10.最も憂鬱なのは自由を約束された瞬間という皮肉
7時40分。まだ登校時間に満たない朝の校舎は朝日に照らされて、しかしまだ肌寒い空気に晒されている。
いつもより少し人気のない電車に乗り、閑散とした住宅街を歩き、そして学校へ。
たった1時間半の差分が、どうしようもなく非日常的だった。
校門のすぐ傍には既にバスが停められていて、教師たちが生徒を誘導していた。
流れに沿う。バスの前で綺麗に整列させられた人の波が、ぽつりぽつりと大きくなる。
時間前にきちんと揃ったその波に向かって、学年主任の教師があくまで学習の一環だから現地でも浮かれすぎないように、と釘を刺してから僕らをバスに押し込んだ。
バスの座席は行動班ごとにまとめられていたので、必然的に大翔たちのすぐ近くだ。
彼らはバスに乗った途端に騒ぎ出すが、幸いにも僕は窓際、隣は飯塚である。
あ、どうも……と軽く会釈さえすればあとは言葉などいらない、不可侵条約は成立した。
バス酔いしないように適当に窓の外を眺める。
取り残される校舎が僕らを見守っていた。
行き先は鎌倉らしい。
バスでおおよそ2時間、ゆったりと流れる景色を眺めることに飽きた僕は本を開いた。
『ロミオとジュリエット』は、確かに名前を聞いたことがあるけれど、内容はほとんど知らなかった。
せいぜいがロミオとジュリエットが恋に落ちて、「おお、ロミオ!」と叫ぶことくらい。
一体何がどうやったらそうなるのか、少し楽しみである。
読み始めると、ハムレットと同様に文体は古く、たまに意味がわからない単語がありつつも、読み進める弊害になるほどではなかったことに安心した。
まず、なにやら物騒な一触即発の喧嘩が収まったところから話が始まり、そこに傷心のロミオが現れる。
どうやらロミオは失恋したらしい。相手はジュリエットだろうか?
友人に宥められ、うだうだと詩的に気持ちを吐くロミオ。こいつは一体なんなのだ。
いくつかの場面転換があり、ジュリエットが登場した。
政略結婚に使われることを、本人も受け入れているような様子だった。恋に落ちる気はなくとも指示に従う覚悟がある。
ロミオとは一転して、なかなかに賢く好ましいキャラクターではないか。
そして舞踏会にロミオが参加し――
「……えぇ……」
小さくも、思わず声が漏れた僕を、飯塚が怪訝な顔で見やる。
あ、ごめん、と同じく小声で謝ると、飯塚は頷いて自分の本に視線を戻した。
さて、ロミオであるが。
舞踏会でジュリエットに出会って程なくして、いや程なくする間もないまま、口付けを交わしたのである。どうした……?
ロミオが「誰だ、あの美しい娘は?」と従者に聞いている様子から、ジュリエットが意中の相手でなかったことは明白。
さっきまで失恋を慰める友人に舞踏会への参加を誘われ、「行こう、だが新たな恋を探しに行くのではない。この恋が変わらぬことを確認しに……」みたいなことを言っていたのと同じ人物とは到底思えない。
端的に言わずとも、明らかに滅茶苦茶である。
僕には解読不能だ。助けを求めてひよりを探してみるが、そういえばバスは男女別なのであった。
ため息を一つ。
僕は一度この難解な文書の解読を放棄した。
途中何度かの休憩を挟み、ようやく鎌倉に到着する頃には10時を回っていた。
改めて整列させられ、そこから集団のまま寺へ。
徒歩2分程ですぐに寺の総門にたどり着く。僧侶に迎えられ、境内へとゆったり進む。
総門を潜ると、左右に木造の小さな小屋のようなものがあった。
僧侶がこれは拝観受付所で、一般受付はこちらから、と述べる。なんだか雰囲気に似つかない現代的な言い回しが、少しおかしかった。
更に奥へ。
全てが木々に囲まれていた。
敷地全てを覆うようにして、もしくは石造りの道に倣って高く伸びる緑。
それでいてどうにも自然的とは思えず、人工的なのに自然的、ひどく曖昧な場所だった。
少し先、低い階段を上ると、一段と立派な建造物。
僧侶が簡単に解説する。山門というらしい。門だったのか。
周りは砂利が敷き詰められていた。踏みしめる足が地面の形を小さく変える。軽快な音が鳴る。砂利を踏むのなんていつぶりだろう。
じゃしじゃしと。ちらほらと見かける観光客や、他生徒や、僧侶。それを踏みしめる音が幾重にもなって、不気味なのにどこか心地よかった。
それからは似たような景色が続いた。
