


 一気にまくしたてるひよりの声に頭が痛くなりそうだが、おおむね予想通りの回答だった。


 まずもって、その過程以外は考え難いのだ。

 何故ならば、ひよりに知られてしまえば同行したがることなど明白だったので、僕からは本日の一切合切を隠し通したのだから。


 それに、部長が告げてしまえばひよりは即座にも追求してきそうなものだが、それもなかった。

 神崎の懐事情では僕一人のチケット代を請け負うのが精いっぱいで、ひよりには内緒。そのパターンだけが一縷の望みだった。


「おや、二人とも早いね。待たせてしまったかな?」


 しかし結果はこれである。元凶の神崎は飄々と登場する。


 神崎は白いシャツにスラックス、なにやら高そうなジャケットを羽織った――まさかのスーツスタイルだった。

 本当に高校生だよなこの人、と疑念を抱くほどである。


 とはいえ、神崎は元より長身でスタイルだけは無駄に良い。

 違和感がないのだから、これが着こなしているということなのだろう。


「いえ、私たちもたった今合流したところであります!」


 ひよりが元気に敬礼する。軍隊か?


「ふむ、それならよかったよ。……さて。まだ時間もあることだし、劇場のカフェで一息着こうじゃないか」


 そうしてずんずんと歩く部長と、それに続くひより。

 仕方なく、少し後ろを着いて歩いた。


「いやあ楽しみですねー! 私、美女と野獣はリニューアル前しか見たことないんです!」


「ほう、それは良い体験になることだろう。僕は新版も二度目だよ。しかしながら本舞台は実に完成度が高い。何度だって楽しみさ」


 楽しそうに会話する二人から何の気なしに視線を外し、歩きながら辺りを見渡す。


 舞浜駅の周辺は、既にここからテーマパークの雰囲気が滲む。

 辺り一帯はビル一つなく、千葉とは思えないくらいにすっきりとした景観。

 車通りは隔絶され、綺麗に塗装された歩道の行く先がボン・ヴォヤージュ、ランドホテル、その先に確かディズニーランド。


 家族連れ、学生、外国人。あらゆる人々がここに集い、そして夢の国へと連れられる。

 これ自体が一つの魔法とでも言わんばかりに、道行く人々が笑顔を浮かべる。


 この光景に、僕も幼い頃には確かに浮かれていた。

 胸がちくりと痛む。僕は前へと向き直った。


 今回僕らが向かうのはディズニーランドとは逆方向、イクスピアリの先にある劇場アンフィシアターだ。

 念の為劇場の場所は事前に調べていたのだが、神崎が先導してくれるので着いていくだけでよさそうである。


 海外リゾートチックな大型ショッピングモール――イクスピアリを突き進む。

 こちらも普通のショッピングモールとは根本的にモチーフが違う。

 海外に行ったことのない僕が海外っぽい、と感じるのだから、よっぽど海外っぽいのだろう。


 しばらく歩いてそれらを抜けた先、一度外に出ると次に見えるのはディズニーのアンバサダーホテルというものらしい。

 高そうなホテルだと思って軽く調べたら、思ったより高くてぞっとした。


 そして少し歩けばついにアンフィシアターである。

 建物の中に入る前にチケットの提示が必要らしく、用意していたQRコードをスキャンし、中へと。


 中は至ってシンプルだが、白、黒、茶を基調にした内装は全体的になんだか上品で、高級感のある造りだった。

 建物に入っただけなのにも関わらず空気感がひどく重圧だ。自分がひどく場違いな気がして、不安が募る。


 そんな僕の気など知れず、神崎は堂々と歩き続ける。その後ろを着いて仕切りのないカフェに向かう。


「ホール内は空調が効いているし、休憩以外はお手洗いにも行けないから温かい飲み物がおすすめさ」と神崎が言うので、ホットココアを注文した。

 神崎とひよりはそれぞれ紅茶を頼んでおり、なんだか気恥ずかしくなった。


