14.空原ひよりの生態について
空原ひよりの生態について、いくつかわかったことがある。
一つ、空原ひよりはいささか不真面目である。
まず、物理の授業は高確率で寝ている。時に大胆に、時にこっそりと。
隠す気もない時などは当然のように机に突っ伏し、それはもう堂々たる姿であった。
物理の担任はかなり厳しい眼鏡のおばさんであるのだから、当然叩き起こされていた。
次に、数学の授業。
これは思いのほか真面目に授業を受けているように見えた。
熱心とまではいかないが、しっかりとノートを取ることが多いし、色ペンが机に散乱しているのも数学だけであった。
最後に、国語。これもかなり真面目に授業を受けているように見えた。――が、現実は違った。
授業が終わるやいなや、僕の元にやってきたひよりは机にノートを叩きつけたのだ。
「見てこれ! ネガ太郎!」
ひよりは熱心に落書きをしていた。
二つ、空原ひよりは部室でも空原ひよりである。
演劇にはそれなりの熱量を持っているようだったが、テスト期間外の部活での様子はどうなのだろうか?
週に1回か2回くらいはひよりに連れられて部室に行くようになった今では、その疑問が解消された。
「うーん……疲れました! あ、部長もお茶飲みます?」
演劇の本を読み込んでいたかと思えば、自前のケトルでお湯を沸かし始め、
「部長! 稽古をしましょう! 今日は……アラジンがいいです!」
唐突に部長を巻き込み稽古を始めたり、
「真中くん、これ見て! 自分のしっぽを追い続けて拗ねる猫!」
ソファに寝転がってSNSを眺めているかと思えば、僕に見せつけてきたり。
端的に言って好き放題であった。
三つ、空原ひよりは夜もうるさい。
これはテスト期間が終わってから、特に顕著であった。
『物理の課題終わった? 私はまだ!』
『見てこれ! 昨日の猫のお兄ちゃんなんだって!』
『真中くん生きてますかー!』
『(写真)今日の夕ご飯!』
やたらめったらに連絡を寄越す。
全く以て何の為かもわからない通知の嵐に、僕は驚愕した。
個人に向けた連絡とは到底思えず、入力先の間違いを本気で疑うほどだった。
その割には翌朝に「なんで返事しないの!」とぷりぷり怒り出すことが多いから、間違いではないのだろうけれど。
とにかく鬱陶しいこと、この上ない。
『物理の課題終わった? 問3の解答募集中なんだけど』
たまに大翔からも連絡が来た。
***
「本日は、満を持してロミオとジュリエットの再読会としよう」
あくる日の放課後の部室にて、読みかけの本をぱたりと閉じ、神崎はおもむろに言った。
ひよりは何が嬉しいのかうんうんと頷き、僕は顔をしかめる。
本は読みたいときに読むべきであり、読まされるのは癪に障った。
そんな僕の表情を見て取って、神崎は続ける。
「もちろん無理強いはしないさ。だが大枠は頭に入っている作品の再読だ、斜め読みしながらテーマを深掘りすることも可能であり――まぁ要するに真中君。君なら容易だろう?」
挑戦的な笑みは、やはり僕の神経を逆なでした。
「まぁ、いいですけど。……でも、本が家にあります」
吐き捨てるように言ってはみたが、そんなに都合よく本を持ち歩いてなどいない。
言外に今日は無理だと告げるが、宇宙人が割り込んでくる。
「あ、それなら私の借りてる本を一緒に読もう!」
「えぇ……いや、無理でしょ……」
一緒に本を読む、という異次元の提案に僕は戸惑う。
文字を追うペースや、立ち止まる場所、読み返したくなるタイミングは人それぞれだ。
だから結論の議論は出来ても、現在進行形で読書の共有などは考えられないものだった。
隣の人に教科書を見せてもらうあれとは、わけが違うのだ。
そんな僕のことなどおかまいなしに、ひよりは僕の横に来て本を広げた。
その距離感に恐れおののく。相変わらず、この宇宙人は適切な人間の距離感というものを知らない。
