96.病床
(あれ? ここはどこだろう……? なんだか温かい……)
目を開いたはずなのに視界は真っ暗だ。何か温かい物に包まれている感覚はあるのに身体は何故か動かないし、喋ることも出来ない。
(そうだ、訓練を……)
こうして油を売ってなんていられない。今日の訓練はまだ始まったばかりなのだから皆が私の帰りを待っているはずだ。
(それに授業の前に予習もしておかないと……)
シャルロット殿下を見返して、私はクリストファー殿下とも釣り合う人間なのだと証明しないといけない。折角授業についていけているのに怠けていては以前に逆戻りになってしまう。
それなのに私の身体は言うことを聞いてくれない。もどかしい。
『……何もしなくていい』
すると真っ暗闇の中に突然穏やかで優しい声が響いた。
(この声は……?)
聞いたことがあるはずなのに、ぼんやりとした頭ではなかなか浮かんでこない。
でもとても落ち着く声だ。
『今はただ、ゆっくり休んでくれ』
その声の言われるまま、自然と身体から力が抜けていく。
『……おやすみ』
そしてそのままふわふわとした浮遊感のなか、私は微睡に包まれた。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
(ん…………)
いつの間にか瞑っていた目を開けると、映り込んできたのは自室のベッドの暗い天井だった。カーテンの向こう側も薄暗く、柔らかいオレンジ色の明かりの光が揺れている。どうやらもう夜になっているようだ。
「あれ、私……」
まだ少しぼんやりとしている頭をさすりながら気だるい身体を起こす。すると天蓋のカーテンの向こうから息を呑む音が聞こえ、ガタリと椅子が動いた音がした。
続いてシャッと勢いよくカーテンが開けられ、部屋の控えめな明かりがベッドの中に差し込んでくる。
誰かがこちらを覗き込んでいる。しかし逆光でそれが誰なのかはすぐにはわからない。
ただ見覚えのあるシルエットではあるので、ひとまず勘で声を掛けてみることにする。違っていても寝ぼけていたで言い訳は通るだろう。
「殿下……?」
「よがっだ……」
私が声を発すると相手は力なくすぐ後ろにあった椅子に座り込み、若干鼻声で安堵したように呟いた。
両膝に両肘をついて、両手を組んで顔を隠すように額に当てて俯いて座っているのを眺めていると次第に目が慣れてくる。目の前の人物はやはりクリストファー殿下で間違いないようだ。
しかし殿下は俯いたまま動かない。
「あの……殿下?」
おそるおそるもう一度声を掛けると、殿下はがばっと天蓋の中まで身を乗り出し、毛布の上に出ていた私の両手を取って自らの両手で包み込んできた。
「ひゃあっ!?」
「どうしてこんな……無理をしたんだ……」
その勢いにこちらが驚いたことなど気にもしていない様子の殿下は、蚊の鳴くように小さく震えた声でそう呟いた。これまでに聞いたことのない、その悲し気な声にこちらも自然と胸が苦しくなる。
「私、倒れたのですね……」
「あぁ……医者は過労と寝不足だと言っていた。訓練や巡回だけでこうなるのはおかしいと思い両親を問い詰めてみれば、母上が白状したよ……」
私の手を包み込む殿下の手の力が少し強くなる。
「それでも何故、倒れるまで無理をしたんだ……そこまでする必要はなかったはずだ」
それは当然の疑問だった。多分王妃様もまさか私がここまでするとは思ってもみなかっただろう。
「……私のプライドです」
「プライド……?」
俯いていた殿下が眉を下げつつも不思議そうに顔を上げ、少し潤んだ青い瞳がこちらに向けられる。
「私は私の望むプロポーズをした相手の全てを受け入れる。――では、私はその相手を受け入れるに値する人間なのか……それが揺らいだせいでムキになっていたのです」
これまではどんな相手だろうと適応してみせるという根拠のない自信があった。しかし今回でそんなものだけでは王太子妃という特別な立場の前では充分ではないのだと思い知らされてしまった。