 店内にはハイテーブルしかないようだったが、チケットがないと入場もできない場所である以上、長居することはないのだろう。


「さて。時に真中君、君は美女と野獣を見たことがあるかい? 原作を知らなくても楽しめる舞台だから、本当にどちらでもいいのだけど」


「あ、それ私も気になってました! 真中くんディズニーとか見るの?」


 席に着くなり神崎が聞いた。ひよりもそれに便乗する。


「……アニメ映画を一度だけ。なんとなく覚えてます」


 浮かれていたかのようにも受け取れそうで、この日の為に予習してきた、とはなかなか言いづらかった。


「そうなんだ! 真中くんもディズニー見るんだね! ちょっと意外かも! ねえ真中くん、ディズニーだったら何が一番好き?」


 にこにこと質問を重ねるひよりに圧倒されつつも、困ったな、と少し思考する。

 どれが好きもなにも、小学4年生以降はディズニー作品など一つも見ていないのだ。


「……強いて言うならベイマックス、かな」


 絞りだしたのは、幼い頃に最も好きだったもの。

 今では少し、けれど確かに引っ掛かりを感じるもの。


 それを言葉にすると、なにか胸が気持ちの悪いものに侵食されたように、異様にむかむかとした。


「ベイマックスかー! あれもいいよね! もふもふそうに見えて、ビニールなところとか! 可愛い!」


 どの軸で考えてもよくわからない感想を述べるひより。

 やはり宇宙人の感性は異常らしい。


「空原さんは?」


 これ以上深掘りされたくなくて、苦し紛れに質問を返す。

 僕に矛先が向かなければ、なんだっていいのだ。


「んー、私はねー……」


 しかしその問いに、ひよりの瞳がかすかに揺れた気がした。


「全部好きだけど、あえて1番を決めるならピーターパン。うん、あれが一番好き!」


 そう言って、にこにこと笑顔を浮かべたまま視線を外すひより。

 その先を追ってみるが、続々とホールへと入場していく人々を眺めているような、もっと別の場所に焦点が合っているような、よくわからなかった。


「ちなみに僕はファンタジアが好きだよ。あれは実に演劇的だ。いずれは劇にしてみたいものだね。しかして一番というのは難しい。他にもノートルダムの鐘なんかは――」


 神崎はというと、僕の知らない作品を筆頭に、何やら熱く語り始めてしまった。

 それに対して「わかります! うんうん!」とわかっているのかいないのか真偽不明なひよりも参戦し、またも演劇トークが開始される。


 僕は全く会話についていけず居たたまれなくなったが、この二人の会話に入ることなど元より不可能であったことを思い出す。

 それをぼやりと聞き流していると、しばらくして「そろそろ行こうか」と神崎が立ち上がった。




 ホールに入場する際も、僕はいそいそと神埼の後ろをついて歩いた。


 なんだか建物内に入った時よりも緊張したというのは勘違いではなくて、多分、ひとえにその雰囲気の格の違いによるものだろう。


 一見して上映前の映画館のような薄暗さであるが、その広さが致命的に違う。

 一般的な映画館の全席を数倍にしたような規模感と、天井の高さ。


 それだけでも圧巻であるが、音の密度も独特だった。

 開演十五分前にもなれば多くの席が埋まっており、それだけ大勢の人間がこの空間にいる。

 だというのに、静けさとまではいかないが、がやがやとした騒がしさは微塵も感じられない。


 どこかで似たような体感を得たことがあるような――そうだ、中学の頃にあった、市内合同で行われる合唱コンクールの時だ。

 雑談を許さない格式高いような空気感は、この手のホールはどこでもそうなのだろうか。


 そして指定席をの番号を確認し、腰掛ける。

 もしかして、なにか開演前の座り方にすらマナーがあるのだろうか、と不安になりこっそり右手の神埼の方を見やるが、なんとも気負った様子のない彼が普通に深く腰掛けているのを見ると、少し気が落ち着いた。

