09.初めての実戦
階段を降りて魔物の方へと近づいていくにつれ、こちらの手を引くブリジット様の足取りもより軽やかになっていく。
そうして目の前まで来てみると、その暗い緑色の巨体は遠くから見て想像していた以上に大きく感じられた。まるで山のようだ。
「本当に大きいですわね……。うっ、確かにちょっと嫌な臭いが……」
最初は感心したように眺めていたブリジット様もその腐敗臭に顔を顰めている。しかしその割に死体が綺麗なのがとても変な感じだ。
「ブリジット様、侯爵様に質問があるので少しこの場を離れても?」
「なら私もついて行きますわ!」
ブリジット様と一緒に少し離れた場所で見物人を嬉しそうに眺めている侯爵様の元へと向かう。近づいてくる私の姿を認めた侯爵様が、孫娘と一緒であることに気付いて優しい笑みを浮かべる。
「おぉ、レナ君か! ブリジットの相手をしてくれているのかい? すまないね」
私も微笑みながら会釈を返す。
「侯爵様、質問があるのですがよろしいでしょうか?」
「ほぅ? 一体何を聞きたいのかな?」
侯爵様は片方の眉を持ち上げて、何を言い出すのかと興味深そうにこちらを観察している。
「相応の臭いはしているのに、何故こんなにも見た目が綺麗なのですか? 先程のお話ですと戦っていたのですよね? その際の傷は何処に?」
私がそう尋ねると、侯爵様は良くぞ聞いてくれましたと言わんばかりに得意げに眉を持ち上げた。
「それはだね……死んでからすぐに治癒の魔法で傷を治しているからなのだよ!」
「死んでいるのに治癒の魔法、ですか?」
私がすぐに理解出来なかったことに喜びを一切隠さない侯爵様は、自信満々に説明を始めてくれる。
「そうだとも! 死んで身体が駄目になる前に魔法をかけて傷を塞いでやることで、このような綺麗な見た目の死体が出来上がるという訳だ。これが早すぎても遅すぎても駄目で難しくてね、特にちゃんと絶命しているか確認しないまま行ってしまうと、それはもう大変なことになってしまうのさ! ワッハッハッハ!」
侯爵様は豪快に笑い飛ばしているけれど、苦労して倒した相手がまた復活して大暴れしてしまうなんてたまったものじゃない。笑い事じゃないでしょうよ……。
「あはは、なるほど……」
「折角の大物の新種だ、皆様に楽しんでもらいたくて全力を尽くした結果なのだよ」
この世界にはゲームみたいに死んだものを生き返らせる蘇生の魔法は流石にないみたいなので、死んでしまったものに魔法を掛けるという発想がなかった。つくづく魔法は発想力が物を言う分野だと思い知らされる。
「勉強になりました。ありがとうございます、侯爵様」
「うむ、ゆっくり楽しんでいってくれたまえ!」
「あちらの頭の方も見てみましょう!」
侯爵様に頭を下げると、話が終わるのを今か今かと待ち構えていたブリジット様が私の手を取り、降りてきた時とは反対側の階段の方向へと引っ張り始めた。その有無を言わさぬ様子を見て侯爵様は苦笑いだ。
私もそれに苦笑いを返しながら、そのままブリジット様に引かれて移動していく。
顔は顔で迫力のある牙や角が生えていて、とても興味深い。そうやってしばらく二人で眺めつつ盛り上がっていると、後ろの階段から複数の足音が聞こえてきた。
横目でさりげなく振り向いて見てみると、その足音の出どころは王太子御一行様のものだった。隣にはさきほど挨拶をしたバーグマン伯爵領の西隣、レイドス辺境伯の三男坊であるウィリアム様もいる。色黒で王太子様よりも身体が大きい、ダークブルーの髪に黒い瞳の少年だ。私とブリジット様が一緒にいるように、きっと同年代の男の子同士で気が合うのだろう。
