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3.時に嵐の渦中に飛び込むことこそが最も安全であることの証明


 宇宙人の侵略というのは、当然の如く人智を超える。

 想定外の奇天烈な方法で、現代科学では説明の付かない現象を巻き起こすそれに、おおよそ対抗する術はない。


 つまりはこういうことである。


 あれから、空原ひよりはしつこかった。


 下駄箱でうち履きを取り出す時に、ひょっこり顔を出したかと思えば、


「真中くん! 待ってたよ、今日は演劇部に行くの?」


 にこにこと僕の顔を覗き込んできたり。


「ねえ、お昼ご飯一緒に食べよう! そのあと演劇部に挨拶しに行こう!」


 お昼にお弁当を掲げて机に突撃をかましてきそうになったり。


「真中くん! ついに放課後だよ、演劇部に行こう!」


 放課後にももちろん僕の腕を引っ張り誘拐しようとしたり。


 正直に言って、この1週間、生きた心地がしなかった。

 朝、小休憩、昼休憩、放課後。

 学校にいる多くの時間が空原ひよりからすれば急襲のチャンスであり、僕からすれば気を抜けない。


 ようやく本格的に始まった授業の時間だけが僕の安らぎだった。

 勉強は特段好きでも嫌いでもないものの、今だけは感謝を告げよう。


 いつもありがとう、先生方。


 そして最初こそは好奇の視線を送っていた同級生達だったが、3日もすれば「またやってるよ」くらいの生暖かい視線へと変化し誰も助けてはくれない。

 やはり人間社会とは時に非情なり。

 救いの手は差し伸べられない。



 そんな嵐のような一週間が過ぎ、月曜日。

 ここで、先送りにしてきた課題が僕に突き付けられる。


「えー、入部届の提出期限は今日まで。未提出の奴は今日までに部活体験に行って、放課後18時までに入部届を提出するように」


 絶望の宣告である。


 入学してからここまで平穏が訪れなかった僕に、この問題を解決する余白が無かった。

 当然、部活体験など行っていないし、明確にどの部がいいかも確定されていない。


 まぁ、僕の性質から逆算して、多少熱量に負けてもパソコン部に入る以外の選択肢がなさそうであるが。


 消去法だが背に腹は代えられない。

 それに、パソコン技能の検定は取っていて将来的に損はないし、気は進まなくとも益はある。


 自分を納得させるには十分な理由だった。

 うん。そういうのだけはやたら得意なんだよね。無駄に。


 さて。


 ここまでは良い。

 最後に残るのはやはり――


「真中くん!」


 これである。


 先延ばしにしてきたのはむしろ、部活問題より、ひより問題だ。


「入部届の期限が今日までだって! 今日こそ演劇部に行くよね!」


 どうしよう。

 はっきり言って、僕は空原ひよりが苦手だった。


 底抜けに明るいこと自体もそうだが、この強引さとスピード感を前にすると、うまいこと言葉が出ない。


 そもそもこちとら今までろくに友達の一人もいなかった陰キャである。

 こんな人間とまともに会話をしろという方が無理な話だ。


「えっと……。部長さんにペンを借りていたから、それを返しに行くだけだけど」


 結果、なんだかよくわからない回答をしてしまう。


「よかった! ついに一緒に行けるね!」


 やはり聞いているのだか、いないのだか。

 ペンを返しに行くだけって、一応言ったよな……?


