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6.この違和感の正体を知らずにはいられない


 文字がただ目を滑るばかりで、全く脳に入ってこないことがある。


 それは中学1年生の冬、図書館で何の気なしに手に取った、小難しく少し古い本だった。


 印字された文章はとにかく古い言い回しが多く、確かに読みづらい。

 だが落ち着いて読めば、言葉一つ一つの意味は知らずとも、掴めるはずなのだ。


 それなのに、それらが繋がり文章として構成された時、不思議と僕の頭には薄い靄がかかったように理解を拒んだ。


 情報も、情景も、情緒も、その全てがするりと抜け落ちていくような感覚。

 何とか読み終えた。にも拘らず、全くというほど内容を覚えていなかったのが印象的だった。


 それは明確な敗北だった。




 さて、問題の『ハムレット』であるが。

 それはあの冬の日に感じた敗北感を、再び僕に突きつけてくるものだった。


 シェイクスピアと聞いたことだけはあったし、かなり古い時代の海外の作家というのは、なんとなしに知っていた。

 そのためまず厄介だったのが、以前敗北を抱いたものと同じような、見慣れない単語や意味のわからない語彙の連続だ。

 これらを読み解くのはもはや解読作業のようであって、いちいちページを捲る手が止まった。


 そして更に読解を難航させたのが、ほぼ全て台詞のみで物語が展開される、まさに劇台本のような形式だった。

 冒頭で数行の場面描写に留まるモノローグ、それ以降にもちらほらと場面の説明が含まれるが、それらは補足未満の文量。

 普段読んでいる小説とあまりにも異なる形式は、眩暈がするほど馴染めなかった。


 それでも、言葉の意味を前後の文脈から継ぎ接ぎし、それを物語として繋ぎ続ければ、読み解くことはできるはずなのだ。


 僕は躍起になって本を読み進めたが、結局、全然頭に入らないまま時間だけが過ぎていった。





 ***




 そんなわけで、寝不足である。


 結局、ひよりから渡された『ハムレット』、これを読み解くのに熱中するあまり夜更かしをしてしまった。

 にも拘わらず、僕はそれを五分の一だって読み進めることができなかったし、その欠片ですら記憶に残っていない。


 僕の本好きとしてのプライドはずたずたになった。


「……あ! おはよう真中くん!」


 よって、今日はいつも以上にこの顔が見たくなかった。

 誰のせいでこんな目に合っているのかといえば、やはり元凶はこの宇宙人だ。


「今日こそは一緒に部活に行こうと思います! 楽しみだねー!」


 僕の都合などお構いなしに、決定事項のように告げるひより。

 その様子から昨日の歯切れの悪さはすっかりと完治したようで、むしろいつもより機嫌が良いようにさえ見えた。


 普段であれば、ここで僕は放課後に予定があると伝えるだけの会話なのだが、今日はこれに付随してもう一つ。


「そういえば昨日の本なんだけどね! 真中くんもう読んだ?」


 この話題が残されている。

 僕は事前に用意した回答を引き出す。


「いや……まだ。昨日も忙しくて」


 苦肉の策だった。

 読めなかったのではなく、まだ読んでいない。


 結果は同じだし、ひよりにそれを知る術がないのだから、この嘘は絶対にばれないだろう。

 完全犯罪の成立というわけである。


「そっかー! 読んだら感想教えてね! それじゃあまた放課後!」


 幸いにも、ひよりは深追いすることなく去っていく。

 僕はほっと安堵しながら、やはり眠い目を擦って欠伸をかみ殺した。


「おはよー透。……え、なにその顔。寝不足? 昨日なんかあったの?」


 後に登校した大翔には、一発でばれた。




 ***




 放課後、僕は帰りのホームルームでの全体挨拶が終了するや否や迅速に、尚且つ隠密に教室を忍び出た。

 結果としてひよりに捕獲されることなく、無事脱出に成功した。


 そして僕が向かった先、図書室。


 扉を開けると、まだ放課後になったばかりの現時刻、僕以外には一つたりとも人影のない静かな室内が広がっている。

 そろりと中に入る。高校の図書室に来たのは初めてで、なんだか妙に緊張した。


 ――昨夜『ハムレット』を読めなかった時に感じた、あの違和感の正体をどうしても知りたかった。