殿下の手振りで文官たちは侯爵様の元へと歩いていく。あまりじろじろ見るのは失礼だと思い、それを最後にまた魔物に視線を戻した。
「君たちもここまで降りてきていたのか」
するとなんと王太子様が近づいてきてこちらに話しかけてきたではないか。挨拶の時は良くわからない反応をされたのもあって、まさか話しかけてくるとは思っていなかったので私も少し面食らってしまう。
「はい、遠くで見ているだけではつまらないので。殿下は公務のためなのですよね?」
「一応名目上は視察なのだが……仕事の大半は部下がやることになっているから、それが終わるのをただ待っているだけだな」
そう言いながら殿下は侯爵様と話し合いをしている文官たちの方を向くが、それもすぐにやめて目の前の大きな魔物を見上げた。
「ならばせめて自分がいつか戦うかもしれない相手を間近で観察でもした方が有意義というものだろう」
魔物を見上げる王太子様のその横顔はとても苦々しい。ただそれは単に仕事を任せてもらえない不満から出たもののようには何故か見えなかった。
「殿下は学園を卒業後は騎士団に入られるのですよね? このような魔物とも戦うとなると大変ですわね……」
「強くなって父上の後を継ぎ、国を豊かにし、それを守ることこそが王家に生まれた者としての責務だからな」
当然のように王位継承関連の知識も頭に入っているブリジット様に王家の責務を語る王太子様。しかしその表情はとても淡々としていて、それを誇っていたり、こちらにまで熱意が伝わってくるような前向きなものには感じられなかった。
だからだろうか、一見王太子として立派に役目を果たそうとしている姿勢が伝わる素敵なお言葉でありながら、私にはその役目を果たしたくなくて無理矢理自分にそう言い聞かせているように聞こえた。
それは嫌なものから逃げ、自分を守るための耳触りの良い嘘――。
(王太子様も本当は嫌だったりするのかな……)
もし本当にそうだとしても、私は軽蔑なんてしない。生まれながらにその立場に責任が付き纏う王太子なんて、見えないところで苦労しているに決まっているのだから。
私だって前世では男性と関わると碌なことが起こらなかったので、よく適当な嘘で逃げていたものだ。中学生の私が同級生の女の子からカラオケを誘われた時に、男子がいるから行きたくなくて、家事と弟の世話を理由に断ったりとか。
そうやって断るのも結構頻繁だったせいで、既に相手には嘘だとバレていたように思う。嘘を咎めてはこなかったけれど、ちょろっと皮肉を言われるぐらいはされていた。
(あの時はこう言われたんだっけ……)
「――真面目ね」
頭の中で思い出していただけのはずなのに口に出ていたことに私自身驚いた。どこから目線だよと言わんばかりのそれは明らかに失言だった。
「君たちのようにいつも遊んではいられないのだ」
これには王太子様にも嫌な顔をされ、睨み付けられてしまう。そりゃそうだ。殿下の向こう側に立つウィリアム様も顔を顰めているし、隣のブリジット様も気まずそうにしている。私のせいで何ともいえない空気にこの場が包まれてしまった。
(やば……ムキになってるあたり嫌がってるのは本当だったみたい……。王太子相手に喧嘩する訳にもいかないし、どうしよ――)
『ガシャアアアアン』
(――――ッ!?)
