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15.夕暮れと嘘


 6月にもなると暖かい日が続くものの、むしろ暑くて汗を伝うような日まで簡単に顔を出す。

 これには誠に遺憾です。春と秋は、少しばかり主張が弱いのが原因だろうか。


 きっと気弱な奴らなのだ。

 彼らは人間にとって過ごしやすくていい奴だけれど、いい奴というのは得てして気弱で、気弱な奴は踏みにじられるのが自然の摂理なのだという。


「じゃあ今日の総合授業では体育祭の実行委員決めからなー。誰か立候補者いるかー?」


 そんな6月、学校ではどうやら体育祭があるらしい。

 僕には至極無縁の話であるはずが、けれどこれは高校生である以上、クラスの合同イベントという逃れられない宿命でもあった。

 さりとて何か意見を出すような立場でも、性格でもない。置物のようにじっと成り行きを眺めるばかりの時間が続く。


 実行委員決めは難航した。


「ごめんなさい、クラス委員と部活の両立で手一杯です」


 真面目で人を引率する才能に溢れた委員長も離脱し、


「あー、俺もちょっと部活と両立きついわ。最近サッカー部も練習激しいし」


 気付けば人だかりの中心でバランスを取る大翔も提案を跳ねのける。


 有効な人物が候補の外に出た後は、お前やれよ、嫌だよ、などという不毛な冗談がそこかしこで飛び交うばかりだった。


 窓の外は快晴であり、今日も気温はあくまで快適。日中は陽に晒されてさえいなければ過ごしやすい気温で、風は冷たい。

 そういえば昨日も晴れだったが、明日の天気は確か、曇りか雨。そろそろ雨が降ってもいいかもしれない。


 取り留めのない思考が脳内を埋め尽くし、教室の雑音が遠ざかっていた時だった。


「じゃあ空原さんは?」


 派手な女子グループの一人が呟いた一言は、僕を教室に呼び戻し、温かいはずの教室全体から1℃の温度を奪い去ったように、ひやりとした風を運んだ。


「え? 私?」


 ひよりは笑顔だった。


「いいじゃん。演劇部って暇そうだし、空原さん明るいし向いてるって!」


 ひよりを実行委員に推す誰かも、笑顔だった。


 ひよりの笑顔は嘘くさく、誰かの笑顔も嘘くさい。

 それでいて、それらの間には極めて深い断絶があった。


 誰かの笑顔は、おおよそ人が人に向けていいものでないように感じられた。

 それも一つでは大した圧力でないはずで、けれどそれらが徒党を組んで襲い掛かる時、誰が抗えるのだろう。

 虫が這う。死骸に群がるように、徐々に埋め尽くされ、食い荒らされる。


 僕たちに逃げ場はなかった。


「えー! うん、他にいないなら私やるよ!」


 ひよりが満面の笑みで受け入れた。そうするだろうと思っていた。


 それからはとんとん拍子に話が進んだ。


 女子の実行委員が決まったことにより、「男子も早くして」と有利な立場からの精神攻撃。

 男子高校生はそれに耐久する術を知らない。結局、大翔が根を上げて一言「しょうがないな」と告げた。


「よし、じゃあここからは実行委員が進行してくれ。種目決めと、実行委員の他に男女2人ずつの応援団の選出をしてくれー。次の授業も併せて取ってあるけど、そこでも決まらない場合は放課後使う羽目になるから揉めるのは程々になー」