だからこの感情の実際の中身は「シャルロット殿下への反抗」ではなく、「不甲斐ない自分自身への焦り」だったのだと思う。
そう説明をすると殿下はこれまで私の手を包んでいた手を放し、息を吐きながら困ったようにこめかみ辺りを少し掻いた。
「君は自身の恋愛については確固たる信念を持っているからな……。君には珍しいが、まぁそういうこともあるのだろう」
その信念についてはある意味、殿下が一番身を以て知っていると言っても良いだろう。それが揺らいだことにも一応の理解は示してくれているようだ。
「大方シャルが君に何か余計なことを言ったのだろうが……プライドがあるとわかった上で敢えて言わせてもらおう」
私を真っすぐ見つめる殿下。その瞳はとても真剣だ。
「――それはただの独りよがりだ。出来ないことがあるからといって俺は君に落胆などしない。君がこうあるべきという理想の自分を追い求め過ぎているだけなのだ」
「……ッ」
『独りよがり』という言葉にぎゅっと胸が締め付けられる。確かにこれは私が勝手に設けたルールであって、そこには他人なんてものは何処にも存在していない。
それを真正面から突き付けられたショックで、つい殿下のその力強い視線から目を逸らしてしまう。
「もちろんプロポーズを受ける前からそのように未来に向けて努力してくれたことについては飛び上がりたい程に嬉しい。……だがそれは君の健康を犠牲にしてまで望むものではないのだ。この国の貴族の死亡理由の大半が何なのかは君も知っているだろう?」
「はい……」
私はすぐにビリー殿の奥様の話を思い浮かべた。最初はただの風邪だと思っていたら、そのまま帰らぬ人となってしまったと寂しそうに領主様が語っていたあの話を――。
「昨日まで元気だった人間が突然死ぬことだってある、そんな世の中だ。今朝君が倒れたと報告があった時には気が動転したよ。医者が休めば大丈夫だと言っていても、もしかしたらもう目覚めないのではないかと気が気ではなかったのだ。お願いだから、君はもっと自分の身体を大切にして欲しい。今の俺が君に望むことは……それだけだ」
「……畏まりました。ご心配をお掛けして申し訳ありません」
正直なところ、独りよがりと言われてしまったのはとても辛い。でもそれは私の身を案じて無理をさせないようにする為の言葉であるとわかれば、もうそこには感謝と申し訳なさしか残らなかった。
それだけ私はこの人に大切に想われているのだ。
その想いを私が裏切ってはいけない――――素直にそう思えた。
「ではゆっくり休んでくれ。安心したら俺もどっと眠気が襲ってきたよ……。それじゃあ、おやすみ……」
「おやすみなさいませ、殿下」
ドアが閉められ、部屋が途端に静かになる。ただ目を覚ましたとはいえベッドから動く気にはなれず、当然何もすることがない。
なので大人しく毛布に潜り直して目を閉じてみる。
起きてからのやり取りを振り返り、また殿下の最後の「おやすみ」という言葉にまで辿り着くと、ふとそれには聞き覚えがあることに気が付いた。
(そうか、あの声は殿下のものだったのね……)
きっと私は意識のないまま寝言のようにあの時考えていたことを口にしていたのだろう。それに横にいた殿下がまるで赤子を寝かしつけるように話しかけていたのが、あの時に聞こえた声だったのではないだろうか。
そんな情けない場面を傍で見られていたことが恥ずかしくて鼓動が速くなる。
それでも微睡の中でとても心を落ち着かせてくれたあの声を頭の中で反芻しているうちに、私はまたいつの間にか眠りについていた。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
翌朝いつも通りに目覚め、起き上がるなりマチルダに物凄い勢いで謝罪されてしまった。夜遅くまで勉強していたのを止めるべきだった、主の体調管理が出来なかった自分の責任だと。