 空原ひよりは「じゃあまた放課後!」と言い残し、足早に自分の席へと戻っていった。


 呆然としている僕の横から、声。


「なあ、お前演劇部に入るの?」


 驚いて顔を向けると、先週末に行われた席替えで隣になった、確か――風見大翔(かざみひろと)がこちらに顔を寄せていた。

 くどくない茶色の爽やかな短髪、一目でわかる陽の者。


「いや、あれは誤解で……」


「ふうん、そうなんだ。じゃあ何部?」


 ひよりほど問答無用の強行突破ではないが、この人も結構ぐいぐいくる。


「パソコン部にしようと思ってるよ」


 答えると、大翔はわざとらしく顔を歪めた。


「まじ? やめといた方がいいよ。あそこ運動部以上にスパルタって先輩が言ってた」


 うわあ……。

 まず最初に感じたのは、既に先輩との交流で校内の情報を仕入れていることへの怯えだった。

 僕には絶対に真似できない芸当だ。

 しかも嫌味でないのだから、こちらとしてはずるいと反発することすらできないではないか。いや、やっぱりずるい。


 遅れて、「運動部以上にスパルタ」というワードが脳内で処理される。


「ええ……」


 情けない声が出ざるを得なかった。


「まじで凄いらしい。理由なく部活を休むとか絶対許さないし、やる気の無さそうな部員詰めてディベート始まったりするって」


 確かに部長の部活オリエンテーションでの熱量は凄まじかった。

 運動部にも負けないくらい打ち込んでいるのが伝わったし、部員に対してもそれなりに厳しく接していそうとは思っていた。


 しかし正直、そこまでは覚悟していなかった。

 それは、なんというか、すごく困った……。


「だから演劇部の方がいいんじゃない? あの変な部長も幽霊部員でいいって言ってたじゃん」


 確かにそうなのだけど。

 如何せん二人が変人すぎるのがずっと引っ掛かっていた。


「まぁ幽霊になろうにも、あれが放っとかなそうだけどな」


 視線の先、あれ、というのはもちろん空原ひよりのことだ。

 大翔は楽しそうにころころと笑顔でひよりを眺めている。


 なんかやけに面白がってない? この人。





 ***




 ついに来てしまった。この時間が。


「真中くん! 演劇部に行こう!」


 もはや形式美である。

 ここ最近は毎日この光景であったし、毎度なんとか避けてきたが、本日ついにその誘いに乗らざるを得ない。


(ペン、返さなきゃいけないし……)


 なんだかこれが言い訳のように思えて、少し悔しかった。


 頷き、簡単に荷物をまとめ、リュックを抱える。

 立ち上がると、空原ひよりは僕と歩調を合わせて歩き出した。


 大翔がにやつきながらこちらを見ていた気がするが、見間違いということにしておこう。


 廊下に出る。

 なんとなく気まずくて、あえて半歩程ずらして後ろを歩く。

 そうするとひよりもそれ以上は無理にこちらに合わせず、数センチの距離が開いた。

 たったこれだけの間隔でも、なんだかすごく安心する。


「真中くんはどうして演劇部に入ろうと思ったの?」


 階段を降りながら、空原ひよりが少しだけ首を捻ってこちらを見た。


「前を見ないと危ないよ。えっと……別に演劇部に入りたかったわけじゃなくて」


「えーもうそういうのいいって。部長が言ってたよ! 真中くんは興味がないとか言うだろうけど、照れてるだけで自分には演劇部に入る相談をしていたんだって!」


 ……そういうことかあの野郎またやってくれたな!


 この1週間、遠回しに演劇部に入る意思がないことを何度も訴えかけたが、ひよりは動じなかった。

 ひよりが本当に宇宙人で、僕の言葉が全部宇宙人語に変換されているのではないかと本気で疑ったほどに、会話が成立しなかったのはそういうことだったのだ。


 僕がいくら否定しても、ひよりの脳内では僕が照れているだけと認識されているのであればそこで引くという結論にならないのも納得である。


 僕の中で、ひよりが地球人である可能性が高まったことによる安心感を得ると同時に、部長への不満が更に増大した瞬間だった。


 あの変人部長、出会い頭に一発ぶん殴っても許されるのではないだろうか。やらないけど。


「まぁいいや、ついたよ! こちらが我が演劇部です!」


 そうしてノックもせずにドアを開けると、ひよりはずんずん中に入っていった。


 後に続く。


 一歩下がり、ドアを閉める。


 あぁ……やっぱり帰ろう。


「待ちなさーーい! なんでいきなり帰っちゃうの真中くん!?」


 背を向け足早に去ろうとした僕の肩に、ひよりの手が乗る。

 結構本気で逃げるつもりだった僕を強引に引き留めてきた。


「いや、だって……」


 振り返ると、ひよりが開けっ放しにしたドアの先、演劇部の部室内。

 なんだかすごく偉そうにふんぞり返った"魔法使い様"がそこにいた。


 締め切られたカーテンで室内は薄暗く。

 わざとらしい照明代わりのライトに照らされたそれは、実に奇抜な格好をしていた。


 細やかな装飾のされた黒いローブに、大げさな帽子。

 身長よりも大きな杖を持ち、手を大きく広げ目を瞑る人物とは、恐らく神崎悠その人である。


「一体何なの? あの人……」


 変すぎる。こわい。


「ささ、とりあえず入りなよ!」


 ひよりに背中を押され、部室に。


「……」


 そして一体どうしたというのだろう。

 空原ひよりはにこにことしているだけで何も言わないし、神崎悠は目を瞑ったまま動かない。生きてる?