 その答えになるかどうかはわからないが、中学の頃に手に取ったあの本をまた読めば、何かヒントになるかもしれないと思ったのだ。


 それは誰もが一度は見たことであろう背表紙で、すぐに見つかった。

 時間が経って日焼けした側面と、表紙の角が丸くなった文庫本は、多くの人に読み込まれた歴史が刻まれている。


 本当であれば借りて家で読みたかったが、ここで本を借りる際のルールもよくわかっていないし、この後に誰か人が来ても聞ける気はしなかった。

 諦めて、僕は端の席にそっと腰を掛けて、本を開いた。




 図書室にはそれから、まばらに人の出入りがあった。

 図書委員らしき人が来て本の整理をしていたり、友達と数人で室内に入って来たかと思えば、課題に必要な本を探していると話しながら何冊か本を借りていったり。


 なんらかの要因で声を掛けられることがあるだろうかと怯えていたが、幸いそれは杞憂に終わった。

 しばらくすると、また室内には僕一人。


 結論から言えば、本は以前に比べてかなり読めた。


 2年半以上が経った今でも、独特な言い回しや汲み取りにくい表現、情景を想像しづらいシーンは散見された。

 しかし、全体を通して物語を追えたし、自分なりに解釈の余地もあったのだ。


 明確に作品の全容を語るにはまだ及ばないが、少なくとも、あの頃から全く成長していないという最悪の可能性だけは否定できた気がした。


 しかしながら――いや、だからこそ腑に落ちない。


 何故なら、再度手に取ったこの本をいくらか読み解けたことにより、尚更疑問が深まってしまったのだから。




 時計の針は18時20分。窓の外に目を向ける。

 夕暮れの空模様は皮肉なことに、昨日待ちぼうけの教室から解放されたのとほとんど同じ色をしていた。


 そろそろ帰ろう。

 立ち上がろうとした瞬間だった。


 図書室には到底不釣り合いな、いや、恐らく大抵どこでも不釣り合いな人物がその扉を開いた。


「ん……? やあ! 真中君じゃないか。奇遇だね、こんなところで」


 その人物は、僕の姿を確認するなり、顔にわざとらしい笑顔を張り付けて近寄ってきた。

 もはや見なくてもわかる通り、神崎である。


「ほう、小難しい本を読んでいるね。この本は描写がいちいち回りくどく、現実的で、そのくせ事象そのものは幻想的だ。脳が理解を拒む」


 そんな神崎は軽やかに登場したかと思えば、僕の手元に置かれた本を見て言う。


 僕が先ほどまで必死に読み解き、結局完全に読み解いたとは言い切れなかった本の特性を、いとも簡単に要約して見せた。

 言葉とは裏腹に、脳が理解を受け入れたかのような態度である。


「……そうですね」


 一瞬だけ反論の余地を模索したが、すぐに諦めて白旗を上げた。

 神崎の批評は抽象的だったがそれゆえに大枠を外しづらいし、何より僕がぼやりと感じていた違和感を端的に整理したかのような内容だったのだ。

 この変人に後れを取るのは悔しいが、認めざるを得ない。


 もしかして神崎ならば『ハムレット』も涼しい顔で読み切り、解釈し、劇にしてしまうのだろうか。


 ――そんなことを考えていたからだろう。


「……借りた演劇の本を読んでみたんですけど、全然わからなくて」


 うっかりと、そんな弱音を声に出してしまったのは。

 はっとしたが、もう遅かった。


「なんだって……? それは素晴らしいことだよ、真中君! 人は演劇に触れるべきだ。何故なら、それこそが人生なのだから!」


 神崎は大げさに手を広げ、「さぁ、共に人生と成ろう!」と訳の分からないことを言い始めた。

 その様子に、僕は再び己の失態を悟る。神崎と喋っていると、いつも調子が狂う。


「さて」と、すぐに居直った神崎は続ける。


「読んでいるのは何かな? ひょっとして『テンペスト』が気になって読んでくれたのだろうか?」


 嬉しそうに追及してくる神崎を見て、ここからの巻き返しは不可能と判断する。

 僕は諦めて、流れに身を任せた。


「……『ハムレット』、ですよ」


 僕の回答を聞くと、神崎はすっと目を細めた。


「……なるほど」


 神崎は明後日の方向に視線を捨て、深く考え込むような仕草をする。

 時折ぶつぶつと聞き取れない程度の独り言を零し、まるで僕のことなど忘れてしまったかのようである。


 ……あの、急に無視しないでもらえます?