私はあの時片意地になっていたのを素直に認め、逆にマチルダに心配を掛けたことを謝罪した。そしてもう無理はしないと約束する。
殿下から良い機会なのでどうせならと三日間の休みを言い渡された私は、大人しく眠ったり、負担にならない範囲で教科書を読んだりして過ごすことにした。
お昼休みの時間にはレベッカとミーティアがお見舞いとして果物を差し入れてくれたので、ありがたくお昼ご飯代わりにいただいた。
他にも流石に男性騎士は女性の部屋にはやって来なかったけれど、ハロルドなんかはお見舞いのメッセージをレベッカたちに伝言という形で届けてくれたりも。女性の扱いが上手なハロルドらしい。
そういえば殿下は男性なのに普通に私の部屋に居たのは、また職権乱用していたからなのだろうか……。
『……コンコン』
三時のおやつに取っておいたイチゴを頬張っているとノックの音がして、マチルダが少し困った様子でドアから顔を覗かせる。
「レオナ様、お休み中のところ申し訳ございません。シャルロット殿下がお見舞いに来られまして……」
思いも寄らない名前が飛び出して、私は慌てて食べていたイチゴを飲み込んだ。
「シャルロット殿下が……? でもほぼ治っているとはいえ病人の部屋にお入りいただくのは良くないだろうし、お気持ちだけ頂いておいた方が……」
「ワタクシもそう考えてお伝えしたのですが、どうしてもと仰っておられまして、どうしたものかと……」
だからそのような困った顔をしているのか。復帰後ではなくわざわざ今来てくださったのには何か理由があるのかもしれない。
「……じゃあ、少しだけなら」
「畏まりました」
マチルダが対応に戻り、ほどなくしてシャルロット殿下が寝室に入ってくる。
「無理を言ってごめんなさい。少し話をさせて貰っても良いかしら」
「え、えぇ……。このような格好でよろしければ……」
「承知の上よ、気にしなくて良いわ」
話とは一体何なのだろうか。ここ最近は挨拶以外に碌に会話がなかったのでまるで見当が付かない。そもそもお見舞いに来てくれるような仲ですらないはずなのに。
「『余計なことを言うな』ってお兄様から叱られてしまったわ」
ベッドの脇にある椅子に腰かけたシャルロット殿下はフゥと息を吐いた。「お前のせいで怒られたじゃないか」と責められているのだろうか……。
「情けない姿を晒していたのは事実ですので……私のせいで申し訳ございません」
「……いいえ。今思えば学園にも通っていなかったのに、よくわからないまま送り出されてきた相手に対する態度ではなかったわ、ごめんなさい」
そう言ってシャルロット殿下は目を伏せてしまった。どうやら謝罪に来てくれたようだ。
それにしても私は王族に謝らせてばかりな気がする……何故こうなってしまうのだろうか。
「私は気にしておりませんので大丈夫です」
まぁ全く気にしていないと言えば嘘になる。けれどクリストファー殿下からあそこまで言われてしまった以上はもう無理など出来るはずもない。
「それで、今日はどのようなご用件で?」
「貴女がどうして無茶をしたのか、『釣り合わないなんてことはあってはならない』とはどういう意味なのかを知りたいの」
シャルロット殿下からしてみればいきなり自滅した馬鹿な女にしか見えないだろうから、疑問に思ってしまうのはわかる。ただそれは今聞かなければならない程のものなのだろうか。
クリストファー殿下と違ってシャルロット殿下は私のことはあまり知らないようなので、とりあえず私の恋愛スタンスや将来の夢から今回のプライド云々までを順追って説明することにした。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
「つまらないプロポーズだとは思っていたけれど、貴女相手じゃ振られて当然ね……。それから考えれば今のお兄様は確かにだいぶマシになったと言えるかしら」
一通り説明を終えると、殿下はそう言って大きな溜め息を吐いた。何故か一回目のプロポーズの内容については把握しているようだ。普通クリストファー殿下は隠しそうなものだけれど、良く聞き出せたなと変に感心してしまう。
