5.夕暮れと本
この世の地獄という比喩表現から、人は何を想像するだろうか。
疫病、戦争、テロ。
多くの人が傷付き、多くの人生を狂わせる。
そんな現実的な問題の数々は確かに世界中で巻き起こっているらしいし、それらはきっと、まさにこの世の地獄なのだろう。
だが、幸いなことに日本の高校生である僕には全く無縁。ここは疑うべくもない平和の国である。
であるならば、等身大の感想としてそんな大仰などこかの悲劇より、目先の展開をこそ地獄と表現して然るべきではないのだろうか。
「そういえばさ、ネガ太郎って何?」
きっかけは、大翔の些細な一言だった。
部活勧誘事件から数日経っても未だに僕を部活へ誘い続けるひよりだったが、本日は下駄箱での遭遇を避けることに成功。
しかしそこで安堵したのも束の間、先に登校していたらしいひよりは、僕が教室に入るや否やこちらへ駆け寄る。
なにやらひどく喧しく宇宙人語を宣っていた。
何を言っていたかはよく覚えていない。
日本語では「部活へ行こう」とか「演劇とはなんたるや」みたいに聞こえたが、きっと宇宙人語で「昨日の晩御飯」とか「ペットのわんこが可愛い」とかそんな意味になるのだろう。
はっきり言って知ったことではない。
そして、いつもはこの雑音は朝の朝礼が始まるまで止まらないのだが、今日は少し違った。
なんと大翔が、僕に絡むひよりに声をかけたのだ!
会話相手が移り変われば僕への攻撃の手が止まると歓喜したが、すぐさまそれがぬか喜びだったことを知る。
大翔はこれこそ話しかけた目的だといわんばかりに、先述の発言を投下したのだ。
そして現在。
僕の目の前には地獄が広がっているというわけである。
大翔からネガ太郎の話題を振られたひよりは、嬉しそうに自身のスマホで動画を探し、なんとそれをこちらに差し出してきたのだ。
『きみの一番の友達になりたいのだ!』
その画面に映るのは、何の変哲もない国民的ハムスターアニメの主役。
可愛らしい顔でくしくしと毛づくろいをするへけ太郎が映っていた。
しかし雰囲気は一転。
『でもどうせ友達なんていうのは、利害関係の一致により生まれた幻想なのだ。信じられるのは自分だけなのだ』
げっそりと頬がこけ、疲れ果てた表情で実に悲観的なことをいう生物へと切り替わる。
背景も薄暗く沈み、実に不気味である。
「可愛いでしょ! 私結構お気に入りなんだ!」
僕にはこれを可愛いという感性が理解できなかったが、大翔は楽しそうに腹を抱えて笑っていた。
楽しそうなのはいいことだが、頼むから他所でやってほしいところである。
「俺一時期SNSとかあんま見てなかったから知らなかったわ、こんなの流行ってたのな」
ひとしきり動画を見終わると、大翔は再生終了後に画面が暗くなったスマホをひよりに返す。
「そうなの! 私グッズもいっぱい持ってるよ! 風見くんも是非布教活動に参加してね!」
「おう、任せろ!」
そうして二人の楽しげな会話が続く。
やはり明るい人間同士のそれは軽快だ。
声音も、テンポ感も、何もかもが僕とは合わずに溶け込めない。
とはいえ元より溶け込むつもりもない。
僕はさりげなく身体の向きを二人から反らし、なんとなく三人の輪、となりつつある陣形から外れようとした。
「それでさ、なんでこれが透?」
しかし退避が一歩遅かったようだし、その一歩が致命的だった。
再度僕の話題に変わったことで、抜け出すに抜けられない状況となる。
大翔に至ってはもういつの間にか「透」と名前呼びである。
きっと、これが様々な人間を虜にしてきた対人テクニックの一端なのであろう。僕は決して屈しないぞ。
「ふふん、よくぞ聞いてくれました! 風見くん……真中くんの顔をよーく見て!」
その発言に首を傾げつつ、大翔は言われるがままに僕の顔をじ、と見つめた。
数秒の余白。
その間、ずっと見つめられ続ける僕、見つめ続ける大翔。
……長い。気まずい。あぁもう顔近いなこの人たちはいつも!
