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悪魔の仕事

作者: ネルノスキ

 あるところに一人の悪魔がいました。


 悪魔の仕事は人間から涙を集めることでした。


 涙は悪魔たちの大好物で、流した人間の悲しみや苦しみが深ければ深いほど、彼らの国で高く売れるのです。




 あるとき、悪魔はひとりの娘に目をつけました。


 娘は大きな街の貧民街の、さらにそのはずれのあばら屋に、病身の父親の看病をしながら暮らしていました。


 娘には身寄りもなく、少し離れた小さな森でわずかばかりの木の実や茸を採ったり、木のつるで籠を編んだりしてどうにか糊口を凌いでいました。


 これほど苦しんでいる娘の涙は、さぞ高値で売れることでしょう。


 涙を集めるための小瓶を持って、娘の前に悪魔が姿を現しました。


「娘よ、おれは悪魔だ。身の毛もよだつこの姿、さぞ恐ろしかろう。さあ、涙を流すのだ」


 悪魔の恐ろしい声色に、しかし娘はわずかに怯えたような目をするだけでした。


「なぜだ、娘よ。おれが怖くはないのか」


 悪魔の問いかけに、娘は静かに答えました。


「悪魔さま。確かにあなたは恐ろしい形をしていらっしゃいます。ですが人の形をしたものの中には、もっと恐ろしいものがいるのです」


「悪魔のおれよりか」


 悪魔はそう言って低いうなり声を上げました。


「よかろう。ならばおまえが泣くまで待つとしよう」


 そう言って悪魔は煙になって消えてしまいました。




 娘の家には毎朝、一羽の小鳥が飛んで来ました。


 娘はその小鳥に自分たちのわずかな麦を分け与えて、歌声を聴くことをたったひとつの楽しみにしていました。


 ある日娘が森から帰ると、家の前に鳥の羽が散らばっていました。あの小鳥の頭と羽根だけが血まみれになって転がっています。


 おおかた野良猫にでも食べられてしまったのでしょう。娘はそのなきがらを木の根本に埋めてやりました。


 すると娘の前に小瓶を持った悪魔が現れました。


「娘よ、おまえの小鳥は食われてしまったぞ。さぞ寂しかろう。さあ、涙を流すのだ」


 しかし娘は涙を流しません。


「悪魔さま。確かに寂しゅうございます。ですが、野良猫とて同じ生き物、腹も空きましょう」


「もうあの鳥はやって来ぬのだぞ」


「いずれ他の鳥が飛んで来ることもありましょう」


 悪魔は低いうなり声を上げました。


「よかろう、ならば待つとしよう」


 そう言って悪魔は煙になって消えました。




 夏の終わりのある日、森が火事になりました。


 炎は三日三晩燃え続けて、あとにはただ真っ黒な燃えかすが煙を上げています。


 これでは木の実も茸も採ることができません。


 娘の前に悪魔が姿を現しました。


「娘よ、森が燃えてしまったぞ。さぞ不安であろう。さあ、涙を流すのだ」


 しかし娘は立ち尽くすばかりで、涙を流しません。


「悪魔さま。確かに不安でごさいます。ですが、私は生まれてこのかた、安心というものを知りません」


「これではお前は冬を越せまい」


「それではその時にでも泣くことにいたしましょう」


 悪魔は低いうなり声を上げました。


「よかろう、ならば待つとしよう」


 悪魔は煙になって消えました。




 娘の暮らしはいよいよ困窮して、父親に満足に食事させることすらできなくなりました。


 そしてある秋の朝、とうとう父親は死んでしまいました。


 娘の前に悪魔が姿を現しました。


「娘よ、おまえの父親は死んだぞ。さぞ悲しかろう。さあ、涙を流すのだ」


 しかし娘は涙を流しません。


「悪魔さま。父は長く苦しみながら、今日まで私のために生きてくれたのです。誠実な父はきっと天国というところへ行けましょう。なにを悲しむことがありましょうか」


「おまえはこの世にただ一人になったのだぞ」


「それも長くはないでしょう」


 悪魔は低いうなり声を上げました。


「ならば待つとしよう」


 悪魔は煙になって消えました。




 娘は日に日に弱ってゆきました。


 娘は父親と同じ病に罹っており、咳が止まらず、身体中がぎしぎしと痛みました。


 そしてとうとう動くこともままならなくなりました。


 悪魔が現れました。


「娘よ、おまえは死の病に冒されておる。さぞ辛く、苦しく、痛かろう。恐ろしかろう。もはや何人もおまえを救えぬ。さあ、涙を流すのだ」


 しかし娘は苦しそうにするばかりで、涙を流しません。


「悪魔さま。もとより私には生まれてこのかた、苦しみのない日など、一日とてありませんでした。それもようやく、終わろうとしております」


「心残りすら無いというのか」


 悪魔は低いうなり声を上げました。




 冬の朝、死にゆく娘に悪魔が問いかけました。 


「娘よ、おまえは生まれてより今日までただ苦しみ、無為に生き、そして無為に死のうとしておる。悲しくはないのか。恨めしくはないのか。涙を流さぬのか」


 娘はただ穏やかに言いました。


「悪魔さま。私の一生は苦しみにまみれていたかもしれません。けれど、私が涙を流さず生きて来られたのは、悪魔さま。あなた様がいつも見ていて下さったからなのです」


「おれは悪魔だぞ」


「神様は私のそばに居てはくださいませんでした」


 娘はそう言って、はじめてにこりと笑いました。


「悪魔さま。なぜあなたがお泣きになるのです」


「馬鹿な事を言うな。悪魔には涙などない」


「そうでしたか」


 娘の目から涙が一粒頬を伝い、それきり娘は動かなくなりました。


 悪魔はその粒を小瓶で掬い取りました。


 透明なガラス瓶の中で娘の涙がきらきらと輝いています。


 悪魔はふいにそれを他の悪魔に売ることが惜しくなりました。


 そして指を小瓶に突っ込み、涙を掬ってぺろりと舐めました。


「なんだ、これは! おお、まずい、まずい!」


 悪魔は悲鳴を上げて、苦しげに身悶えしました。


「まずい、まずい!」



 悪魔は喉をかきむしり、のたうちまわり、泣きながら、ばたばたと音を立てて何処かへ飛んでゆきました。

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