 左手にはひよりが大人しく座っていた。


 正面に向き直る。

 座席はかなり前の方で、正面からはやや左に外れて、ステージに対して角度が付いている。


 開演前だというのに、ステージ上には薔薇のモチーフと装飾が大げさに飾られており、これが目の錯覚だろうか、ゆらゆらと揺れて見えるような、とにかく立体的だった。


「ねぇ、真中くん」


 ひそひそ声、という程でもないが、ひよりが顔を寄せて来た。

 普段元気いっぱいに理解不能の言語を発している分、抑えられた声がやけに新鮮に感じる。


「もう少しだよ。楽しみだね」


「……そうだね」


 適当に相槌を打つが、僕の心中は複雑だった。


 何故なら、改めて今この状況がわけわからないのだ。

 根本原因である『ハムレット』を押し付けてきたひよりと、二次災害を引き起こし舞台のチケットを押し付けてきた神崎、その二人に囲まれているこの現状が。


 しかしながら、もっと根底的な不安は他にあった。


 ――正直に言えば、僕は演劇そのものに大してあまり興味がないのだ。


 神埼の強引さに押し負けた事実とは別で、彼に演劇さえ知れば『ハムレット』も読めるのだと示唆されたことで、少なからず好奇心はあった。


 しかし、実写コンテンツにはそもそもの限界がある。

 嘘くさいし、表現の余地が少ないではないか。

 映画やドラマで見られる演技とはまた違った形式であろうことは認識していても、結局は人の演技であることに変わりがないし、表現の自由度もアニメや小説の方がきっと上だ。


 極めて現実的な劇ならいざ知れず、ディズニーのような魔法を取り扱う作品の演劇なんて、とてもじゃないけど成立する気がしなかった。


 人が物語を創り、それを誰かが演じる。

 それよりも、人が創ってそのまま生きる小説の方がよほど自由で、きっと純度が高い。


 更に言ってしまえば、僕はディズニーがあまり好きではない。

 なくなった、という方が正しいのかもしれない。

 しばらくは見る機会も無かった。だから今回の観劇に合わせて振り返るまで考えてもみなかったが、幼い頃の僕とは違うのだ。


 感動的な物語の表面を掬ったような、現実味がなく都合のいいストーリーに心動くほど、僕はもう素直でいられなくなっていた。


 それは幼い頃の思い出を汚すようでひどく心が傷んだけど、しかし小綺麗なだけの世界観を受け入れるよりましだった。

 はっきりと言葉にはできないが、受け入れれば、僕が僕でなくなるような気がするのだ。




 ――灯りが消え、視界が暗くなる。




 場内アナウンスが流れる。 

 来場者への注意事項等が繰り広げられる。それらの内容は事前に調べていた通り、至って常識的な範囲のもの。


 しばらくして、静寂。


 先ほどまでの漠然とした音の少なさではなく、明確に物音一つさえも許さない空っぽの時間。

 息を飲むことさえ躊躇われるような空洞は、やけに長く感じた。


 そんな空気は一瞬で、いとも簡単に、ずたずたに破けた。


 役者が現れ、声を発した瞬間だった。

 花火が破裂したような爆発的な振動が鼓膜を揺らす。


 迫力という他なかった。 

 圧倒的な声量と、よく響く空間作用、たぶんそれらが合わさって、物理的に衝撃を起こされる。

 そこに呼応するような光、目を見張るような。

 轟音、光、魔法。暗転する。一瞬で人が野獣になる。


 そうこうしていれば、あっという間に日常的な空気感に切り替わる。

 唐突に歌いだす、踊りだす。僕の知っている歌ではない、踊りはあまり見ないが、これもきっと種類が違う。

 イヤホンから流れる音とも、スピーカーが奏でる音とも違う、これは何と呼称されるのだろう。


 日常生活で体験し得ない異様な種類の静寂から、同じく異様な種類の爆音。

 反転。暗闇から光源。異常の中で繰り広げられる疑似的な日常。会話が歌に、歌が踊りに。これら全てが明確に異質だった。


 そして何よりも残るのがやはり声だ。

 気付けば歯を食いしばっていた。なにか、耐え難い拒否感があった。

 理性はそれを気持ち悪い、と言っている。極限まで磨かれた演技、確かにこれはディズニーらしい。

 同時に演劇らしいというのだろう。発声や、表情の転化によるもの。


 わざとらしく、なのに究極的に磨かれているのであろうそれが、何よりも気色悪かった。

 どこかで覚えのある体験のような気もしたが、――あぁ、おそらくひよりだ。彼女はあまりにも嘘くさい。


 一発目の衝撃にひとまず意識を持っていかれたが、序盤の展開は平凡だったため、少し落ち着く。

 物語の基盤やキャラクター性の主張が主で、展開は大きく動かない。


 強いて言うならば、本ばかり読むベルの孤独には共感する部分があった。

 たまにどうしようもなく孤独がきつくなる。でも本は常に変わらず僕を救ってくれる、いや、救ってはくれないか。


 さて、落ち着けばこそ見えるものもある。

 まず思ったのは案外チープな仕掛けだな、という点だった。

 最初の野獣の演出には目を見張るものがあったが、全体的に見れば舞台装置は手動で動かすものや、黒子と聞いたことがある、真っ黒な衣装に身を包んだ人が狼のモチーフを動かしているような、おおよそ手動のものが多い。