時々城の外壁のような壁や、いくつかの禅寺等を眺め、僧侶の案内が続く。
疲れ果てる程ではないが、こまめに階段や坂道を進むので少し息が苦しかった。
しばらくすると道場に案内され、靴を脱いで場内へ。
僧侶が座禅の説明と、心構えなどを説明していた。
「叩かれた回数多かった方が罰ゲームな、後でジュース」
「なんで叩かれる前提なんだよ馬鹿、お前負けたら絶対奢れよな」
「そちらの方! お静かに」
隣でこそこそ喋っていた斉藤と四宮は、もちろん始まる前から注意されていた。
座禅は苦痛だった。
たったの15分が無限に感じ、終わりが見えない道を進む苦行。
言われた通り必死に頭を空にしようとする度、脳内でロミオが顔を出して大変だった。
一度肩を叩かれたのは確実に奴のせいである。
その後は案内されるがままに昼食を取り、午後。
校外活動というささやかな非日常、辺りは普段よりいくらか喧しいようだったが、特段それ以上の変化はなかった。
そして、ついに本日の最難関である。
「えー、じゃあここからは自由行動、事前に寺巡りコースを希望していた班は先生のところ、それ以外は駅周辺での観光な。羽目を外しすぎないこと、SNSには絶対に投稿しないこと。口酸っぱく言うがこの2点だけは本当に頼むなー」
僕らのクラスの担任はいつも通り少し緩めの口調で、しかししっかりと釘を刺してから解散した。
そして僕はというと――
「よっしゃ、ようやく自由時間! 早く行こうぜ、俺SNSでめちゃくちゃ調べたんだよ」
「俺も! 抹茶ソフト食いてえ~」
……これと、2時間行動を共にしなければいけないのだ。
もうすでに頭が痛くなりそうだった。
もちろん、はちゃめちゃである。
「おいあれ! カレーパン!」
斉藤が走り出し、
「待てって! 俺も行くから!」
四宮が追いかけ、
「お前ら先行くなって!」
大翔が止める。
このサイクルを数十分で既に10回は見た。愕然である。
何度も置いていかれそうになって、足早に3人を追いかける。
たまに他の班と遭遇して、大翔達が立ち止まると僕も立ち止まり、進めばまた進む。
隣を歩くのは、同じく犠牲者の飯塚。彼も呆れたような、でも結局諦めたような顔をしている。おそらく僕と同じ顔だろう。
ともかく、彼らについてくのは大変だった。
ただでさえ平日でも観光客が多い通りでは、人を見失いやすい。
制服で出歩く為いくらか目立ってもいようが、学生だって僕らだけじゃないのだ。
そんな中で人の間を縫って駆け出してしまう斉藤達には恐れおののくばかりである。
これがサッカー部であるか、そうでないかの違いだろうか。
くだらないことを考えている間にも、ようやく追いついた先ではカレーパンを注文中の彼ら。
「透と、飯塚君もごめんな、俺らの行きたいとこ付き合わせてばっかで。あ、カレーパン食う?」
「……いや、僕は平気」
「おれも、いらないかも」
大翔のさり気ないフォローが身に染みる。
でもカレーパンはいいや……。
昼食後にいくつも買い食いができているのがとにかく不思議でならないが、これもきっとサッカー部だから、で片付く問題なのだろう。
きっと胃の形が違うのだ。僕のは普通で、彼らのはおそらく……いや形ではない。消化が速い?
「そう? まぁでもさすがに俺もちょっと疲れたな。おい斉藤、ちょっと落ち着いて座れるとこ探そーぜ!」
「まじ? もっと歩き回ろうぜ、せっかくの観光じゃん!」
「あのなあ、俺らだけじゃないんだからちょっとは気遣えって」
「ん? あぁ……」
そこで、斉藤はようやく思い出したかのように僕と飯塚を見やる。
どきりとする。気付かれないまま引きずり回され続けるのも困るが、気付かれるのも困る。
「悪い悪い! じゃあ抹茶ソフトのとこ戻って買い食いしようぜ、店前にベンチあったろ?」
斉藤が特に気を悪くした様子を見せなかったことに、僕は安堵した。
なんだかご機嫌取りをしているようで情けなかったが、こんなところで反感を買いたくはないのだ。
それからカレーパンを食べ終わった彼らの先導で、来た道を引き返す。
ようやく歩くペースがまともになったところで、ふと隣を見やる。
なんだか当然のように二人で横並びに歩いているが、まだろくに会話もしていない飯塚。
彼も他人との交流に積極的ではないようで、どちらともなく会話は発生しなかった。
形式上だけでも、何か声を掛けるべきなのだろうか?
