70.追憶(クリストファー視点)
その日の晩、薄暗い自室のソファーでハロルドに言われた言葉について考えていた。
俺は伯爵令嬢のレナ・クローヴェルに一目惚れをしただけで、今の女男爵でありS級ハンターでもあるレオナ・クローヴェルを好いてはいないという。
そんなはずはない、彼女を前にすると胸が高鳴るのは気のせいなどではない。しかし、それ以上を上手く説明する言葉を持ち合わせていない。
「好意の言語化か……」
そうハロルドが言っていた。俺にはそれが足りていないと。足りていないのにも関わらずそれを補おうとしないのは、そもそも彼女への関心が薄いからだと。
「……なら試しにやってみるしかないな」
一目惚れしたタイミングは初めての挨拶の時で間違いない。あの時の彼女の姿は今でも鮮明に思い出せるほどだ。
当時の俺とほぼ同じ身長、艶のある肩より少し長いホワイトブロンドの髪、キリッとした切れ長の目に、長い睫毛、吸い込まれそうな深い赤の瞳、微笑むピンクの唇、そんな彼女をより清らかに魅せる空色のドレス。
美人で有名だった彼女の母親から受け継いだ、既に子供とは思えないその美貌。
――では俺はそんな昔の彼女のどこに惚れたのか。
それらを備えた一見冷たい印象を受けるような彼女が優しく、柔らかく微笑んだあの笑顔に惚れたのだ。
直後にきょとんとしてみたり、ブリジットを庇いつつ凛々しい顔で上空を睨んでいたりと、それからも彼女は様々な表情を見せてくれて、どれも魅力的に思えたものだ。
「こうしてみると、記憶といっても彼女の外見や表情に関するものばかりだな……。一目惚れ自体が直感的なものだし、当時はあの一日しか会っていないのだから仕方ないのかもしれないが、これは……」
意気込みに反して、言語化出来た彼女の好きな所の数は少ない。
一目惚れをしたと自信を持っていた昔ですらこれだ。今の彼女のどこが好きなのかを考えるのが怖くなってきた。不甲斐ない現実を俺自らが突きつけてしまうことになるかもしれない。
「だが、やるしかない……!」
意を決して、今の彼女を頭の中に思い浮かべる。
成長した彼女はその凛とした佇まいに磨きがかかり、相変わらずその涼しげな表情と、吸い込まれそうな赤い瞳はため息が出るほどに美しい。
こと戦闘においては凄まじい瞬発力を見せ、まるで猫のようなしなやかな動きをする。細身でありながら的確に急所を突く力強さも兼ね備えていて、先の表情と合わせて訓練場で騎士たちの相手をしている姿はとても美しい。
それでいてその肢体には女性的な魅力に溢れている。あれだけ鍛えているにもかかわらず、男の俺とはまるで比較にならないほど柔らかく、いい匂いがするのだ。もはや反則ではないだろうか。あの夜景を見た日など刺激が強すぎて平静を保つのに本当に苦労したくらいだ。
レベッカやミーティア、ブリジットと話す際には気安さが前面に出ていて、とても無邪気に笑いかける様子も時折見られる。その笑顔もとても魅力的だ。しかし俺に対してはまだそのような表情を向けてはくれない、王太子に対するものの域を出ていないのだ。それが残念でならない。
「なんだか先程とあまり代わり映えがしないな……。やはり外見や表情、動作についてばかりだ」
ここでひとつ疑問が浮かぶ。
「……そもそも内面を好きになるというのは、どう言葉にすれば良い?」
例えばよくある「優しい人柄」といっても、状況や視点が違えばいくらでも受け取る印象は違ってくる。
ある貴族の父親が子供を溺愛する傍らで、領民から税を過剰に毟り取っていたとして、子供から見れば優しい父親かもしれないが、領民からすれば非情な人間に映っていることだろう。自分から見て優しければそれで良いのかと言われると俺は首を傾げてしまう。
こんなものはただの一例に過ぎない。それでも誰から見ても好意的な行いだけを一貫して続けて居られるほど人生というものは甘くはない。
一度悩みだすと、思考が同じ場所をぐるぐると巡り始める。そうしているうちに、もう「好き」という感情すらも曖昧になり、よくわからなくなってきた。
「俺にとって……彼女という存在は一体何なのだろうか……」
その答えを持っていないことが、どうしようもなく歯痒い。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
二週間程経ったある日、とある報せが俺の元へ舞い込んできた。来月の今頃にブリジットが夜会を開くというのだ。
俺は呼ばれておらず、特務の部下たちが話していたのを偶然耳にして判明した。そもそも王族を夜会に呼ぶのが一般的かと言われるとそれは違うだろうが、ひとまず問題はそこではない。
結婚したばかりである彼女がわざわざ主催する意図など明白だ。クローヴェル卿に未来の夫を探させるつもりなのだろう。
タイミング的にどう考えてもブリジットは俺が玉砕したことを知っている。つまりこれまでは一応俺に遠慮してくれていたということであり、その必要も無くなったと判断し、動き出したということである。
彼女がクローヴェル卿の味方であるのは最早疑いようもない。敵と呼ぶのは流石に大げさだが、優秀な反面、見限られてしまえばこれほど厄介な相手も中々いないだろう。
たった一度の夜会でクローヴェル卿が相手を見つけてしまう可能性だって充分有り得る。口で説明こそ出来ないが、あれほど魅力的な女性なのだから言い寄る男性は後を絶たないはずだ。
思わず沢山の男性に囲まれ、その内の一人の男の手を取る彼女の姿を想像してしまう。
その瞬間、胸がぎゅっと押し潰されるような息苦しさを覚え、そのままどんどん呼吸が浅くなり、頭がクラクラしてくる。