「えっと……とりあえずペン、返しますね」


 仕方なく話しかけるも、相変わらず微動だにしない神崎。

 気まずい。やっぱり帰ろう。


 ペンをテーブルに置き、いそいそと部室を後にしようと考えたその時、ようやくそれは動いた。


『嗚呼――何の因果か、我が魔導書を盗みし者が、ついにこの扉を開け放つ日が来ようとは!』


 何故か耳に鳴るくらい大きな声で、神崎は語り始める。

 ようやく開いた瞳が、ゆっくりとこちらを見やる。


 吸い込まれそうな深い黒。何故だか胸がざわつく。


『名を言え! 我が島へと来訪せし、異国の民よ』


「はあ……。……はあ……? 真中ですけど」


 気圧されて、思わず名乗ってしまう。

 は!いけない。この変人に個人情報を渡すなど、正気でない。


 だが確かに、人を正気にさせない仕掛けがこの空間には張り巡らされていた。


 そもそもが校舎の喧騒や、文化部からもかなり離れた一室だ。

 雑音となる外部の音はほとんどが聞こえない、静寂。


 やたら薄暗く、それでいて神崎の異質さを一層際立たせるライトの光。

 まるで彼の舞台に迷い込んだかのような、軽度の錯覚。


 そして本体はやっぱりこれである。


「…………」


 謎の台詞を吐き捨て、それからまた充電切れのロボットのように動きを止めた部長、神崎悠。

 彼の存在感が、この場を異質足らしめているように思った。


「さて、空原君」


「はい!」


 ようやく動きを再開した神崎は、いつもの調子に戻った少し変な先輩だった。


「これが何か……わかるかな?」


「もちろんです! シェイクスピア最後の作品、『テンペスト』からプロスペロー先生ですよね!」


「その通りだ! さすがは中学時代演劇部のエース、期待の新人だね君は!」


「いやあ期待の新人だなんてそんなー! そんなこともありますけどねー!」


 そんな僕の困惑などは露知らず。

 二人はきゃっきゃと笑いあっている。実に楽しそうである。


「そしてもう一人期待の新人、真中君」


 なんかついでみたいに期待の新人にされてしまった。

 法廷では不服申し立てを即時に行ってよかったんだっけ?


「どうだったかな? 我が舞台は。今のは劇のほんの一幕ですらない、束の間の演劇であるが」


「はぁ……まぁ、凄いですね」


 これは本音である。


 ほんの一瞬、ほんの些細な錯覚であるが、僕は異世界にでも迷い込んだかのような感覚を味わった。

 これが意図的に引き起こされているのだとしたら、それはきっと、とても凄いことなのだろう。


「ふむ。……まぁ、今はそんなものだろう。それではこれで形式上の部活体験は完了したということで、早速入部届を出してきたまえ。詳しい説明はそのあとで行おう」


 だが、それとこれとは話が別だ。

 今のやり取りで確信した。演劇部は危険だ!


 是が非でもここを撤退させてもらう。


「いえ。それは……」


「パソコン部なら辞めておいた方がいい。あそこは控えめに言って地獄だ」


 だが僕が言い終わるより先に、またも神崎はこちらの意図を汲み取って告げる。

 本当にこの人、他人の心が読めるのではない?


