99.★銀世界(クリストファー視点)
クリストファー視点、全一話です。
今日は俺の誕生日だ。
ここ最近はずっと家族が祝ってくれる嬉しさ半分、王位継承権の放棄の期限が近づいてくる空しさ半分でこの日を迎えていた。
だが今年は違う。ここまで楽しみな誕生日は未だかつてないと言って良い。何故なら侍女のマチルダ経由でクローヴェル卿から手紙が届いたからだ。
しかもその内容は
『明日の夜、夕食後の貴重なお時間を少しだけ頂戴したく存じます。騎士団の訓練場でお待ちしておりますので、風邪を引かないよう温かい格好でお越しください。――レオナ・クローヴェル』
――というものだった。
厳密に言えば違うのだろうが、これはもう逢引きだろう。誰がなんと言おうと逢引きだ、俺が決めた。
おかげで楽しみ過ぎて昨日はなかなか寝付けなかった。
それでも何とか寝て目覚めてみれば外は相変わらずの猛吹雪。連日の吹雪のせいで訓練場は人の背丈以上もある雪で覆われている。この雪では訓練など出来るはずがないので今日も訓練は休みだと通達を出さなければならない。
結局その後一時間程度で吹雪はぴたりと収まったものの休みに変更はない。訓練場の雪をどうにかすれば訓練出来なくはないが、誰もやりたがらないだろうし、二度寝している者も数多くいるだろう。ウィリアムなどは一度寝るとなかなか起きないので起こす側も可哀そうだ。
簡単な書類仕事を済ませ、残りの時間で来る幸せな時間に思いを馳せていると、午前の街中の巡回を済ませた者たちがいつもの報告に来た。特に異常はなかったとのことだが、騎士たちは何故か笑いを堪えていた。
不思議に思い理由を尋ねてみると、突然クローヴェル卿が颯爽と現れて通りに積もった雪を魔法で一掃したらしい。人々は雪かきをしなくて済んだことを喜び、子供たちは我先にと雪遊びをし始めた。何とそこに彼女も加わって一緒に遊び出したのだという。
幼い平民の子供たちの言葉遣いにひとつも嫌な顔をせずに、上手く子供たちを煽り操りながら楽しく遊んでいたようだ。その様子はまるで小さな騎士団だったと。
(お、俺も見たかった……)
子供たちに囲まれ、それに彼女が笑顔で応える光景など下手な美術品よりも価値がある。こんないつでも出来るような書類仕事などしている場合ではなかったのだ。
とにかく彼女が子供たちと雪遊びするのも好きなのだということを頭に刻み込んでおく。そして次こそは一緒に遊ぶのだ。
それにしても彼女に元気が戻ってきて本当に良かった。上層部が頑なで仕方なく王都に呼び寄せ、その結果気落ちさせてしまったというのに、更に倒れたと聞いた時は本当にどうにかなりそうだった……。
直接話をして仲良くなったことで気を大きくして余計な気を回した母上をあれほど本気で叱り飛ばしたのは初めての経験だった。
彼女を外野の余計な干渉から守るためにも、もっと彼女と一緒にいる時間を増やさなければ。
身を案じていることを誠心誠意伝えようと努めたお陰か、彼女の俺に対する態度が以前よりも更に軟化したように思う。ある意味怪我の功名と言えるのかもしれないが……なんとも複雑だ。
以降、時折お茶に誘ってゆったり話をしたりしているのだが、ある日チェスで遊んでみると彼女が思っていた以上に嵌まってしまった。彼女も初めはとても弱かったのだが、負けず嫌いなだけあってメキメキと上達していっている。
昼休憩にチェス盤を休憩室に持ち込んで周囲の騎士たちとやり合っている光景はとても微笑ましい。そうして自信をつけて意気揚々と俺に挑んでくるのだが、その様子が愛おしくてたまらない。
彼女が同じ王都で生活するようになると、これほどまでに日々が楽しくなるとは当初は思ってもみなかった。
午後の彼女はシャルと一緒に勉強に精を出しているので、今朝のような失敗はないはずだ。
それにしてもシャルは随分と彼女に懐いている。家族以外にはいつも冷淡な態度を取って人を遠ざけたがるシャルが、あんなにも心を弾ませながら人に会いに行く様子など見たことがない。
クローヴェル卿を気に入ってくれたのは嬉しいが、兄は少し寂しい。
夕食では家族全員が揃って誕生日を祝ってくれる。料理も俺の好きな物が並び、皆が俺に贈り物をしてくれるのが毎年続いている。これらは勿論俺だけでなく家族全員の誕生日でも同様だ。
