第三話 あと僅か
通りの町屋の雨戸も閉ざされ、人通りも絶えた夜のしじま。
ようやく家に戻った千尋は、ぬるい仕舞い湯で汗を流し、下帯を締め、浴衣の袖を通しただけで帯を持ち、這うようにして階段を上る。
居室を二階に設けたことを悔やみつつ、疲労困憊の体で襖を開けかけた。
しかし次の瞬間、覚醒し、腰を落として身構える。
「誰……」
窓枠に腰をかけた人影に、思わず誰何しかけるも、すぐに気づいて弛緩する。
「……来てたのか」
「ええ」
佑輔が純白の寝着を折り目正しく身にまとい、首の辺りを団扇で優雅に扇いでいる。
足元では蚊避けの菊花線香が、白い煙をたなびかせている。
「くどいな、お前も」
慌てて浴衣の前を合わせ、憮然としながら帯を締める。
「俺は何を聞いても答えないぞ。いい加減あきらめろ」
「何も聞いていませんよ。あなたが無事なら、私はそれでいいんです」
窓辺を離れた佑輔が、行灯の火を吹き消すと、座敷に吊るされた青い蚊帳が、闇の中に仄かに明るく浮かんで見える。
無事さえ確認できれば、それでいい。
だから今夜は堤と門下生が寝起きする長屋に戻らず、このまま泊まるつもりらしい。千尋は聞こえよがしに太息した。
いっそ追い帰したいところだが、こんな夜更けに一人歩きもさせられない。
大体まだ前髪の子供のくせに、いつのまにか護衛者ぶって、まとわりついてくること自体も腹立たしかった。
しかし、今では剣の腕も銃の腕も、佑輔にだけは敵わない。
あっというまに背丈も越され、肩幅も胸の厚みも日を追うごとに男のそれになっていく。
どちらも認めざるを得ない分、焦燥感が千尋の胸に渦巻いた。
最後は「勝手にしろ」と、吐き捨てて、四つ這いになって蚊帳をくぐり、い草の寝ござに倒れ込む。
すると、あえて距離を取るように、佑輔が部屋の隅で横臥する気配がした。
水戸藩附家老久藤家の若君が、布団も使わず、文句も言わず、雑魚寝に甘んじようとする。
そうまでしてでも側にいようとしてくれる、ひたむきさと情熱がいじらしく、結局は我儘も強情も許してしまう。そんな自分に千尋は内心歯噛みする。
千尋に背を向け、腕枕で佑輔が重い目蓋を閉じた時、背中に団扇の柄が当たる。
声もたてずに驚いて、背後の千尋を振り向くと、蚊帳の裾をめくり上げ、千尋が顔を覗かせて、掌を上向けたまま、人差し指を二回折る。
手招きではなく異人がよくする『来い』の合図だ。
「いいんですか?」
佑輔は自分の耳を疑うような声を出す。
「いいさ、入れよ。蚊帳ん中の方が涼しいだろ」
口では文句を言いながら、誰よりも佑輔に甘いのは自分なのだと千尋は思う。
遠慮がちに蚊帳をくぐった彼のために、寝ござの端へと無言でいざる。
そして、蚊帳の隅に畳んで置かれた予備らしき上掛けを投げつけて、再びごろりと横になる。
いつも花村が蚊帳を吊るし、寝ござも敷いてくれるのだが、今夜に限って上掛けをふたつ用意した。
自分の帰りが深夜に至れば、佑輔も泊まらざるを得ないだろうと予測した。
頭が回る番頭は気働きが利き過ぎて、時折主人を困らせる。
それなら蚊帳も寝ござも二人分、準備すればいいものを、上掛け以外はひとつでいいと判断した。
花村のその決めつけが、どうにもばつが悪いのだ。
紗の上掛けをたくしあげた千尋の背後で佑輔が突然吹き出して、肩越しに覗き込んできた。
「相変わらずなんですね。千尋さん」
「何が」
「千尋さんは、いつもそうして布団の端で口を隠して寝るんです。変な癖だな。苦しくなったりしないんですか?」
「なに言ってやがる」
「……こんな風に一緒に寝るのは久しぶりですね。この前、牢に入ったとき以来ですか?」
「嫌なことを思い出させるな」
「江戸にいた頃は、いつも一緒に寝てくれてたのに。京に来てから千尋さんは冷たくなった……」
恨みがましく語尾を濁した佑輔の息がうなじにかかる。
腹這いになって立て肘をつき、『兄とも師とも慕う者』の頬にかかる濡れ髪を撫でつけながら、見つめ続ける佑輔の熱。
「くだらねぇこと言ってねぇで、さっさと寝ちまえ」
背中に伝わる肌の熱から逃れたくなり、頭をもたげて怒声を浴びせる。
窓辺の障子が月明かりに照らし出され、畳に格子の影が伸びていた。
蒸すように生温かい夏の夜の闇。
互いの意思を背中と背中で探り合う息苦しさに耐えかねて、千尋はムクリと起き上がる。
薄闇に沈んだ背後の彼は穏やかな寝息を立てていた。
自分だけが変に気負っていたのだと、落胆と安堵が入り混じりながら湧き上がる。
千尋は佑輔の肩口に、そっと額を擦り寄せた。
母親の乳のような甘い匂いが汗の匂いに混じって届く。
体の中に日向をもった幼気な肌の子供の匂いだ。
千尋は思わず目を閉じた。
このまま何も変わらずに、何も変えずにいて欲しい。
時の流れを感じさせて欲しくない。
二人で一緒にいられる時間は、あと僅か。
それを忘れていたいのに。