 そしてその台詞に、少し気が重くなってしまう。

 これは非常に痛いところを、再度突き付けられたからだ。


 僕が取れそうな選択肢がパソコン部しかない以上、覚悟を決めて行こうと思ってはいた。

 それに大翔から聞いた股聞きの情報ではまだ信ぴょう性に疑問が残っていたので、一縷の望みがあったのだ。


 噂は大げさで、そこまでひどいものではない!と。


 しかし、神崎の口からも「地獄」という表現が飛び出したことで、いよいよパソコン部=超スパルタの方程式が現実味を帯びた。


「その反応……事前に情報は仕入れていたのか。その上で突き進むというのなら止めはしないが――そうだな、真中君。少し演劇の話をしよう」


 まだ何かあるのだろうか?

 部活勧誘だった話の流れが、一気に演劇へと引き戻されたことに気持ちの悪さを感じる。


 大翔は少し強引だがきちんと会話が成立した。


 ひよりと神崎は、会話のキャッチボールがなかなかに成立しない。

 お互い取りやすいボールを投げましょう、というルールを無視して、突然消える魔球を投げつけてくるのだ。


「先ほどの劇――厳密には劇ではないが、ここでは置いておこう――『テンペスト』のテーマは、端的にいえば赦しと解放だ」


 そして始まる演劇のうんちく。


「この物語の主人公、魔法使いプロスペローはかつて王宮にて暮らしていたが、兄弟に裏切られた。そして同時に見捨てられた幼子、ミランダと共に島に流れ着き、ひと時は平穏な暮らしをしていた」


 だがこれは苦痛ではなかった。

 元より本を読むのは趣味である。物語の概要を聞くことは、それなりに興味がある。


「そんな折、プロスペローはかつて己を裏切った仇敵、アントーニオ一行を魔法で島へと引き寄せる。そこで起こる様々な策略や、暴虐を、プロスペローは持ち前の魔法と使役する精霊の力で鎮圧して見せた」


 神崎は大げさに杖を振る身振りをした。

 どう? かっこいい? と言わんばかりに目配せをしてきたので、無視した。


「こほん……。最後に、プロスペローは赦しを請う者、罪の贖罪をせぬ者、恩師の元を去り自由や愛を求める者、そして自らも、全てを赦し、解放した」


「……は?」


「これが、まぁかなり端折っているが、ざっくりとした概要だよ。どう感じたかな?」


 いや、どうもこうもない。

 物語が、説明の省略のせいか、もしくは本来の欠陥か、いずれにせよ破綻している(・・・・・・)


「おかしいですよね、それ?」


「ふむ。どこが?」


「どこがって……」


 救いを求めてひよりを見やる。

 この話を知っているらしい彼女なら、何か補足や注釈を添えて助けてくれるかもしれないと思ったのだ。


 しかし、目が合うもにっこり微笑むだけで何も言わない。こいつは駄目だ。


「えっと……ひどいことをした人を赦すってだけでも、相当な覚悟がいるはずです。人間なら必ず」


 これ以上語らない神崎と、何も語らないひよりに頼れない以上、少なくとも自分の言葉が要る。

 うまくまとまらない頭で、必死にそれを探した。


 何度も僕の発言を遮っては先を横取りをしてばかりの神崎も、静かに続きを待っている。

 それがむしろ落ち着かなかった。


「それなのに、赦しを請う人だけでなく、贖罪すらしていない人を赦して解放したってだけ言われても、その過程が説明されていないので、……正直、意味不明です」


 この辺りが限界だった。

 もっと細かく、伝えなければいけないことがあるような気もするのだが、今言葉にできるのはこれで精いっぱいだ。


「なるほど。君の感想は至って現実的且つ論理的、そして何より君らしい」


 こつりと杖をテーブルにかけ、古臭いソファに腰かけて、神崎は続ける。


「だが結論から言おう。その行動心理を確定させる明確な描写は、原本に至っても一切ない。それを探すのが、演劇というものなのさ」


 結局、よくわからない。

 煙に巻かれたような感覚に陥り、なんだか納得がいかなかった。


「……探しても、見つからなかったら?」


「その時は、それが『答え』だ」


 やっぱりよくわからない。

 つまり、何が言いたいのだろう。


「さて、部活の話に戻そうか」


 そんな僕の不服も、先ほどの話題も、全てを置いてこの人は先に行く。

 僕は何度も、常に置いていかれてばかりだ。


「君は演劇部に所属だけすればいい、という点に於いて多大な魅力を感じている。一方、得体のしれない部活に入るリスクを危惧して他の無難な選択肢を探した。しかして、択に上がったパソコン部にも難があることを知る」