たまらず座っていたソファーの横の空いたスペースに倒れ込んだ。
(ダメだ……。そのような現実、到底耐えられそうにない……)
彼女が自分以外の者と結婚するところを想像するだけでこんなにも辛くなるのであれば、これはもう俺は今も彼女が好きなのだと考えて良いのではないか。それでは駄目なのだろうか。
一目惚れがどうとか、そういうものは一旦忘れてしまおう。俺は彼女が好きだという前提のもと、俺の気持ちを伝える為の言葉、彼女が望み喜んでくれる言葉だけを考えるべきではないか。
「……ッ! そうか……そういうことか……!」
気持ちが上向いて頭の働きがマシになったお陰か、それとも過去の想いを捨て去ったお陰なのかはわからないが、俺は気付いてしまった。
クローヴェル卿のことを何も知らないという事実に。
喜んでくれる言葉どころか好きな食べ物すら知らない。誰とどのような会話を好むのか、ハンターとして実際にどのような活動をしているのか、休日には何をするのか、趣味は何なのか、どれも俺は知らない。
「結局ハロルドの言っていた通りだったな……」
過去の気持ちだけで満足し、今の彼女を見てはいなかった。これでは不誠実と言われても仕方ない。
――だがそれも今この時で終わりだ。
今後の方針は決まった。やらなければならないことは山積みだが、それが彼女をより深く理解し、愛することに繋がるのだと思えば何も苦痛など感じなかった。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
そして俺は今、夜会の会場の片隅に居る。ブリジットに頼み込んでこの場所に隠れさせてもらったのだ。
最初は「王太子が何を馬鹿なことを」と呆れられたが、まだ彼女と顔を合わせるのは気が引けるのと、相手探しの邪魔をする気はないことを強調して何とか認めてもらうことが出来た。
彼女に借りを作ると後が怖いのだが、今の俺にはそもそも後がないのだから、そのようなことを言っている場合ではない。
仕事のために衝立の中に入ってくる使用人たちはさぞ居心地が悪いだろうが、こちらも必死なので敢えて気にしないようにしている。
開始の時間となり、続々と参加者が会場に入ってくるのを衝立の隙間から眺める。当たり前だが皆知っている顔ばかりだ。レベッカとミーティアの姿もあった。
(いずれ彼女たちにも謝らないとな……)
彼女たちも不誠実な俺の被害者なのだからそれは当然のことだ。ただそれには今しばらく時間が欲しい。自分でも勝手だとは思うが、あまりにも余裕が無いのだ。
そう心の中で謝罪していると、ブリジットに連れられて遂に彼女が姿を現した。
(おぉ……美しい……)
初めて見る今の彼女のドレス姿。『いばら姫』をイメージしたであろうそれは、華やかな彼女の魅力を実に見事に引き立てていた。
レベッカとミーティアが彼女に近づき、ドレスを見て三人で微笑み合っている。その様子だけでもとても画になる美しさだった。
(くそ……俺ももっと近くで見たい……)
それが叶わないことだとわかっているので、衝立の隙間から視力強化をして我慢する。
きっと今の俺はとんでもなくみっともない姿を晒しているだろう。王太子が衝立に中腰で張り付いて、その向こう側を魔法を使ってまでして覗いているのだから。
だがこの程度で引く俺ではない。
そんな中、彼女たちに近づく一組の男性グループが目に入った。あれは確かブライアン・エリザス子爵令息、ショーン・ネーヴィッツ男爵令息、ビリー・レガント伯爵令息か。
(バーグマン領の人間が揃い踏みだが、彼女と面識はあるのか……?)
俺は聴力強化も併用して彼らの会話に耳を傾ける。
「見ない顔だね? こんなに美人な女性と会っていたら覚えていないはずがないんだけどな……」
ブライアンが開口一番で俺にはとても言えないような台詞を言ってのける。だがどうやら面識はないようで少しほっとする。そういえば昔も他の貴族には殆ど知り合いがおらず、ブリジットが「自分が数少ない親友だ」と自慢していたのを思い出した。
彼女が名乗り、前領主の家名と同じことを彼らが怪訝に思うところまでは予想通りである。彼女の存在を隠しこそしなくなったが、その正体まで正確に把握している者はまだこの場にはそう多くないはずだ。
「なんだ、つまり元は平民か。わかるわけないよな。悩んで損したぜ」
そこまでは良かったのだが、彼女が過去ではなく今の立場を説明した途端、彼らはその態度を豹変させる。
「まぁ元平民でも見た目は良いし、一晩遊んでやるくらいなら構わないぜ?」
「愛人としてなら歓迎してやるよ!」
その言葉からは平民への敬意などは欠片も感じられず、ただただ見下していることしか伝わってこない。我ら貴族の暮らしは民からの税金で支えられており、彼らを守ることこそが貴族の責務であるというのに。
(しかもそのような品の無い視線で彼女を見るなど……!)
貴族としての矜持の無さと彼女への侮辱、二つの意味で怒りが込み上げてくる。いや、ビリー・レガント伯爵令息が止めに入らないことも含めて三つだ。
レベッカとミーティアが彼らを睨みつけているなか、彼女は困り顔だった。それもそうだ。いくら強く、美しくとも、このような状況を穏便にやり過ごすのは難しいだろう。
(ここはやはり俺が……!)
そう決意して立ち上がったところで突然会場の扉が勢いよく開く音がした。
驚いて別の隙間から入り口の扉の方を確認すると、見覚えのある巨漢、ラディウス・カーディルが入って来ていた。ウェスター騎士団の団長であり、以前彼女にプロポーズをしたという男だ。
(あの男までここに……!?)
俺の心がまた焦りに波打ち出したのをはっきりと感じた。