 お世辞にもリアリティを感じる仕掛けとは言えなかった。


 それに、やはり歌が邪魔だ。

 演劇に限らず、ミュージカルというジャンル自体が僕にはよくわからない。

 こんなのはありえない、つまりは幻想の類だ。それは作品全体の現実味を削ぐに足るはずだ。

 アニメーションならばいい。しかしそれを無理やり現実に落とし込むことに価値があるのだろうか。

 そして華麗な演出と綺麗で情緒的な歌。それらが終わると巻き起こる控えめの、形式的な拍手。これは芸術に対する敬意を表しているのだろうか、それとも心から感動しているから来る行動なのだろうか。よくわからないまま、僕も手を叩いた。


 物語は展開した。

 野獣と、ベルと、父。 3人と、モノになりかけた者たち。

 それぞれの思惑と、葛藤が交差する。


 捕らわれる者、囚われる者。

 それぞれの立ち位置が明確になるシーンの後、第一幕は終了した。


 なにやら現実に引き戻されたような、引き戻されなかったかのような。

 淡い違和感のままに休憩の20分は過ぎ、第二幕が幕を上げた。


 いくらか弛緩した空気は、轟音によって強引に非現実へと引きずり込まれる。

 狼から逃げ回るベル。前半ではチープだと感じた狼の演出も、いくらかの真実味を帯びたかように感じるのは気のせいか。

 わからないが、ともかく息を飲むような展開が連続した。


 この先が、本音を言えば少しだけ、期待していた。

 アニメ映画で見た内容、この作品の真髄がここにある。

 容姿と屈折した人間性、その内側にある本物同士の惹かれ合い。

 これは作品テーマも相まって、子ども騙しの中にもメッセージ性が見え隠れする。


 もし、これを人間が演じることで、その答えがよりリアルに、より鮮明に提示されたら。


 しかし期待はすぐに瓦解する。

 絶望に打ちひしがれ落ち込むベルが、絶望に溺れ猛り狂う野獣が、いとも簡単に心を許し合いそうなのである。

 物語が展開される度、徐々に、しかし際限なく、怒りに似た感情がこみ上げてくる。

 収まらない。美女と野獣が本をきっかけに、仲睦まじく笑う。本をそんな軽率な道具にされたことも、それを大事なものと共有したはずのベルの裏切りも、野獣の孤独も、全ては無かったことにされる。

 いとも簡単に感情を継ぎ接ぎして、演出の都合の為にいじくりまわされ、何か素敵な出来事かのように脚色して話が進む。

 人間の心を何だと思っているのだろう?人はそうまで単純であれると本気で思っているのだろうか。怒りも、恨みも、絶望も、描かれた次の場面転換で解決してしまうことが正解なのだろうか。それこそが夢の国の幸せな意義だというのであれば、そんなものは滅んでしまえばいい。こんな僕が異端だというならば、じゃあなんだというのだ、これでは僕だけが野獣のようではないか。

 もはや胸にあるのかないのかも掴めない違和感ではない、これは明確な拒絶だった。


 期待に対する裏切りと、原作さえも裏切るかのような心理描写の雑さに、僕ははっきりと憤っていた。

 その胸のいらつきも止まぬまま、再度村へと視点が移る。ガストンが、村人が、野獣を殺せと叫ぶ。


 高圧的な音の暴力と、強く直接的な言葉。全く動機の違うそれらが、しかし僕の今の心情とはあまりにも重なりすぎていた。

 過程など確かにどうだってよかったのだ。得たいものがここにある。身を任せてしまえばいい。そうだ。殺せ!