 神崎は僕の状況を先ほどの『テンペスト』の作品の概要説明と同じ要領で、僕を登場人物かのように淡々と語る。


「この状況で論理的な君ならばこう考えるべきだ。『こんな変な先輩と同級生、今後は無視してしまえばそれで済む。演劇部に入って幽霊部員になるのが最善策だ』と。それをできないのは何故か?」


 胸がざわつく。


 この人は、本当に一体、何なのだろう。


 僕は生身の人間だ。舞台の役者ではない。

 そんな僕を、神崎は分析し、解体し、解明しようとしている。


 なんだか、不愉快極まりない。


「――それは少なからず、君がこの部に興味を持ってしまったからではないか?」


 意図があってか否か。

 どちらにせよ、それは一部僕の核心を突く台詞である気がした。


 その一言で、僕の中での不快感が一気に増す。


「はは……それは、随分都合の良い解釈ですね」


 絞り出すように否定する。

 気持ち悪くて吐き出しそうだ。人の気持ちに土足で入ってくるなよ。


「いいや、論理的推測だね。今、君は魅力的だが先の見えない道と、辛く苦痛だが先の見える二つの道を前に、苦痛の道を選択しようとしている。そしてそれは逃避でもリスク管理でもない。ただの停滞だよ」


 ちょっとだけ、我慢の限界だった。


「……停滞の、何が悪いって言うんですか」


 けれど神崎の表情は変わらず、飄々とこちらを見つめ返してくる。

 その冷静さが、何故か無性に腹立たしかった。


「……楽で魅力的に見える道だって、先が見えないなら結局は確率論です。苦痛の道より辛く苦しい可能性だって、当然ある。もっと言えば期待をする分、それが裏切られた時のダメージは増大するし、元から苦痛の道を選んでいればよかったと、後悔する羽目になってしまう。それならば最初から苦痛を覚悟して進む道の方がむしろ安全で、堅実でしょう。それを停滞と呼ぶのであれば、停滞こそ人間の最も賢い選択なはず。……違いますか?」


 そして言い終え、ようやく一息がつけると、


「……あ」


 自分が何をしでかしたのか、遅れて認識する。

 背筋に冷たいものが這い、血の気が引いていく。


 ほんの数舜前の自分の発言が、脳内で何度も反響される。

 他人の意見に反発し、持論を叩き、あまつさえ「違いますか?」などと圧力をかけてのけたのだ。

 それは明確に僕が忌み嫌い、愚かと切り捨て続けた選択に他ならなかった。


「いや、これは……違くて」


 うまく頭が回らず、言い訳もろくに出ない。


 そもそも、僕は一体何に焦っている?

 何を言い訳する必要があるのだろう?


 自己分析を再開しようにも、細かな手の震えが止まらず、心臓の鼓動が波打つ。うるさい。思考の邪魔だ。

 無理やりに拳を強く握りしめ、呼吸を落ち着かせる。


 ずっと視界に映る神崎は、相変わらず意味深な微笑みを浮かべている。

 それが余計に心を乱してくるが、今はそれすらも救いと思えた。


 神崎の口が開き、必殺のカウンター理論で殴られるのを覚悟した時―― 


「ネガ……ネガ太郎だ!」


 予想外の死角からぶん殴られる羽目になった。


「ネガい! ネガいよ真中くん! ちょっと暗いなとは思ってたけどまさかそんなにネガティブだったなんて!」


「えっと……? 空原さん……?」


「あ、ネガ太郎っていうのはね、ハムスターアニメのへけ太郎って知ってる? あれを超ネガティブにアレンジしたネットミームなんだけど、一時期流行ってたの! 真中くん知らない?」


 いや、知らないし……え?何?


 状況が掴めず、もうよくわからないので、今まさに反撃パンチを打とうとしていた神崎に視線を戻す。

 奴は明らかにこの状況を面白がっていた。こいつらほんと肝心な時に使えないな!