「大丈夫だって! 私ページ捲るから、まだ読んでなかったら言ってね」
そう言って本を開く。僕はそれどころでなかった。
肩と肩が触れ合いそうなほどの距離感に、心臓が止まりそうになる。
反射的に見やると、髪を耳にかけてはっきりと覗く綺麗な形の横顔。
この距離感の不具合は、ひよりと対面する場合に限っては珍しいことではなかった。
少し気を抜けば携帯の画面を見せつけてくるし、袖を引っ張って歩こうとするし、顔を覗き込んでくる。
すぐに身を引けばこそ回避されるそれらの行動に対して、今回は長時間において逃げ場がないことが致命的だった。
助けを求めて神崎を見やるが、彼は「ま、それもいいだろう」と他人事のように呟いて自分の読書を再開し始めた。
こちらも、肝心な時に役に立たないのは相変わらずである。
「ねえ、この辺飛ばしていい?」
目を逸らしているうちに早速本を開いていたひよりは、既に序盤の展開に飽きたようだった。
痛くなりそうな頭を抑え「……いいよ、読みたいところだけ読んで」と絞り出すように告げた。
本当は自分のペースで読みたいところだったが、読書時間の共有という元より破綻した提案だ。
もうどうにでもなれという気持ちであった。
――ひよりの読書は明快だった。
ロミオが失恋に嘆き、ジュリエットが恋に憧れ、二人が出会い恋に落ちる。
窓際で二人が語り合う場面をじっくりと味わい、神父の言葉を長ったらしいと切り捨てて瞬く間に通り過ぎる。
俗にいう「良いシーン」ばかりが流れるダイジェストのように、物語の細部を象ることなく、流々と過ぎ行く。
「一目惚れ! しかも両想い! こんな素敵なことってないよ~!」
時に甘く物語に浸って言葉を漏らし、
「おお、ロミオ!」
時に劇的に声を上げる。
現代語訳で僕の読んだものよりも素直に受け取りやすいことも一助になり、物語はどんどんと先に進んでいった。
間もなく、彼らの転機となる最初の一幕で、僕とひよりが決定的に食い違った。
「ここ、ロミオは悪くないよね!?」
ロミオが恋に浮かれ、両家の従者の争いに介入したところで、ひよりは感情をあらわにした。
「ロミオは止めようとしているのに、こんなに優しく語り掛けてるのにさ、騙し討ちみないなことしちゃって! ひどいと思わない?」
ひどい、というのは当然の感想であるし、僕も同感だった。
しかし、何かがひどく喉に引っかかって飲み込まれなかった。
「……ちょっと待って、少し読ませて」
僕はひよりのページを捲る手を止め、じっくりと文字と違和感を追いかける。
ロミオは確かに理性的に止めている、だが止め方が悪い。……いや、止め方より以前に、決して理性的でないはずなのだ、彼は。
何かが決定的に欠けている。だがそれが何なのか、掴めそうでいて掴めずに、ぐるりと一周し、またページを戻して一周。どこかに落とし穴があって抜け出せないような閉塞感。
僕が見えていないのではなく、誰もが何かを見落としているような締まりの悪さを感じる。きっとロミオにも見えていないのだ。
見えていない、――そう恐らく、周りの人間の激情も、わだかまりも、全てロミオの中では終わったことになっているが現実では――
『君はロミオの視点に立ち、恋愛感情の制御以外の方法で、自らの行動と意識から結末を好転させる道を一つ提示してみたまえ。』
神崎の述べた課題が、僕の脳裏に過ぎり、結ばれた。
「――おや。何か気付いた顔だね」
神崎は目ざとくそれを察知し、僕の顔をじっと見つめた。
その正直すぎる瞳に晒されていることがあまりにも居心地悪く、僕は視線を奥の本棚に逸らした。
そのまま、どうにか形になったばかりの思考の欠片をかき集める。
「……ロミオは、自分の浮かれた気持ちを、そのまま他人も同じ気持ちであると勘違いした。……多分、この線引きが出来れば、悲劇にはなっていなかった……です」