余所の家庭のことは良く知らないが、ここまで仲の良い王族というのはなかなか無いのではないかと個人的には思っている。
父はいつも俺を茶化してくる。しかしそれは俺を心配し、応援してくれていることの表れだ。たまに険悪な雰囲気にもなるが、それ自体を嫌だと思ったことはない。一国の主として日々国の為に働いている父を素直に尊敬している。
母はその愛情を真っすぐに俺へと向けて、明るく背中を押してくれる。どんな時でも味方になってくれる存在というのは、居るだけでどれだけ己が救われるかというのが良くわかる。
妹は不器用ながらとても優秀で可愛い妹だ。もう隣国に嫁ぐことは決まっているが、俺も母に倣い、いつだって彼女の自慢の兄として味方になると心に決めている。
弟は俺のせいで最も迷惑を被っている人物だ。俺が王位を継ぐのかどうか曖昧だったせいで、自身のやりたいことに集中出来なかったことについては本当に申し訳なく思っている。あまり言葉での感情表現が得意ではないが、行動で示してくれるので妹同様とても可愛い。今後は存分に自らの分野でその頭脳を活かしてもらいたい。
互いが愛し、愛されているという実感を得られる家族だ。これまでにも数々の迷惑を掛けてしまったが、俺は必ず愛する彼女と共に自らの役目を果たし、それに報いるつもりだ。
これだけでもとても心が温まるというのに、この後にまだクローヴェル卿と会う予定があるのだから、幸せ過ぎて怖いくらいだ。
そして遂に待望の時間がやってきた。
言われた通りにしっかりと防寒具を着こんで夜の人気のない騎士団の廊下を進む。気分的にはスキップしたいくらいなのだが、流石に何か違う気がするので努めて冷静に歩を進める。
明かりがあっても薄暗い廊下を進んで訓練場に出ると、そこは夜とは思えないほど明るかった。大量に積もった雪が晴れ渡った夜空に浮かぶ月に照らされて、その光を反射していたからだ。
そんな雪の壁の中に一本の道を見つけた。覗き込んでみると、その道の先には彼女の姿があった。それだけなのに心臓が大きく跳ねたような気がした。
両脇の壁が背丈よりも高い雪の道を進んで彼女に近づいていくと、彼女の周囲の雪が直径二十メートル程度の円形に綺麗すっかりなくなっていることに気付いた。その形があまりに整っているので彼女が魔法で何とかしたのだろう。
「お待ちしておりました」
雪に囲まれた空間の中で月の光を浴びながら佇んでいた彼女がこちらに気付き、柔らかく微笑んだ。
「……殿下?」
(……ハッ!?)
そのあまりにも幻想的な美しさに思わず見とれてしまっていた。彼女の微笑みが不思議なものを見る顔に変わったことで、ようやくそれに気付けた。
「あ、あぁ……すまない。待たせてしまったな」
「いいえ、全然。雪が沢山降ったお陰で月がとても綺麗に見えていましたので」
そう言って彼女は再び月を見上げた。
確かに連日の吹雪で大気中の砂や塵が全て洗い流されたのだろう、肌を刺すような空気の中、夜空に浮かぶ月がくっきりと見えた。それは眩しいといっても良いくらいに輝いている。
「それで、今日はここに呼び出して何を?」
「新しい景色を殿下にご覧になっていただこうと思いまして。以前は飛ぶことに慣れておりませんでしたので高く飛び上がるだけでしたが、今ならもっとたくさんの景色をお見せ出来るかと」
また違う景色を見せてくれと約束したのを覚えていてくれたようだ。ただそれだけでたまらなく嬉しい。上空から眺めるだけでもとても楽しかったのだ、絶対楽しいに決まっている。
「それは楽しみだ! ……えぇと、また俺が抱き着けば良いのか?」
思わずあの時の柔らかな感触や体温、その香りを思い出し、その気恥ずかしさに声量が小さくなってしまう。
「今回は姿勢が変わりますので、こちらを」
彼女が背負っていた、そう大きくはない鞄から取り出したのは小さなベルトが二つ。
「それをどうするのだ?」
「飛ぶ時は姿勢が横向きになるのですが、二人ですと殿下の足が宙ぶらりんになりそうなのです。どこかにぶつけたりすると危険なので、これで足首から脛あたりを二人まとめて両足を軽くで良いので縛ってください。今回は私が後ろになります」
「……ふむ、了解した」
ベルトを受け取り、俺は上体を折り曲げて背後から彼女が近づいてくるのを待つ。そして視界が逆さまのまま、自分の足ごと彼女のそのスラリとした足をベルトで纏めていく。
(……うっ!?)