「どう? だんだんハムスターに見えてきたでしょ? それにちょっと暗いからネガ太郎! うん、ぴったり!」
自慢げに胸を張るひより。メンタリストの思考誘導のような話し口調だったが、やっていることは馬鹿丸出しである。
意味がわからない。現に大翔も怪訝そうに眼を細めている。
「透がハムスター……? んー……?」
最後の一線では大翔がまともそうでよかった。
ひよりが馬鹿げたことを言い、大翔が楽しげに突っ込みを入れる。
正しい配置と役割、そこで完結してくれたならそれが最もいい。
さあ言ってやれ、大翔!
「……うん、たしかに! なんか鼻筋クシュっとしててハムスターっぽいし、顔死んでるし! 透、お前はまさにネガ太郎だ!」
僕は頭を抱えた。
***
日直当番は、各授業後の黒板消しが主な仕事だ。
例外的に先生から授業で使う資料運びや、ちょっとした雑用を頼まれることもあるようだが、あまり頻繁に当たっている様子はなかった。
そして僕はやはり運が悪い。
本日、僕がその例外を引いたのだ。
帰りのホームルームが終わり、ひよりの猛攻を搔い潜り速やかに帰路に着こうとした僕は、担任に呼び止められた。
曰く、本日が日直当番の僕に頼みたいことがあるらしく、担任が部活に顔を出してから戻ってくるまで少し教室で待っていてほしいのだと。
ひよりが「それなら仕方ないねー!」と早々に諦めて去ったのはよかったが、よりによって放課後に頼みごとをされたのはかなり迷惑だった。
何か断るに値する用事や言い訳も出てこないし、了承する他なかった僕は大人しく教室に残る。
放課後の教室というのは、独特だ。
部活に行く前の人たちや、意味もなくその場に留まり雑談を続ける人たちは、30分もすればほとんどが帰路に、もしくは部活に、それぞれの目的地へと向かう。
すぐに閑散とした空気は、しかし朝早くに登校した時の教室の静けさとは、明らかに何かが違って感じた。
それが何故かはよくわからないが、ともかく、放課後になる度にすぐさま学校を後にしてばかりだった僕にしてみれば、ここはとにかく落ち着かない。
早く担任が戻ってきてほしいと願いながら、僕は電車で読む為に持参している本を、そっと開いた。
――結局、担任が戻ってきたのは2時間後だった。
4月も半ばになれば、真冬に比べてかなり気温も上がっているし、陽も長い。
けれど時刻が18時半を回ってしまえば、さすがに空は赤く、肌寒い風が肌を刺す。
これからバスで駅へ。電車に揺られること40分、それから徒歩で約10分。
自宅に着いた頃には20時を回ってしまいそうで、僕はかなり憂鬱だった。
そして、憂鬱の種がもう一つ。
「真中くん!」
そう、宇宙人との再遭遇、これを懸念していたのだ。
ひよりは校門前で待ち構えていたようで、僕を見つけると、途端に笑顔で手を振って駆け寄ってくる。
「あのね、私はさっき部活終わって、丁度透くんもこれから帰りだって聞いたから待ってたの! こんな時間まで大変だったね! お疲れ様!」
「……空原さんのおかげで、先生が僕のこと思い出したって聞いた。一応、ありがとう」
「ううん、気にしないで! 先生うっかりだよねー! 真中くん災難だったね!」
非常に不服だったし、言っていることが情けなさすぎて泣きそうであるが、そうなのである。
僕は先生に忘れられていたのだ。
本に集中していたとはいえ、たまに時計は確認していた。
しかしこれ如何に、17時、17時半と、時間が過ぎるばかりで、一向に担任は現れなかったのだ。
とうとう不安が最高潮に達し、教務室へと向かおうかと悩んでいたその頃だった。