「貴女の拘りの強さも大概だけどね……。生きづらそうな性格をしているわ」
「あはは……あの時は殿下に比べてあまりにも情けない有様でしたので……。あれだけ勉強が出来るなんて流石は殿下ですね」
「別に……それくらいしかやることがないだけよ」
「やることがない、ですか?」
殿下は目線を下に向けたまま押し黙っている。
「……殿下。私のことをお話ししたのですから、私にも殿下のことをお聞かせ願えませんか?」
それには抵抗があるのか、中々返事は返ってこない。
これは駄目そうかなと諦めかけたその時――
「……そうね、いいわよ」
彼女は静かに口を開いた。
「私は学園に通った経験はありませんが、向こうでは勉強以外にもご友人と交流したりだとか色々あると思うのですが……?」
ブリジットの話では生徒会なんかも登場していたので、王族であれば会長・副会長のポストに当然のようにあてがわれそうなものだ。実際、クリストファー殿下は生徒会長だったらしいし。
「そこいらの貴族ならそうかもしれないわね。……でも私には意味がないから、その辺りは殆どエドに任せたわ」
「意味がない……ですか? それはどうしてでしょう?」
「私は卒業して成人式を迎えたらこの国を出るからよ」
「えぇっ!? 一体どちらへ?」
「リリアーナ王国。……向こうの王太子と結婚するために」
王太子との結婚だというのにシャルロット殿下は全く嬉しそうではない。
「どうせ国内の貴族とはもう殆ど会わなくなるのだから親しくしても意味がない。何か楽しい思い出を作ったところで辛くなるだけよ……」
これまで淡々と話してきたシャルロット殿下の、いつも冷静でちょっとおっかない表情が、ここにきて初めて弱々しいものに変わった。その顔にはハッキリと「寂しい」「不安だ」と書かれている。
「元々大して仲の良くない国の、数回会っただけの王太子と結婚するために、大好きな家族と離れて一生を過ごすなんて、お先真っ暗だわ……」
「殿下……」
「その点、貴女はいいわよね。生まれ育った国で、お兄様に誰よりも求められて、多少勉強が出来なくても大切にされながら暮らせるもの」
それでも殿下は嫉妬で私に辛く当たってきたりはしなかった。
きっとそれすらも無駄だからと諦めてしまっているから。
自らに与えられた役割の重さに、私よりも年下の可愛らしい少女の心が押し潰されようとしている。
周囲に味方がいない中での孤独。その辛さは前世の私も経験したから痛いほどわかる。
この世界でも既に何度も振り返った。どうすれば良かったのだろう、どうなっていればもっと変わっていただろうと。
そして導き出したひとつの答え。それが本当に正しいかなんてわからない。それでも目の前の不安に揺れる少女の力になりたい――そう思った。
「わかります」
「……貴女に何がわかるのよ」
「わかります!」
「っ!?」
私の語気に怯む殿下。そりゃそうだ、勝手に同情してきた女にいきなり声を荒らげて来られては困惑して当然だ。
「私は殿下の味方です。それを証明する為に、私の全てを知っていただこうと思います。今はこんな状態ですから、体調が戻るまでもう少しだけ待っていていただけますか?」
私の本気度が伝わるように、正面から真っすぐに殿下のその赤い瞳を見据える。こちらの突然の決意表明に少し狼狽えていた殿下はしばらくの沈黙の後、諦めたように息を吐いた。
「何なのよもう……。わかったわ、待っててあげる」
そう言って殿下は席を立った。
「邪魔したわね。……お大事に」
そしてそのままあっさりと出ていってしまった。
だけど少しだけ、その去り際の言葉が優しかったように思えた。
彼女も期待している――そんな気がした。
「さて……」
私はベッドから起き上がって机に向かう。勉強ではなく手紙を書くのだ。
全てを語ると腹を決めた今、聞いて欲しい人がもうひとりいるから。