「もうあれにそっくりなの! 可愛らしいハムスターが、会社帰りのサラリーマンみたいな死んだ顔で、めちゃくちゃに後ろ向きな発言をするところに! よく見たら顔もハムスターっぽいよね、真中くん!」


 毒気を抜かれる、とはこのことである。

 神崎に対する苛立ちとか、自らの失態に対する後悔とか、そういうのを一掃して余りある圧倒的パワーだった。


 この短時間で、部室内の話題も、空気感も、二転、三転では済んでいない。

 それらはほぼすべて神崎に意図的に支配されていたようだったが、ここに来てひよりが更に場をぶち壊した。


 本当に、何なのここは――


「はは、思った以上に相性がいいね、君たちは!」


 神崎もけらけらと笑い出した。

 ゾッとすることを言わないでくれ。正反対ではないか。


 ひとしきり笑い終わると、神崎は居直し、話し始めた。


「さあ、ここで三度(みたび)問おう。改めて明言するが、僕は幽霊部員であっても大歓迎、一向にかまわないから活動への参加は一切強制しないよ。僕たちは文化祭や郊外公演など、限られた人数でも可能な活動を続ける予定だから、部活実績は十分。よって進路にも影響は少ないと予測できる。どうだい? これで先は見えた。君の哲学は、演劇部への入部の合理性をまだ否定できるかい?」


 どこまでもいやらしい人間である。

 多分、同じく論理展開を得意とする人種だが、ここまでのやり取りで僕より神崎の方がより高い次元でそれを行使できることは目に見えていた。

 だから彼が「もう逃げ場はないぞ」と自信満々に告げている現状、僕は既に大体詰んでいるのだ。


 実際問題、彼の理論構築は完璧で、僕が「意地」以外でこの誘いを断る理由は全て潰された。


 それに――


「えー! でも幽霊部員なんて寂しいし、どうせなら一緒に演劇やろうよ! 私良いこと思い付いちゃったんだ。真中くんにはシェイクスピアの悲劇の主演がぴったり! きっといい劇になるよ!」


 既に入部すること前提で話を進めるこの宇宙人が、そんななけなしの意地さえも吹き飛ばしてしまうのだ。

 これを振り払うには、更にエネルギーを要求される。


「……活動には、一切参加しません。それでよければ」


「交渉成立だね。これからよろしく頼むよ、真中透君」


 だからよろしくしないんだってば。


「よーし、それじゃ入部届出してきちゃおうよ! ほら、善は急げだよ!」


 疲れ果てた僕の腕が引かれ、ひよりに部室の外へと連れ去られていく。


「あ、君たち。僕は今日はもう片付けをして帰るから、活動は明日からね。君たちも入部届を出したらさっさと帰るといいさ」


「はーい! 部長、また明日!」


「あぁ、それと真中君に、もう一つだけ」


 振り返ると、衣装を脱ぎながら、神崎が言う。

 あんたそれ制服の上に着てたのかよ。


「先ほどの回答だ。停滞が人間の最も賢い選択だ、違うか?と。その答えこそ『テンペスト』に示されている。何故プロスペローは、慎ましくも平穏で幸福な暮らしの中、自らの手で混乱の火種を招き、そして全てを解き放ったのか。興味があれば読んでみるといい。その上で演劇にも触れたら、また違った見え方もするだろう」


「……気が向いたら、はい」


 最後まで、半透明で掴めない物言いをするものだ。


 そのやり取りを最後に、ようやく部室から脱出、もとい空原ひよりに拉致されている最中であるが、とにかく僕らは廊下を歩く。


 いつまで腕掴んでるんだろうこの人。

 この期に及んで逃げたりしないけどな。


「あ、そうだ、真中くん!」


 またも振り返るひより。


「前見て歩かないと危ないってば。何?」


「あれやりたいの! あれ!」


 あれってなんだよ。

 意図がわからず視線で先を促すと、ひよりは「いくよ?」と目配せした後に言った。


「明日はきっと、もっといい日になるよね、ネガ太郎!」


 ……なんだろう、もう疲れた。

 頭が回らず、どんな反応をしたらいいのかも正解がわからない。思ったままを返してやろう。


「そんなことは明日になってみないとわからないし、きっと明日は今日より最低の一日になるよ。空原さん」


 ひよりは、ひどく楽しそうにけらけら笑っていた。


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