ようやく現れた担任は、教室に入ってくるや否や、「すまん、用事を頼もうとしてたの忘れてた!」と。
部活に顔を出した後、教頭に呼び出されたり、保護者からの電話が入ったりとばたばたしていた、などと言い訳を並べていたが、そこはあまり重要でなかった。
問題だったのは、その口から空原という単語が飛び出たことである。
つまり、今しがた部活帰りの空原とすれ違い、透はいつ帰ったのかと尋ねられたのが思い出したきっかけだった、と。
先生が僕を思い出すきっかけを作ってくれたことは感謝に値するが、かといってひよりに僕がまだ学校にいるという情報が伝わることは喜ばしくなかった。
待ち伏せ、また絡み、そしてしつこく演劇部に行こうと喚き始めるに決まっているのだ。
だが、担任に忘れられていたという情けない場面を知られた屈辱感や、放課後に教室に残っていた気疲れから、よもや抵抗する気力などない。
適当にあしらって早く帰ろう、一応礼は告げた。
僕はいつも通り、ひよりの言葉を受け流す心の準備をして待った。
「あのね、それでね……今日は、真中くんにある物を持ってきました!」
しかしやはり宇宙人、僕の防衛線は、予想外の侵略にいつだって機能しない。
「……ある物?」
明日は一緒に部活に行こうね、実は今新しい劇の稽古をしていてね――
想定していた台詞とは全く違う言葉に、僕はひどく戸惑った。
「はい、これ!」
そう言ってひよりが鞄から取り出したのは、一冊の本だった。
差し出されたそれを手に取る。タイトルは『ハムレット』――見たことのない本だ。
「……これは?」
「真中くん、本は好きだって部長が言ってたの! 部長が『テンペスト』の話をしている時も、ちょっと楽しそうだったし!」
また部長の差し金か、と。
これはこれで、げんなりしてしまう。
あの人は本当に余計なことしかしない。
「……えっと」
つまり、読めってことなのだろうか。
「えっとねー! うん……多分、なんとなくだけど、今、真中くんにはこれだなって思って!」
意図が掴めずに困っているのは僕の方なはずなのに、何故だかひよりも歯切れが悪くなっていく。
回答が要領を得ないし、結局なんなのだろう。
「うん、それ、よかったら読んでみて! ちょっと難しいかもしれないけど、なんかこう、フィーリングで!」
本をフィーリングで読むという、実に奇怪な提案を最後に、ひよりは「そういうことだから!」と身を翻し、話を切り上げる仕草を見せた。
「また明日ねー! 真中くん! ばいばい!」
そうして駆け出すひよりを、呆然と見送る。
その背が校門を潜り、夕暮れの空に溶け、次第に視界から完全に消え去るまで、僕は動き出せずにいた。
***
帰宅後。
僕はひよりとの会話から、何かが引っかかっているような、得体の知れない居心地の悪さを抱えていたのだが、それが何かはすぐに判明した。
それは跳ねのける間もなく、半ば強引に押し付けられた本をリュックから取り出した時だった。
ひよりの「ちょっと難しいかもしれないけど」という発言を思い出し、腑に落ちたのだ。
数年間、本が友達を地で行く生活を送ってきた。
そんな僕に、こともあろうに本を差し出し、「ちょっと難しい」のだと。
舐められたものである。
感想を話して喜ばれても困るのでそれを共有することはないだろうが、馬鹿にされた以上、読まずに返すのは僕の本好きとしてのプライドが許さない。
僕は制服を脱ぎ捨て部屋着に着替えると、すぐさま読書に取り掛かった。
そして――
「ぜんっっぜん、……わからない……」
ちょっと難しいどころではないそれに、僕は見事敗北した。