逆さまで自分の股の間から、タイツ越しとはいえ彼女のふとももが見えることに気付いてしまった。その距離は一メートルもない。
というか俺にはちゃんと着込むように言っておきながら、彼女は相変わらず魔法で暖を取っており、外気温から考えれば異常なまでに薄着だ。飛び始めてしまえば俺は暑いくらいではないだろうか。
「……どうされました?」
俺が固まっていたのを不思議に思ったようで、後ろから大丈夫かと声がした。
「いや、上手くベルトが掴めなくてな……。――よし、これでどうだろうか」
怪しまれないようにささっとベルトをつけ、折りたたんでいた上体を起こした。
(……こ、この感触はっ!?)
すると肩甲骨の少し下あたりにとても柔らかいものが当たった。間違いない、これは彼女のあの豊満な胸の感触だ。
(まさか、これから空を飛ぶ間もずっと……!?)
「えぇ、大丈夫そうですね。……それでは参りましょうか」
(……ッ!!!)
俺が予想外の喜びに戸惑っていると、確認を済ませた彼女がそう言いながら後ろから俺に抱き着いた。背中の感触がより強く、広く感じられて思わず息が止まる。
前回の時とも、ダンスを踊る時とも違う完全な密着。彼女の体温は勿論のこと、鼓動すらも着衣越しに感じられる。しかもその脈打つ速度はとても速い。
断言しよう、これはもう彼女もわかってやっている。後ろから回された右手は俺の心臓の位置にしっかりと置かれているのだ。絶対に俺の反応を見て楽しもうとしている。
立ち位置的に彼女の顔は見えないが、まず間違いなく夜会の時のような意地悪で妖艶な顔をしていることだろう。
(俺を舐めるなよ……! 王太子の堂々たる振る舞いを見せてやる!)
そう意気込みはするものの、背中の感触に全神経を集中している自分がいる。悲しいかな、この柔らかな感触にはまったく抗える気がしない。
そんな俺の奮闘を余所に彼女が飛翔の魔法を使って二人の身体が浮き上がる。そして体感で前回と同じように一気に高度が上がっていく。
「くっ……!」
前回は情けない話だが彼女に言われるまで目を瞑っていた。自分の手が緩まれば落下するのだという恐怖があったからだ。
だが今回は違う。後ろからしっかりと彼女によって抱きしめられている。温かく、柔らかく、そして力強く、これ以上ないほどの安心感をもたらしてくれている。
動き出しには少し声が出てしまったが、俺はしっかりと目を開き、さっきまで自分たちがいた場所が遠ざかっていくのを見つめ、見知らぬ世界が広がってゆく様を目で追いかける。
そして王宮が小さく足元に見下ろせる高さまで昇ってきたところで上昇が止まった。
「おぉ……これは……なんと美しいのだろうか……」
眼下に広がるのは一面の銀世界。それが先程も見た上空の月に照らされて、光を反射して白く輝いている。静謐という言葉を体現したような、ただただ静かな世界だった。
「前回とはまた違った趣がありますね」
「世界の純粋な美しさを見せつけられているような気分だな……」
窓が雪で埋もれているからか、街に前回のような暮らしの火が揺れる様は殆ど見られない。人々が生活している場所だという情の入り込まない、過酷で残酷な自然の美しさがそこにあった。
しばらくその場でくるくると横に回転して周囲を見回していく。王宮の向こうにある中央山脈まで白く染め上げられている。それは恐らくあの山の向こう側にまで続いているのだろう。
「ではそろそろ横にも移動しますね。高速で移り変わる景色を存分にお楽しみ下さい」
「あぁ。……君と一緒なら怖くはないさ」
俺は行きどころのなかった、だらりとただ下げていた腕を持ち上げ、心臓の位置に添えられている彼女の右手に自分の右手を重ねた。
「…………」
すると彼女の手がくるりと裏返り、手の甲を俺の心臓に当てたまま、こちらの手に指を絡めてきてくれたではないか。背中には彼女の横顔がピタリとくっつけられているのも感触でわかる。
――彼女の無言の肯定。
物理的な距離だけでなく、心の距離も限りなく近付いてきているという証左が俺の心をかつてない程に昂らせる。今すぐ振り返って力強く抱きしめ、その唇を奪ってしまいたくなる。
だが今の位置関係ではそれは叶わない。何よりまだプロポーズが済んでいないのだ、そこまで手を出してしまえばきっと幻滅されてしまうだろう。
とにかく今は抱擁の感触と温もり、右手の繋がりを愛おしみながら我慢するしかない。
ここでそれまで真っすぐ立って宙に浮いていた状態だったのが、ぐっと前に姿勢が傾いた。そして緩やかに降下しながら、前に進む速度が徐々に上がっていく。
だがそのようにゆったりと観察出来たのは最初の内だけで、すぐに馬に乗っている時を超える速度を感じ取り、身体が強張っていく。もはや耳には暴風のような音しか入ってこない。
(お……落ちる……!)