 まるでこの後も揉めることが前提とでもいうように、担任は丸投げした。

 現代的で生徒との距離感が近いこの教師は、あくまで生徒の主体性に任せるつもりらしい。


 大翔が応援団の概要を担任から聞き、実行委員程は負荷がかからないことを要約して伝えると、応援団員は驚くほどスムーズに決定した。

 女子側からは何かしらの運動部の二人、男子からは大翔と仲の良いサッカー部の男子が二人。


 種目決めも大した問題ではなかった。

 運動部員は自分の得意分野に立候補し、時に定員を超える場合はじゃんけん大会で大いに盛り上がって見せた。


 問題なのは人気のない種目と、僕のような余りものだ。

 それすらも大翔が適切に配分した上で、「透と飯田君もこれでいい?」という具合に、頷くだけでいい土台を作ってくれるのは有難かった。


 2つの授業を跨いで滞りなく完了した決め事で、残った時間は自由と担任が言い放ったことで爆発し、教室は更に荒れた。


 一人で本を読んでいると、斉藤が僕の机までやってきて、「空原と騎馬戦出なくてよかったん?」と理解不能の日本語を吐き捨てた。

 呆然としていると、大翔が斉藤の頭を控えめに叩いて笑いが起こる。それでことなしを得たけれど、大翔が割って入ってくれなかった場合、僕はなんと言うべきだったのだろう。


 湿った空気が肌に付着するように、雑音が耳に粘りついて離れなかった。

 韓国アイドル、配信者のコラボ、今週末のドラマ、最新のコスメ、あらゆる情報の表層が僕を通過する。


 見慣れたはずの文字の並びが、得体の知れない外国語のように感じられた。




 ***




 それは日常だった。


 ひよりは実行委員で放課後に部活に寄る頻度が激減し、比例して僕も部活に行く必要が無くなった。


 体育祭のTシャツ決めや応援練習などイレギュラーの授業内容が割って入る以外の変化は見受けられず、さりとてそれが異常というほどの効力を発揮しないのが学校生活というものだ。


 僕はただ毎日を眺め、浪費し、たまに本を読んで過ごした。

 十二夜は読み始めてみたものの、全く内容が頭に入ってこないので後に回した。


 刺激的なミステリーは、僕の満たされない部分を優しく補完するようだった。


 体育祭の本番も過ぎ去った。


 まだ本格的に暑いとは言い難いけれど、気温は28℃。十分に人を困らせる気温であった。

 快晴の元で行われた体育祭は熱狂的で、どこか浮ついた空気感は僕を押しやって大勢の人とグラウンドを綺麗に包み込み、校門の外まで届くアナウンスが辺り一帯を学校にしてしまった。


 グラウンドで言い渡された解散の合図で人が散っていくのを見送り、僕は教科書を取りに行かなきゃ、と誰にともなく呟いてから、教室に向かった。




 窓を開けると、生暖かい風が吹き込んだ。端の汚れたカーテンが揺れる。

 空はまだ白んで、少し曇りがかって暗くなりかけているけれど、赤くなかった。


 それが落ちるまで、僕はひたすら待った。




 十二夜の読み方を神崎に聞きに行きたい。演劇部に向かう理由はそれだけだった。


 開け放った窓際に背を預け、首を後ろに回して空を仰ぐ空原ひよりがいた。

 僕たちの視線から逃げた陽ざしが屈折して赤く、彼女の髪を撫で、頬を染め、体操服を塗り潰す。

 それが神秘的でいて薄ら寒く、精密な彫刻のような鼻の形や、やけに落ち着いた視線や、小さくつんとした唇が吊り上がっていないことを際立たせ、これは夢なのだ、とそう思った。


「空原さん」


 声を掛けると、ひよりは驚いたようにこちらに顔を向け、視線が真っ直ぐにぶつかった瞬間、笑顔が弾けた。


「真中くん! 体育祭楽しかったね! 私はちょっと用があって部室に来たんだけど、部長はいないみたい! 真中くんは何か忘れ物?」


 声は、ほとんど意味を成していないようだった。

 体育祭が楽しかったとか、部室に用があったのだとか。


 全てが嘘のようで、それが誇らしくて、それでも僕が室内に踏み込もうとする度、僕の後ろ髪を誰かが引っ張って離さなかった。

 足が鉛になった。腕が化石になった。顔が破裂して、大事なネジが飛んでしまったのだ。


「いつまでそこにいるの? こっちおいでよ!」


 そんな僕を、ひよりは連れ出すことに躊躇しない。

 期待していたのだろうか?それはことごとく惨めで、情けない思考回路だった。


 手を引かれ、窓際に辿り着いた頃には、陽はすっかり落ちかけていた。

 鋭い光が僕らを照らした。ひよりは僕の手を離さなかった。僕もそれを振りほどく必要はないように思えた。


 空は影を落としていた。太陽は今日も抗っていた。


 取り留めのない思考が、どれも本質を横に置いたような抽象で、形のないものばかりが胸元に残ったような違和感で、それでも今目に映るものだけは真実なのだと、手の温もりが告げていた。


「綺麗だねー! 真中くん!」


 飛び抜けて明るい声が、何を指しているのかわからず、僕はただ頷いた。


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