 しかしてこれは幸せな物語である。

 最後には悪者はやられ、綺麗な心を手にした二人は結ばれ、魔法は溶けてハッピーエンド。

 素敵なお話である。わかりやすくて、美しくて、涙ぐましい。

 場内では激しい拍手が響き渡る。劇中で何度も行われた控えめなものでなく、力強く、核心的な音だった。


 ――でも違う。こんなものが幸せなのだと押し付けないでくれ。


 続々と観客が立ち上がり、手を叩き、それらは例外なく笑顔で、この物語の結末を讃えている。

 それを呆然と見上げる僕は取り残されたまま、僕のことなど見えてもいない人々が幸福を抱いて手を叩く。まるで僕を責め立てるような高い音が跳ねて響く。重なり、抗えない大きな波になり、僕を呑み込む。


 ――やめてほしい。これでは、あまりにも、――僕が馬鹿みたいではないか。


 ふと、左手の指元に何かが触れた感覚。

 見やると、ひよりの小指と僕の親指の付け根がほんの少しだけ触れていた。


 ――更に、頭にきた。

 この宇宙人は、この期に及んで、きっと隣に僕がいることさえ忘れて劇に興奮しているのだ。

 夢の世界に浸るのはいい。それは勝手だ。頼むから僕に触らないでくれ。これ以上近付くな。


 睨みつけるように横目でひよりを見る。明るく照らされた場内、数舜、ほんの瞬きの合間だけ、目と目が合う。


 ――ひよりは今までに見たことがないような、静かな目をしていた気がした。


 声が出そうになるのをこらえて思わず息を飲む。

 見間違いか、まだ僕が劇の魔法の只中に取り残されているからか。

 垣間見えた瞳の奥には何か強い光と、僕の心の奥を見透かすかのような冷静さ、それなのに僕でも、舞台でも、どこでもない何かを見ているかのような――

 いや、こんなくだらない錯覚を抱くくらいにはきっと、今の僕は冷静でないのだ。


 ただ確実に、ひた無邪気な笑顔を浮かべると思っていたひよりが静かに劇の終わりを過ごしたことだけは事実だった。

 ひよりは、一体、ここで何を見たのだろう。


 そんな僕の行き場のない怒りの残り香も、言いようのない戸惑いも、抱いた激情の暴力性も、全てを置き去りにして。




 舞台は幕を閉じた。




 ***




「さ、何か夕食でも食べて帰ろうか」


 シアターを出ると、神崎が夕食の提案をする。

 僕はまだ自分の中に咀嚼のできない異物が残ったような違和感があり、食事は遠慮したかったのだが、それを告げるよりも先に「何を言っているんだね真中君。観劇後に感想や、考察を話し合う。これも演劇の醍醐味の一つさ」と有無を言わさぬ様子で引きずられた。

 まだ断ってすらいないのだが。


 舞浜駅からアンフィシアターまでの道のりを遡るかのようにイクスピアリを進む。

「ハンバーガーを食べましょう!」と元気よく声を上げたひよりの意見が採用され、ハンバーガーショップへと辿り着く。


 週末の店内はぎゅうぎゅうで、しばしの待ち時間を要した。

 十分程で店内へと案内されたので、QRコードを読み込んでメニューを表示させる。


「僕はアボカドバーガーにしよう」


「私はてりやきバーガー!」


「……チーズバーガーで」


 見事に分かれた注文は少し待てば席へと届き、それぞれのハンバーガーを食す。


「はむはむ。あ、部長! 今日はありがとうございました! 新版は初めてだったけどやっぱいいもんですねー! アンフィシアターの方も好きです私!」


「食べ終わってから喋りたまえよ。……ふむ、ただまぁ本当に有意義な時間だったよ。あの完成度は日本でも屈指。一つの到達点とさえ言える」


 ハンバーガーを食べながらも元気よく喋るひよりにげんなりしながら、やはりあれが良い舞台だと評価されていることを実感する。

 喉が通らないような窮屈さを感じた。やっぱり僕が間違っているのだろうか。


「しかし……やはり感情演出の省略。ここには依然として議論の余地があるね。どうしても主題の説得力に欠ける」


「ですよねー! さすがに後半駆け足過ぎてびっくりしました! 大人の事情を感じます!」


「……へ?」


 なんだか間抜けな声が出た気がする。

 この人たち今なんて?