上手く言葉にできないもどかしさから、視線を戻すのが怖く、恐る恐る神崎を見やると、彼は大げさに手を広げた。
「素晴らしい! その視点はまさに君に授けた課題の、一つの明確な回答だ!」
「おお! すごいね真中くん、でも私には何を言っているのかわかりません!」
ひよりも真似して手を広げる。「やはり君には観劇が必要だ!」と舞台の台詞のような言葉を吐く神崎と、何を言っているかわからないと明言した上で一緒にはしゃぐ宇宙人。
僕はもはや慣れ始めている。その光景が過ぎるのをただ待つ。
ひとしきり宣い終えると、神崎は居直った。
「……ふむ。真中君、君の論調は言い換えるとこう捉えられる。『ロミオは、自らの浮ついた精神状態を他人にも強要した』と。それは人と人の関係において最も危険な自己と他者の同一視であり、自他の境界線を無視する強引なコミュニケーションだ。……だから、彼が争いを止めることができなかった」
神崎の要約はやはり明確で、僕の言葉にしきれなかった部分にしっかりと輪郭を与えていた。
「……です。だから、なんていうか――せめて友人や、他人とは、距離感さえ保っていれば……」
「あぁ、その通り。両家の従者はひどい激情に駆られていて、しかもそれは根深い関係の上に成り立った複雑な感情だ。それを正しく認識すればこそ、これまでギリギリのところで争いを避けてきたように『マーキューショーを連れて逃げるという物理的な断絶』や、『自分が下手に回ってでも相手の殺意を削ぐような説得方法』など、いくらか選択肢が見えたことだろう」
神崎はそうまとめた。僕だけではそこまで明確に言語化できない部分を論理的に積み上げてくれる存在は、有難いものでもあり、少し悔しくもあった。
「いや、これは本当に深い洞察だよ! 課題に対してこの上なく正当で、暴走の制御として極めて現実的な考え方だ」
いつになく素直に褒める神崎。
しかし受け取るには憚れる賞賛だった。きっと、彼の視野は広すぎるのだ。
語り合えない孤独から、共有に飢えているのだ。だから大げさに褒め、伸ばし、自分と同じところまで引き上げたいと願うのだろうか。
それはわからないでもない欲求だった。
「真中くん、変な顔してる! それドヤ顔?」
そんな僕を揶揄するひより、爆笑中である。
……いや、普通の顔のはずだけど。
「……空原さんは、ジュリエット視点で何か気付いたわけ?」
思わず苛立った声で問うてしまうが、ひよりは目を丸くするばかりだった。
「え? 何の話?」
僕は再び頭を抱えた。
***
夜になり、勉強を終えた時だった。
電気を消して暗がりに包まれた室内で、ふと机の隅に重なった本に意識が向かう。
スタンドライトを付けると、部屋は僅かばかりの光で不十分に満たされた。
『ロミオとジュリエット』『十二夜』『ハムレット』
ロミオとジュリエットは、もう返してもいいだろうか。
次は十二夜を読むといいさ、なんて神崎が言っていたので、読了後にまとめて返してもいいかもしれないなどと考えながらも、今日の部室での出来事が静かに脳裏を過ぎる。
なんとなしに、ロミオとジュリエットを手元に寄せ、表紙を開く。
現代語訳と違って少し読み辛く、硬い文章の羅列。
自分の好きな時に、好きな文字を読み解き、自分の想像の世界が広がっていく。
やはり、本は一人で読むに限るのだ。
そのはずなのに、何故だかページを捲る手が重い。少し味気なく感じるのは文体の違いだろうか。
紙のざらざらとした感触がやたらと気色の悪いもののようで、腕から這って背中を通り、そして脳を不快に撫でた。
『今日楽しかったね! 十二夜も一緒に読もうよ!』
携帯に通知される無機質なメッセージが、部屋の足りない光を補うかのように点灯するばかりで、僕はそれを手に取ることさえできなかった。