程なくして、ソフトクリームのお店へ。
店内に3人が入っていき、僕と飯塚は取り残される。仕方がないので座って待った。
真っ先に戻ってきたのは斉藤だった。
「ほれ、真中と飯塚、お前らの分」
しかも、その手にはなんと3つもソフトクリームが握られているではないか。
差し出されたので、受け取らないわけにもいかず――お金は、というと、いいっていいって、奢り、と陽気に返された。
飯塚と二人、抹茶のソフトクリームを握り、しばし呆然とする。
「いやあまじで悪い。ちょっとテンション上がっちゃってさ、振り回しちまったわ。あ、そういえば二人ともバスで本読んでたよな? 何読んでんの?」
斉藤は僕の隣に腰を掛けながら、すらすらと、流れるような声。
なんだか謝られたり質問されたりして困ったものだし、二人に同時に質問を投げられたのでこれはどちらが答えるべきなのだろう?と逡巡するが、飯塚もすぐに口を開きそうにない。
結局、近いし、という理由で僕が先だった。
「……演劇部で借りた本、読めって言われてて」
なんだか作品名を晒すのは恥ずかしかった。
見かけによらずロマンチックな奴だと思われたらどうしよう。
「へえ、難しそうなの読んでんのね。飯塚は?」
「えっと、おれはラノベなんだけど」
幸いにも深追いはされず、今度は明確に飯塚へのパス。彼もあえて作品名を伏せたように感じた。
「あー、ラノベな、中学の朝読書の時俺も読んでたわ! なんだっけな――」
「お、何ラノベの話? 俺も中学の頃読んでたわ」
そこに大翔がやってきて会話に合流し、次いで四宮も。
結局僕らを置き去りにして3人でのラノベの話題で盛り上がるが、瞬く間に別の話題へと流れ、また流れる。
僕らはなんだか居たたまれなくなって、ちまちまとソフトクリームを食べながら顔を見合わせた。
「えっと……飯塚君は何読んでるの?」
「あ、えっと、真中君は?」
お見合いみたいな空気になってしまった。
***
その後はほとんど消化作業のような流れだった。
自由時間が終わり、集合場所から宿泊施設へバスで移動し、宿泊施設での過ごし方の説明がされる。
一度各部屋に荷物を置いてからは夕食まで部屋で待機し、夕食後は簡単な一日の反省と明日の流れの確認。
班ごとに決められた時間での入浴後は、消灯時間まで自由。
ここまで来て、ようやく一息吐けたわけである。
部屋では相も変わらず斉藤と四宮が賑やかに会話をしている。
大翔は自分のベッドでスマホを触っているし、飯塚は本を読んでいた。
消灯までいくらか時間があるのを確認し、僕も本を開いた。
前回閉じたところ――ロミオとジュリエットが出会い、口付けをする。
この怪文書の意味は未だにわからないが、ともかく一旦はそういうことにしておく。
その後、ジュリエットとのいくらかのやり取りの後二人は引き離される。
舞踏会を後にしたロミオだが、なんと素直に帰らず裏庭に回って屋敷内へ再度侵入したのである。
こいつの思考回路に果たして説明はつくのだろうか?