「ん、どうかしたのかね真中君?」


 いつの間にやらアボカドバーガーを食べ切った神崎がこちらを見やる。

 紙ナプキンで口元を拭く所作一つだけでもなんだか様になっているようだ。いや、そんなことよりも。


「いや……だって。評価の高い舞台なんですよね? そんな風に言っちゃっていいものなのかと。……それに感情演出の省略っていうのは」


 まとまらない言葉を絞り出す。

 全て言葉にはならなくとも、神崎ならば掬い取ってくれる気がして、一抹の安心感があった。


「ふむ。……まずね、真中君。大前提だ。世間一般で評価が高いことと、僕個人が作品を好むか好まないかは、全く以て因果関係が無い。そして批判的な意見を胸に抱いた時。それを一方的に押し付けるのは暴力だが、批評するのは自由だ」


 それは……言われてみれば、そうかもしれない。

 広く多くの人に好かれるのには、それ特有の魅力がある。それは演劇に限らず、どの媒体でもそうだ。

 しかし、それが僕の好き嫌いの指標にはなりえないし、嫌いと言う自由も持ち合わせている。


「次に感情演出というのは――そうだな、これは演劇特有の部分も関わる。まず、演劇というのは常に観客の目、それを絶対的に意識して構成される。誰に届けるのか、誰に届けないのか。共存するのか、置き去りにするのか。明確な選択の上でそこに向かって作り、演じる。この根底が崩れることはない」


「はぁ……」


 わかるような、わからないような説明だった。


「つまりね、本作品に関しては――大衆向け、これに尽きるのさ」


 その端的な解釈に、やはり胸がざわつく。

 大衆向け、それはある意味では大衆という群れから外れた人間を、神崎の言葉を借りるなら置き去りにするということだ。


「これに不満を持つ人は少なからずいるよ。しかし、――真中くん、周りを見てみたまえ」


 言われ、辺りを見渡す。

 店内はひどく賑わっており、さすがの観光地、様々な人が和気あいあいと食事を楽しんでいる。


「どうだい? 家族連れ、若いカップル、老夫婦。様々な人がこの場にいる。ひょっとしたら舞台を楽しんだ人もいるかもしれないね。――彼らに、重く、苦しい葛藤を共有し、作品の重みを押し付けることが、本当に『正しい選択』だろうか?」


 言われ、少し考えて、また辺りを見渡す。

 ふと、小学生くらいの子どもがハンバーガーを頬張るのが目に留まった。口をいっぱいにあけ、自分の手よりも大きなハンバーガーにかぶりつき、笑顔になる。口から零したバンズの欠片を仕方なさそうに母が拾い、困ったように笑う。

 神崎が問うているのは、彼らに、――ひいてはかつての自分に、さっき見た舞台と、僕が感じる葛藤を前面に押し出した舞台、どちらを見せるべきか?というものだ。


「……でも、置き去りにされた人は?」


 それを理解してなお、認めがたい部分もあった。

 それは正しい。わかった。でも納得できない。


 僕は置いて行かれたのだから。


「ふ、それも演劇の面白いところさ。置き去りにする、と表現したのは僕の方だが、実は演劇は誰も置き去りになんてしていない。置き去りにされたのは、むしろ演劇の方だ」


 またこれである。

 抽象的な表現で煙に巻く。神崎はこちらが何か掴めるような、掴めないような、絶妙な言葉だけ残して多くを語らない。


「しかして、大衆向けと総評したことの真意は掴めてもらえただろう? 考えてもみたまえ! あれだけ多くの人が、熱狂し、涙し、最後は笑顔になっているのだよ! 今日だけではない、通算では何千人、何万人もの人の心を豊かにしてしまうのだ! これこそが演劇の持つ、最も原始的な魅力の一つだ!」


 高らかに宣言する神崎を見て、納得しているのも確かだった。

 まだむかむかとする気持ちとは裏腹に、合理性や魅力性に関しては、どちらかというと納得させられた、という感覚に近いのだけど。


 それからは神崎の「まずだね、方向性を変えずに演出を変える方法なんてのは無数にあるわけだよ。僕だったら感情演出には二幕の冒頭から手を加えて――」という具合の演出家気どり弾丸トークが始まり、「うんうん! でも私は今の美女と野獣も結構好きです! 結局感動しちゃうし!」とか絶妙にかみ合わない会話を繰り広げていて、僕は蚊帳の外だった。

 この人たち部室でもこの感じなのだろうか?