風の勢いで目を開けづらい状態だったが、いつの間にか地面に積もった雪スレスレの高さまで降りてきていた。上空にいた時と比べても目まぐるしい速度で周囲の景色が変化していく。
思わず彼女と繋いだ右手に力が入ってしまう。すると俺の右脇腹に回され、添えられていた彼女の左手が、子供をあやすようにぽんぽんと軽く俺の脇腹を叩いた。まるで「大丈夫だよ」と落ち着かせるように。
そうだった、俺は今彼女と一緒にいるのだ。怖がる必要など何処にもなかった。それに気付くだけで身体から余計な力が抜け、景色を楽しむ余裕が出てきた。
街道を、木々の間を、民家の屋根の上を、王宮の塔の間を、山肌を、どれも真っ白に染め上げられた美しい場所を、まるで自身が鳥になったかのように時折身を翻しながら縦横無尽に飛び回る。
(あぁ……楽しいな……)
こんな自由に動き回ること自体、普段の生活では殆どないと言っていい。護衛を連れて歩かないといけないのが窮屈で、何か明確な目的がなければ街に出ることすらない。
そんな凝り固まった生活や価値観を彼女はいとも容易く打ち砕き、俺に新しい世界を見せてくれる。
ずっとこうして彼女と同じ世界を見ていたい――。
感動と彼女への感謝、そして愛おしさで胸がいっぱいになりながら、真っ白で静かな世界を存分に堪能する。
楽しい時間も遂に終わりを迎え、最後は前回のような急降下ではなくゆっくりと訓練場へと降り立った。そして素早くベルトを外して向かい合う。
「お疲れ様でした。空の旅はいかがでしたか……?」
少し顔が赤い彼女が微笑みかけてくれる。対する返答など一つしかない。
「本当に……最高だったよ。素敵な誕生日をありがとう」
「ふふっ、実はまだ終わりではないのですよ」
これだけ楽しませてもらって充分過ぎるほどに満足していたのだが、まだ終わりではないらしい。彼女は楽しそうにまた背中の鞄から何かを取り出そうとしている。
「素人の拙い出来で申し訳ないのですが……」
そう言って躊躇いがちに差し出されたのは真っ赤なマフラーだった。
「これを……君が……?」
暖かな毛糸で編まれたそれは、どう見ても素人が作ったようには見えなかった。俺も詳しくはないが、編み方を変えながら凹凸のついた模様が入っていたり、表裏でまた違う模様になっていたりと、とても手が込んでいるように見える。
「デザインはマチルダにも一緒に考えてもらいましたが、実際に編んだのは私です」
彼女は気恥ずかしそうに頷いた。
「それと、こちらも……」
更にごそごそと鞄を漁り、今度は白い紙で包装されている何かを取り出した。そして俺が手に持っているマフラーの上にちょんと乗せた。これは一体何だろうか。
「……開けてみても?」
彼女が頷いたので左手でマフラーごと包みを持って、右手でその包みを縛っている紐をほどいていく。
「これはクッキーか……?」
「はい。殿下が最近はチョコがお好きだと伺いましたのでチョコチップクッキーにして、騎士団の厨房を借りて作ってみました。お口に合うと良いのですが……」
俺が彼女の好物を調べてイチゴのタルトを用意したように、彼女も俺の好物を……それも今気に入っている食べ物を使って作ってくれたようだ。
「物の価値で言えば私が頂いた手甲には遠く及びませんが、お祝いの品は以上になります」
確かに金額的にはその通りなのかもしれないが、これらには頭を悩ませた形跡と、何より本人の時間と手間が掛かっている。俺のように出来合いのものを買ってきたり作らせたものではない、俺を喜ばせようという気持ちがたくさん籠った素晴らしいプレゼントだ。
――こんなもの、喜ばないはずがない。
「あぁ、とても嬉しい」
「喜んで頂けましたら幸いです」
その気持ちが嬉しくて、ついプレゼントを持つ手に力が入る。
(君はいつだって俺の想像の上を行き、驚かせてくれる。君に並び立ちたいと思わせる力を与えてくれるのだ。本当に、初めて会った時からずっと――――)
「――――――愛している」
「……えっ?」
「……うん?」
自分自身、何か違和感を覚えてプレゼントから目線を持ち上げると、きょとんとした彼女の顔が視界に飛び込んできた。
「えぇと……それはプロポーズになるのでしょうか……?」
(……ハッ!?)