すると突然、対応に悩む私の思考を掻き消すようにガラスの割れる音が中庭に響き渡った。
音がした方向を振り返り、西側の二階を見ると、黒い何かが窓を通って中庭の上空に溜まってきていた。その何かは良く見ると大きな一つの塊ではなくて、小さな物体の集合体のようだ。
「あれは……フォレストバットか!? それにしてもあの数は……!」
横に立つ王太子様が驚きの声をあげる。
フォレストバット――名前の通り普段は森に潜んでいる、体長二十センチ程の蝙蝠型の魔物だ。魔物なので当然人間に対して明確な敵意を持っており、その発達した牙で噛みついてくるらしい。
無数のフォレストバットが今、大きな黒い塊となって私たちの頭上に集まっている。
その塊の表面だけでなく、羽ばたく音までもが荒波のようにうねりをあげており、キィキィという甲高い鳴き声が絶え間なく地上の招待客に降り注いで皆の話し声を掻き消してしまっている。
次の瞬間――その塊から黒い帯のようなものがこちらに向かって伸びてきた。フォレストバットが密に連なりながら眼下の人間に向けて突撃し始めたのだ。
「危ないっ!」
私は咄嗟に右側にいた王太子様を突き飛ばし、左側にいたブリジット様の頭を守るように抱えて飛んだ。
「きゃあっ!?」
「なっ!?」
突き飛ばされた王太子様は尻餅をついてこちらを睨んできたけれど、その視線は私たちの元居た場所を黒い帯が猛スピードで通過していったことで遮られる。
(考えろ……この状況で私はどこまで手を出していいのか)
フォレストバットと戦った経験なんて一度もないけれど、一匹一匹は特に強くもない……というか弱い部類の魔物だとホルガー先生から授業で教わっている。とはいえ流石にあれだけ一度に沢山から攻撃を受ければタダでは済まないだろう。
今回は数がとてつもなく多いので厄介ではあるけれど、上空に塊となって密集しているのであれば、恐らく今でも最大出力で規模の大きい魔法を連発すれば倒すこと自体は出来ると思う。
しかしそれでは言い訳のしようがないほどに目立ってしまう。もう魔力量を隠して生きていくどころの話ではなくなるのは火を見るより明らかである。
それなら逆にただ回避に専念しているだけだとどうなるか。
この場にいる招待客は皆貴族なのだから魔法の心得はあるだろうし、警備の人間だって集まってくるだろうから、時間を掛ければ問題なく倒せるはずだ。
ただ数が数なので負傷者は相応に出てしまいそうではある。お父様やお母様だって絶対に大丈夫だとは言い切れない。二人に怪我をさせるなんてもっての外だ。
そうやって思考を巡らせている間もフォレストバットの大群はその動きを止めない。今度はちゃんと身体強化と視力強化の魔法を使い、ブリジット様を抱き上げて襲い来る黒い帯を回避していく。
「レ、レナさん……」
「大丈夫だから。絶対に守るから安心して」
私の腕の中で怯えるブリジット様を励ます。どう対応するか攻撃を避けながら考えているせいで口調にまで気が回ってないのは御愛嬌だ。
周囲には既に悲鳴と怒号で溢れかえっている。考え事に集中するには良い環境とは言えないけれど、我儘を言ってはいられない。
両親の安全を考えると周りが倒し終えるのをただ待つのは避けたい。でも倒してしまうのはまずい。誰がやったのかとすぐその場で犯人捜しが始まってしまう。
――だから無力化するだけ。
皆がトドメを刺すのに夢中になっている間に逃げるなり、誤魔化すなり出来るはずだ。後はそれを目立たないように実行すればいい。
方針を決定し、大群を無力化するために使う魔法も決めた。
「――ブリジット様」
「……え?」
「これから私がすることを皆に内緒にすると誓っていただけますか?」
あとは私のすぐ傍にいるこの子の口止めだ。
気絶させたり出来れば良いのだけれど、一切痛めつけずに気を失わせるような手段は生憎持ち合わせていない。漫画なら首筋をトンッとやれば済ませられるのはずるい。
「い、いったい何を……」
ブリジット様は戸惑いながら尋ねてくるけれど、誓ってもらう前にそれは答えられない。
私は襲い来る黒い帯を避けながら、じっとブリジット様を見つめ返す。
「悪いことをするのではないのですよね?」
黙って頷く。
「……わかりました。もう既に何度も助けてもらっているのです、これからすることを知られるのが貴女にとって都合が悪いのであれば私も口を噤みましょう」
そう答えるブリジット様は、もう先程までの恐怖に怯えていた少女ではなくなっていた。確かな気品と強い意志をその瞳に宿したルデン侯爵令嬢がここにいる。