 そんな会話を横目に、僕は残ったハンバーガーを黙々と口に運ぶ。

 少しだけ喉の通りがよくなっている気がした。




 ***




 帰りは、乗り換えの駅までの路線だけ、ひよりと一緒だった。

 神崎は別路線なのだと告げて去っていった。


 去り際に「ハムレットは、気が向いたら再読してみるといい。今なら読めるはずさ」と耳打ちしていく辺り、抜かりのない男である。

 そういえば元々それが目的であったことさえ忘れていた。


 週末の舞浜駅は、昼であれ夕方であれ、問答無用で人が多い。

 人込みが苦手な僕はこれだけでも強い疲労を感じるのだが、ひよりはそんなことは全然苦でなさそうな様子だった。


 ホームに辿り着き、二人で電車を待つ。


 学校で話しているのとは違い、逃げ場のない二人の時間というのがやけに緊張した。

 それになにやら、ハンバーガーショップを出てからのひよりは少し様子がおかしいのだ。


 顔だけはにこにこといつも通りの笑顔を張り付けているが、明らかに口数が少ない。

 神崎への応答も上の空だったように見えたし、……その割にあの人全然気にしてなさそうだったな。相手が案山子でも一生演劇について語っていられそうな勢いであった。


 ともかく、どうしたというのだろう。

 やはり宇宙人でも疲労が溜まると黙るのだろうか。


 不思議に思いつつも、特にこちらから話しかけることもなく、淡々と時間だけが進んでいく。


 あと4分で次の電車が来る。携帯で時刻表を確認した時だった。


「真中くんはさ、美女と野獣、あまり好きじゃなかった?」


 唐突に蒸し返された話題に、一瞬息が詰まる。


「……いや、凄かったよ」


 咄嗟に無難な返事が出たことに安堵しつつも、薄い感想だなとは思った。

 とはいえ嘘ではないのだ。凄かった、これはれっきとした本音。


 その返事にひよりはくすり、と小さく笑う。

 初めて見るその表情に僕が啞然としていると、ひよりは前に向き直って言葉だけを続けた。


「私もね、少し思ったんだ。リニューアル前は辛かったところとか、苦しかったところとか、結構カットされてて。それも含めて大切な思い出だったのに、なんだか置いてけぼりになっちゃったような気持ち」


 ひよりが語り始める。いつもの飛びぬけて明るい声音も、張り付けたような笑顔も、ここにはない。

 どうしていいのかわからず、ただ続きを待つ。


「だから、部長の置き去りって言葉、少しどきっとした。……それでも私、やっぱり楽しい劇が好きなんだ。舞台では、皆に笑ってほしい」


 そう言って微笑むひよりが、僕に向き直る。

 そんな台詞がひよりの口から出てくるのがあまりにも想定外で、僕はたまらず視線を逸らした。


「だからね、真中くん――」


 そわそわと言葉を待つ僕の顔を覗き込むように、ぐっと距離を詰めてひよりは言った。


「文化祭ではめいっっっぱい楽しい舞台をやろうね! みんなを楽しませるの! もちろん真中くんも一緒に!」


「は? あぁ、……うん……?」


 虚を突かれて視線を戻すと、そこにいるのはいつもの、元気いっぱいで謎の言語を捲し立てる、人間の姿をした宇宙人だった。


「あのね、演劇部の校内活動って限られてるみたいなの、だから次に私たちが意識すべきは、そう文化祭! 一緒に楽しい舞台にしちゃおうねー!」


 急に文化祭の話に飛んでいることも、僕が活動に参加する流れになっていることも、これらはいつも通りのひよりの言動だった。

 それなのに受け入れがたいのは、もちろん先ほどのトーンの違い過ぎる発言を僕がまだ咀嚼できていないからで――


「あ、電車きたよ! ぼーっとしてないで行くよ真中くん! おーい!」


「あぁ、うん……ごめん」


 はっと我に返って電車に乗ってからも、ひよりはモチベが上がったから週明けも部活頑張ろうだとか、校外活動の種類の解説とか、僕にはもっと悲劇的な演劇がおすすめだけど喜劇も捨てがたいからどちらも好きになってほしいだとか――取り留めのないことを喚き散らした末、「じゃあね! 私はここで降りて乗り換え、またね真中くん!」と嵐のように去っていった。


 取り残された僕は、しばらく呆然として外を眺めた。


 久しぶりに抱いた激しい感情も、神崎の言った演劇は誰も置き去りにしないという台詞も、ひよりが初めて見せた静かな表情も――


 何もかもが頭の中で渦巻いているようで、ひどく落ち着かないまま、僕はただ電車に揺られていた。


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