「すまない! 今のは自然と漏れ出ていただけでプロポーズなどでは!」
彼女の言葉でようやく無自覚に今の気持ちが口に出ていたことに気付いた俺は慌てて弁明する。
「あら、まだプロポーズはして頂けないのですか? てっきり今日して頂けるものかと思っていましたのに。それにしても漏れ出ていただなんて……!」
彼女は意地悪そうな顔で笑ってくれている。だが、きっとその内心はがっかりしていることだろう。期待を裏切ってしまったことは申し訳ないと思う。
「プロポーズをする前に後ひとつだけやり残したことがあるのだ。待たせてしまってすまない……」
今日が絶好のチャンスだというのは間違いなかったのだが、彼女を知るうえで欠かせないことが後ひとつだけ残っている。それをしないままプロポーズするというのは俺自身が納得出来ないのだ。
「わかりました。現状に満足してはいないようですので私も待ちましょう!」
そう言って彼女は腰に手を当てて胸を張る。その懐の広さに一体何度助けられているだろうか。
「――恩に着る。それでその……この流れでこんなことを言い出すのは自分でもどうかと思うのだが、お願いを聞いてもらえないか?」
「何かしら? 聞くだけ聞いて差し上げてもよろしくてよ?」
返事だけは上から目線だが、彼女の顔はとても良い笑顔で、それは余程のことでなければ聞いてくれると言っているようなものだった。お陰で言い出す側としてもとても気が楽になる。
「俺もシャルのように君と気安い関係でいたい。名前で呼びたいし、呼んで欲しい。……駄目だろうか?」
「改まって何を言い出すかと思えば……お安い御用よ、クリス」
彼女はふふっと笑って、一切の抵抗もなくさらりと俺の名前を呼んでくれた。
「ありがとう…………レオナ」
一方の俺はこんなにも名前を呼ぶのに緊張しているというのに……。
最近ずっと願っていたことが叶って気を大きくした俺は、咄嗟にもうひとつお願いを思いついた。
「最後にもうひとつだけいいか?」
「……まぁ! なんて欲張りな王太子様かしら!」
そう言いながらも呆れること無く、次は何を言い出すのだろうとこちらの様子を窺い、目を輝かせているレオナ。
その様子が可愛らしくて、つい頬が緩んでしまう。
「折角これだけ美しい舞台があるのだ、一曲どうだろうか?」
今二人が立っているのは周囲を雪に覆われ、月の光が差し込んでいる、ただそれだけの美しい空間。折角彼女と二人きりなのだから楽しまなければ勿体ない。
俺はクッキーの袋を懐に入れ、マフラーを首に巻いた後、お辞儀をして手を差し出した。
彼女は周りを見渡して、納得したように微笑んだ。
「……よろこんで」
手を取った彼女と自然な足取りでこの空間の中央へと進み、ポジションに着く。そしてどちらからともなく踊り出した。
曲目はあの日の夜会と同じ。だがもう音楽も、観衆も必要ない。
きっとあれから沢山練習したのだろう、もう足を踏むこともなく周囲に気を取られることもない。頬を朱く染めながら、ただ俺のことだけを見て微笑んでくれている。
月の光が照らす静寂の中、向かい合う彼女と俺だけの対話。
ただ静かに、時間だけが流れていく――。