そこでバルコニーから顔を出したジュリエットと再び顔を合わせ、かの有名な――
「真中、それ何読んでんの?」
集中していたからか、声を聞くまで、また本を取り上げられるまで、斉藤が近付いてきたことを気付いていなかった。
返して、と抵抗する間もなく斉藤の手に渡ったそれを、彼は面白がって読み始めた。
「え、なにロミジュリ? あー演劇部だからこういうの読むんだ、へえ。あ、これ知ってるやつ! おお、ロミオ!」
「……うわあ、なんだこれ。古文じゃん、読めんのこれ? すげーな」
斉藤が茶化し、四宮も横から覗く。
「ちょっと……ごめん、返して……」
手を伸ばすが、斉藤はそれを避けながら、よほど気に入ったのか、おお、ロミオ、と繰り返しながら文字を追っていた。
「見ろよこれ、美しい天使! おお、ロミオ! だって、うけるよな。真中こんなん読んでんのかよ」
「おい! やめろって!」
ベッドから降りてきた大翔が、本を取り返してくれた。
受け取る僕の手が微かに震えていることは、気付かれていないといいのだけど。
「はは……ありがと、……ちょっと、ジュース買ってくるから」
僕は逃げ出すように部屋を出た。
――斉藤に悪気がないことは、もちろんわかっていた。
ロミオとジュリエットという作品名を聞いたことがない人なんていないし、きっと単純に、知っているものを読んでいたから面白がっていただけだ。
それでも、自分が読む本をこんなん、と雑に扱われたり、一部を繰り返し読んで面白がるとか、そういうのがどれだけ不快で、惨めか、多分斉藤にはわからないのだ。
僕は胸に渦巻く冷たくて気持ちの悪い物体を何とか抑え込もうと、ひた歩いた。
消灯時間前の共用部には、ちらほら人がいた。
自販機は男子と女子の宿泊部屋の中間地点にあるので、学校指定のジャージに身を包んだ生徒が、男女問わず点在している。
少し時間が欲しい。そう思って共用部に設置された椅子に座ろうとした。
しかし先人がいたため、立ち止まる。
そこではひよりが間抜け面で宙を見つめていた。
普段ずっと笑顔を張り付けたその顔に、今はそれがない。
たったそれだけの差分で、しかし異常なその光景に、僕は目を疑う。
「……あれ? 真中くん! こんばんは!」
しかしすぐこちらに気付くと、途端に笑顔が咲く。
その切り替えが恐ろしい、と思った。
「……こんばんは、空原さん」
「私真中くんにこんばんはって言うの初めてかも! こんばんは! 真中くんどうしたの? こんな時間に」
ひよりがいつも通りの調子であることに安心しつつも、何か拭えない違和感が付きまとっているようだった。
「えっと、ジュースを買いに。空原さんは?」
「私もそう! ちょっと歩き疲れて座ってたの!」
歩き疲れて……って、部屋から遠くてもせいぜい2分くらいだろうに。
呆れた宇宙人である、きっと自由行動の時間にはしゃぎすぎたに違いない。
「まあまあ、共にジュースでも買って乾杯しようではないか! 真中くん何飲む?」
さ、と立ち上がったかと思えば自販機まで歩く。
心なしか神崎のような口調になりかけている。寒気がするからやめてくれ。
「ううん、私はねー……オレンジジュース! 真中くんもこれでいいよね!」
そう言って僕の分まで買ってしまう。許可も取らずに。……まじか。
「えっと……ありがとう……? あ、お金」
「いいっていいって! ここは私の顔を立てて奢らせて! ね!」
顔を立てろと言われてもなんだか腑に落ちない。普通は逆じゃないのだろうか?
ともかく、僕らはオレンジジュースを持って椅子に掛けた。
やっぱりお金は払う、と僕が言い出すより先に、ひよりは口を開いた。
「いやあ今日は楽しかったねー! あのね、私タイ焼き食べたの! 薄皮であんこたっぷりで凄くおいしかったんだよ!」
ひよりは止まらず話し続ける。
カレーパンも食べたかったけどお腹がいっぱいだったこととか、座禅では3回も叩かれたこととか、バスの中でUNOをやっていたがうるさくて怒られたこととか。
止まらない。そうでもしないと死んでしまう魚かのように。
だから、思わず僕は口を挟んだ。
「……なんか、疲れてる?」
瞬間、時が止まったようにひよりの動きが止まった。
真顔に、怪訝に、そしてまた笑顔に。おかしな経路で、けれどいつもと同じ顔になったひよりが言う。
「えー! どうしてそう思ったの?」
「え……いや、なんか疲れてそうだなって……」
何の気なしの発言だった為に、どうしてと言われてもこんな気の利いた言葉しか出てこなかった。
宇宙人でも一日中はしゃいでいたら疲れるものなのか、という少しの好奇心と、あとはなんだろう。
「真中くんは優しいね! さすがに今日はちょっと疲れちゃってたの、心配してくれてありがとう! あ、もうそろそろ消灯時間じゃない? 戻らなきゃ怒られちゃうよ真中くん!」
言われ、時計を確認すると確かに消灯までもうすぐだった。
僕たちは結局一口も飲んでいないオレンジジュースを握ったまま、立ち上がる。
「うん……おやすみ、空原さん」
「おやすみ、真中くん!」
ひよりが去っていく背中を眺めながら、そういえばひよりの方からどこかに行くのはこれで何度目だっただろう、とぼんやり考える。
程なくして、巡回中の生活主任にもうすぐ消灯時間だから早く部屋戻れよ、と促され、僕もようやく踵を返した。




