表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
死か降伏か  作者: 手塚エマ
第七章 LOSE一LOSE
36/43

第三話 あと僅か

 通りの町屋の雨戸も閉ざされ、人通りも絶えた夜のしじま。

 ようやく家に戻った千尋は、ぬるい仕舞しまい湯で汗を流し、下帯を締め、浴衣の袖を通しただけで帯を持ち、這うようにして階段を上る。

 居室を二階に設けたことを悔やみつつ、疲労困憊ひろうこんぱいていで襖を開けかけた。

 しかし次の瞬間、覚醒し、腰を落として身構える。


「誰……」

 

 窓枠に腰をかけた人影に、思わず誰何すいかしかけるも、すぐに気づいて弛緩する。


「……来てたのか」

「ええ」

 

 佑輔が純白の寝着を折り目正しく身にまとい、首の辺りを団扇うちわで優雅に扇いでいる。

 足元では蚊避けの菊花線香が、白い煙をたなびかせている。


「くどいな、お前も」

 

 慌てて浴衣の前を合わせ、憮然としながら帯を締める。


「俺は何を聞いても答えないぞ。いい加減あきらめろ」

「何も聞いていませんよ。あなたが無事なら、私はそれでいいんです」

 

 窓辺を離れた佑輔が、行灯の火を吹き消すと、座敷に吊るされた青い蚊帳が、闇の中に仄かに明るく浮かんで見える。

 無事さえ確認できれば、それでいい。

 だから今夜は堤と門下生が寝起きする長屋に戻らず、このまま泊まるつもりらしい。千尋は聞こえよがしに太息たいそくした。

 

 いっそ追い帰したいところだが、こんな夜更けに一人歩きもさせられない。

 大体まだ前髪の子供のくせに、いつのまにか護衛者ぶって、まとわりついてくること自体も腹立たしかった。

 しかし、今では剣の腕も銃の腕も、佑輔にだけは敵わない。

 あっというまに背丈も越され、肩幅も胸の厚みも日を追うごとに男のそれになっていく。

 どちらも認めざるを得ない分、焦燥感が千尋の胸に渦巻いた。


 最後は「勝手にしろ」と、吐き捨てて、四つ這いになって蚊帳をくぐり、い草の寝ござに倒れ込む。

 すると、あえて距離を取るように、佑輔が部屋の隅で横臥おうがする気配がした。


 水戸藩附家老久藤家の若君が、布団も使わず、文句も言わず、雑魚寝ざこねに甘んじようとする。

 そうまでしてでも側にいようとしてくれる、ひたむきさと情熱がいじらしく、結局は我儘も強情も許してしまう。そんな自分に千尋は内心歯噛みする。

 

 千尋に背を向け、腕枕で佑輔が重い目蓋を閉じた時、背中に団扇の柄が当たる。

 声もたてずに驚いて、背後の千尋を振り向くと、蚊帳のすそをめくり上げ、千尋が顔を覗かせて、掌を上向けたまま、人差し指を二回折る。

 手招きではなく異人がよくする『来い』の合図だ。


「いいんですか?」

 

 佑輔は自分の耳を疑うような声を出す。


「いいさ、入れよ。蚊帳ん中の方が涼しいだろ」

 

 口では文句を言いながら、誰よりも佑輔に甘いのは自分なのだと千尋は思う。

 遠慮がちに蚊帳をくぐった彼のために、寝ござの端へと無言でいざる。

 そして、蚊帳の隅に畳んで置かれた予備らしき上掛けを投げつけて、再びごろりと横になる。


 いつも花村が蚊帳を吊るし、寝ござも敷いてくれるのだが、今夜に限って上掛けをふたつ用意した。

 自分の帰りが深夜に至れば、佑輔も泊まらざるを得ないだろうと予測した。

 頭が回る番頭は気働きが利き過ぎて、時折主人を困らせる。

 それなら蚊帳も寝ござも二人分、準備すればいいものを、上掛け以外はひとつでいいと判断した。


 花村のその決めつけが、どうにもばつが悪いのだ。


 じゃの上掛けをたくしあげた千尋の背後で佑輔が突然吹き出して、肩越しに覗き込んできた。


「相変わらずなんですね。千尋さん」

「何が」

「千尋さんは、いつもそうして布団の端で口を隠して寝るんです。変な癖だな。苦しくなったりしないんですか?」

「なに言ってやがる」

「……こんな風に一緒に寝るのは久しぶりですね。この前、牢に入ったとき以来ですか?」

「嫌なことを思い出させるな」

「江戸にいた頃は、いつも一緒に寝てくれてたのに。京に来てから千尋さんは冷たくなった……」

 

 恨みがましく語尾を濁した佑輔の息がうなじにかかる。

 腹這いになって立て肘をつき、『兄とも師とも慕う者』の頬にかかる濡れ髪を撫でつけながら、見つめ続ける佑輔の熱。


「くだらねぇこと言ってねぇで、さっさと寝ちまえ」

 

 背中に伝わる肌の熱から逃れたくなり、頭をもたげて怒声を浴びせる。

 窓辺の障子が月明かりに照らし出され、畳に格子の影が伸びていた。

 蒸すように生温かい夏のの闇。

 互いの意思を背中と背中で探り合う息苦しさに耐えかねて、千尋はムクリと起き上がる。

 

 薄闇に沈んだ背後の彼は穏やかな寝息を立てていた。

 自分だけが変に気負っていたのだと、落胆と安堵が入り混じりながら湧き上がる。

 千尋は佑輔の肩口に、そっと額を擦り寄せた。


 母親の乳のような甘い匂いが汗の匂いに混じって届く。

 体の中に日向ひなたをもった幼気いたいけな肌の子供の匂いだ。

 千尋は思わず目を閉じた。

 このまま何も変わらずに、何も変えずにいて欲しい。

 時の流れを感じさせて欲しくない。


 二人で一緒にいられる時間は、あと僅か。

 それを忘れていたいのに。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