「あぁ、ごめんよ。少し考え事をしていてね。しかしながらね、真中君。君がそれを読めないのは当然だ」


 ようやくこちらに向き直ったかと思えば、またこちらの神経を逆なでするような言い回しをするのだ。この人は。

 不快感を隠さない僕の視線にも、神崎は「あぁ、気を悪くしないでくれたまえ」とどこ吹く風である。


「だってね、真中君。それは読解力や理解力の不足が原因ではないよ。だからこそ君も悩んでいるのだろう?」


 神崎にそれを指摘されるのは非常に不服だが、まさにその通りだった。


 先ほど再読した本は、今になってみてもひどく難解で歪曲していた。


 抽象度の高い独特の表現や、独自のルールを説明なしに展開する様子、更にはそれが古く馴染みのない言葉で描かれているのだ。

 それらを把握するには、前後の文脈や流れから強引に解釈を広げる能力が求められる。

 その継ぎはぎでなんとか全容を掴めたのだが、これこそが読解力の成長によるものだと実感できた。


 しかし、『ハムレット』を読み解けないのは、なんだか毛色が違って感じたのだ。

 あの時の読めない、とは、何かが決定的に違ったような――


「そして、その原因というのも至極明快なのだよ、真中君。――それは君が"演劇"を知らないからだ!」


 ようやく核心に迫るかのような大仰な前振りの後、決め台詞のように神崎は言った。


 ……なんかすごく当たり前のこと言ってない?この人。


「当たり前のことだとでも言いたげな顔だな。ふむ……。真中君、ちょっと携帯のホーム画面を見せてみたまえ」


「え……? あ、はい……」


 次は何か心理テストでも始まるのだろうか、と不審に思いつつも携帯のロックを解除し、ホーム画面を見せる。

「ちょっと借りるよ」神崎はそれをひょい、と受け取ると何やら操作をし始めた。


 …………って人の携帯なに勝手に触ってんだ返せ馬鹿か!?


 慌てて携帯を取り返すと、何か変なことをされてやいないかと、冷や汗を流しながら画面を確認した。

 一見、怪しいところは見当たらないが――


「あ、僕の連絡先を登録しておいたからね。少し待ちたまえ」


 全然、怪しいことをされていた。


 あまりに非常識な振る舞いを目の当たりにして愕然とする僕のことなど気にも留めず、次に神崎は自分の携帯を取り出して何やら操作を始めた。

 ややあって、僕の携帯に一通のメッセージが表示される。


 確認すると、神崎から何らかの画像が送り付けられているようだった。

 また怪しいものでないだろうな、と恐る恐る開くと、そこに表示されているのはQRコードと、席番号、日付、公演時間――公演時間?


「それは今週末の公演のチケットだよ。安心したまえ、もちろん初心者でも楽しめる劇を選んだし、僕も同行するさ」


「え……? いや、……あの……?」


「君の悩みは、演劇を知れば解決する。ならば見るしかないだろう? ――いやいや、値段など気にしないでくれたまえよ。可愛い後輩の為じゃないか」


 僕がもはや怒るべきなのか断るべきなのか突っ込むべきなのか、何が正解かもわからず混乱している只中、神崎はかまわず話し続ける。


「ま、そういうわけだからさ。僕はそろそろ帰路に着くよ。君も気を付けて帰りたまえ」


 神崎は言い終えると、一片の迷いも感じさせないような確かな足取りで図書室を後にした。


 先ほどまでの騒がしさが嘘のように、室内に静寂が走る。

 今の今まで、ここが図書室であることを忘れてさえいたようだった。


 そんな致命的なギャップにやられ、しばらく身動きが取れずにいる僕だったが、携帯に新たな通知が表示されたことで我に返る。

 そのメッセージの内容から、まだ冷静になりきらない頭でもわかったことが一つだけ。


『そういえば言い忘れていたけれど、そのチケットは一万二千円もするんだ。キャンセル・変更不可だから、絶対に無駄にしないでくれたまえよ』


 神崎、めちゃくちゃ値段を気にしていた。


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