「……畏れ入ります」
ブリジット様を地面に下ろして庇うように背に隠し、右手に風をイメージした魔力を作り出す。
上空を見上げると、今まさにこちらに向かって黒い帯が伸びる瞬間だった。
物凄い勢いでこちらに迫りくるフォレストバット。それがこちらに届くより先に、作り出した風の魔力を両手で支えるように前にかざす。
『旋風』
私たちを覆うように球形の風の壁を作り上げる。そこにフォレストバットが次々と突撃してくる。
『ドガガガガガガガ――』
「きゃあっ!?」
ブリジット様がその勢いに小さな悲鳴を上げるが、おびただしい数のフォレストバットは全て風に弾かれて宙に放り出され、その衝撃で羽ばたくことも出来ずに落下していく――。
私はその隙に視力強化を使って中庭で戦う周囲の人々の様子を観察する。
大抵は三人から五人くらいの集団に分かれて応戦しているようだ。王太子様はウィリアム様と一緒に戦っているし、候爵様は衛兵に囲まれながら、その内の一人におんぶされている。
探すのはこれから上空から黒い帯に襲われようとしている集団。そして右前方、約十メートル先の集団が上空を睨み、蝙蝠たちを待ち構えているのを発見する。
私はすぐさま次の魔法の準備をする。
左足を一歩踏み出して左半身を前にして目の前で両手を合わせ、稲妻をイメージした魔力を作り出す。合わせた手を離せば、両手の間にバチバチと音を立てる青白い電気が走る。
それを握り込み、脚を広げ、右膝を曲げて姿勢を低くしながら弓のように引き絞っていく。とてもドレス姿の貴族令嬢が取るような格好ではないが、今はそんなことはどうでもいい。
最初の状態から右斜め前方を向き、左半身を前にしているので視界の端には背後にしゃがんでいたブリジット様の顔が映っている。しかしその表情まではわからない。それくらいに目の前の集団の一点に集中する。
見つめるのは黒い帯が急降下し、そして再び上空へと高度を上げる折り返し地点。
狙うのはその黒い帯の最後尾付近。
人に見つからないよう低く、速く――――。
(……ここだ!)
『伝播する稲妻』
一筋の青白い稲妻の矢が撃ち出される。
そしてそれは風の壁に弾かれ落下していくフォレストバットたちの隙間を通って、脅威に対処する為に上空を見上げる者たちの間を縫うように地面スレスレを飛んでいく。
『ピギィィィィ!!!!』
そしてそれが狙い通りに上昇をし始めた黒い帯の最後尾付近に着弾した瞬間――フォレストバットが青白い光と共に大きな鳴き声をあげた。
一匹鳴いたすぐ横でもう一匹、更にもう一匹……次々とその雷が別のフォレストバットを狙う。黒い帯のその末端から青白い光が走り、光が通過した端から帯が崩れて落下していく。
光はどんどん帯の先頭を追いかけていき、そして遂に帯の先頭が繋がっている上空の黒い塊へと到達した。それは瞬く間に黒い塊を侵食し、中庭にけたたましい鳴き声と共に黒い蝙蝠の雨を降らせ始める。
私はこの不潔な雨を回避すべく早々にブリジット様を抱えて中庭に面した屋内に逃げ込んだ。
「まだ生きてるぞ! また動きだす前にトドメを刺していけ!」
ただ無力化されただけで死んではいないことに誰かが気付いて、周りに呼び掛ける声が聞こえる。
周囲も魔法を使って戦っている中であれば風の壁程度であれば特に目立ちもしないだろうし、壁の中から『伝播する稲妻』を放つ様子は外からでは見えないはずだ。
これならブリジット様が約束さえ守ってくれればバレることはまずないだろう。
「すごい……こんなにあっという間に……」
ブリジット様は呆然としながら外を眺めている。
しばらくすると突然ハッとしてこちらに向き直った。
「レナさん、私を守ってくださって本当にありがとうございます」
「私に出来ることをしたまでです。先程の約束を守っていただければそれで充分です」
しかしブリジット様は首をぶんぶんと横に振る。
「そうはいきません! ここで何もせずに帰してしまうなど侯爵家の名折れです。何でも構いませんから、お礼をさせてくださいませ」
……とても真剣な眼差しだ。きっとこれは断ると逆に失礼なのだろう。
「では――イチゴのタルトが食べたいです。この騒動でお料理を食べそびれてしまったので……」
『ぐぅぅぅぅ……』
そんな切実なお願いを口にした途端、またお腹が飯はまだかと訴えてきた。実は挨拶ばかりで碌に食べるタイミングがなく、戦っている間もずっとお腹が鳴っていたのだ。
羞恥に頬を染める私を見てブリジット様はズルッとずっこけた。