第二話 密偵
付け火に合って全焼した家屋から、堤は門下生共々仮住まいとして裏ぶれた長屋に転居した。
井戸端に集うのは女子供ばかりだが、佑輔は恥じらうことなく挨拶だけして間に分け入り、盥を置く。
水をくみ上げ、自分の着物を揉み洗いしていると、大小を差した男が現れ、佑輔が浴びる朝日を遮る。
「あなたは、そんなことまでなさるのですか?」
沖田は咎めるように問い質した。
私塾の師範や門下生と同居して、浪士のような暮らしむきだが、いやしくも水戸藩附家老久藤家の若君だ。
その若君に洗濯までさせるのは、私塾といえども目に余る。
沖田は久藤が武家の頂から下りて来て、身近になればなるほどに、訳もなく気が立った。
貴ぶべき人を土足にかける蛮族への義憤に近いかもしれない。
けれども当の佑輔は、黙したままで沖田を冷たく一瞥し、再び盥に目を移す。
「なぜ女中を置かないのです。あなたの塾長は一体どんなお考えなのですか? 少なくとも身の回りの世話ぐらい門下生にさせるべきですよ」
「京には洋学塾の女中になる人なんて滅多にいません。いたとしてもやむを得ない事情を抱える女人です。何といっても千年の王城ですからね。尊王攘夷派先鋭の長州贔屓の人も多くいて、風当りも強いんです。私たちなんて夷てきも同然なんでしょう」
いきり立つ沖田をよそに佑輔はどこ吹く風で固く絞った単衣を広げて竿にかけ、皺を伸ばして整える。
共同長屋の女子供の腰巻と一緒に干された木綿の衣がたなびく様を、満足そうに見上げると、ようやく沖田に向き合った。
「それに、この洋学塾では塾長も門下生も身分によらず、みな平等に接します。それが堤の理念であり、私の信念でもあるのです。ですから堤も私も当番になれば掃除もしますし洗濯もします。その約束で門下生になったのです。ですから安易に堤を非難しないで頂きたい」
佑輔は釘をさして立ち上がり、盥の水を溝に捨てた。
「……で、今日は何の御用です?」
いかにも不承不承に詰問し、沖田をちらりと横目にした。
途端に沖田は棍棒で左の胸を突かれたように二、三度軽く咳込んだ。
そうして咽つつ盗み見た彼は、何度見ても蠱惑的に美しい。
黒髪は元結できりりと束ねられ、俯くたびに目元に頬に艶めく髪が、はらりとかかる。
目尻が小気味よく吊っていて、鼻梁も涼しく、唇も薄い。
白磁のような肌艶が、男雛を思わせる。
貴種だと感じた。
貴種だけが持つ無言の圧に押し負かされてしまわぬよう、居住まいを正した沖田は端的に進言する。
「油断なさらないことです」
と、声を一段低くした。
「うちの幹部は執念深い」
更に沖田が言い足すと、頑なだった久藤が動揺の色を顕わにする。
その瞬間だけ、沖田はなぜか身震いするほど昂ぶった。
難攻不落な要塞を僅かなりとも攻略したと色めいた。
と同時に、どこからともなく姿を見せた野良猫が二人の間に割り入った。どちらの足にも擦り寄る猫に舌を弾いて貴種が手招き、抱き上げる。
「あなたは密偵なんですか?」
佑輔は猫の丸い背中を撫でつけながら、失笑した。
「まさか、そんな」
「じゃあ、なぜ、それを私におっしゃるのです」
前髪の向こうで怜悧な双眸が細められ、全身がぞっと総毛立つ。
沖田を淫靡に駆りたてる。
頭上で一斉に鳴き出した蝉の喧噪を、やけに近くに感じていた。




