61.大好きなあの人(ブリジット・グラハム視点)
結婚披露宴の薄暗い会場の中、余興の歌の歌い手に招待客の視線が集まっている隙を見計らって、そっと息を吐いた。
「……もう疲れたのか?」
隣に座る夫がすかさず小声で話し掛けてくる。しかしこちらを見つめるワインレッドの瞳は気遣ってくれるような優しいものではなく、挑発するかのようなとても挑戦的なものだ。
「いいえ、問題ありません」
「そう言うと思ったよ」
そう返事をしてみせれば、彼は嬉しそうに頷いた。
この人はいつもそうだ。貴族として常に気高くあろうとしている私を見ているのが大好きで、しかもそれが崩れる様を心待ちにしているという困った人。
それは本人の意地悪な性格であると同時に、信頼の裏返しでもあるので別に構わない。実際この程度でへこたれる私ではない。
では何故、彼に表面上だけでも心配されてしまうようなことになってしまったのか。
それは彼女――レナさんを思い浮かべてしまったから。
彼女のお陰でここまで来れたというのに、ここに彼女の姿がないことが酷く虚しくて、つい溜め息が出てしまった。我ながら不覚である。
彼女が遺してくれた言葉を支えにしてやってきたからこそ、周囲から『女傑』と呼ばれ、パトリック様にプロポーズされるにまで至ったというのに、直接お礼のひとつも言えない。それがたまらなく辛い。
もちろん結婚したからといってこれで終わりではない、むしろこれからが本番なのだ。次期公爵夫人としてグラハム家を支えていかなければならないのだから、もう悲しんでいられる暇などない。
(だから今日で最後にしないと……)
歌が終わり、拍手が会場内に響いたことにはっとした私は、また表情を引き締めて姿勢を正した。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
披露宴は無事に終わり、朝早くから重要なイベント続きだった状況から解放され、ようやく肩の荷が下りた気分だ。
殿下と夫と三人で今後ともよろしくと挨拶を交わしたところで突然、殿下がパトリック様に手招きをしたかと思えば、何やら耳打ちをしだした。しかもパトリック様は随分と楽しそうに頷いている。
(一体何を話しているのかしら……)
聴力強化を使って聞き耳を立てたいところだけれど、目の前で行われる耳打ちを盗み聞く行為は失礼にあたる。本当に聞かれては不味い会話はそもそもこのような形ではしないものとはいえ、信頼の上で成り立っている行為なので、これを私が無視するわけにもいかない。
「ブリジット、悪いがクリスと男同士でまだ話がある。先に部屋に戻って着替えてから、このような部屋ではなく、ちゃんとした場所でゆっくり話が出来るよう準備を頼みたい」
目の前の二人だけが楽しげで蚊帳の外にされている今の状況に不満を抱いていると、パトリック様が更に追い打ちをかけてくる。
「あら、私は仲間外れですか?」
その露骨な厄介払いに、つい二人を睨む目に力が入る。いくら拒む気はなくとも、せめて気持ちくらいは表明しておかなければ気が済まない。
「すまない。後できちんと話すし、君もきっと喜んでくれるはずだから」
(私も……?)
パトリック様なら贈り物などがあれば間違いなく周囲へのアピールも兼ねて披露宴中に贈ってくれるはずだ。全て終わったこのタイミングで一体何があるというのだろうか。
「……わかりました」
それが一体何なのか皆目見当も付かないけれど、後で教えると言っているのだからとりあえずこの場はこれ以上ごねずに大人しく引き下がるとしよう。現状の不満はひとまず手近な殿下にぶつけておけば良い。
こちらの八つ当たりを受けて若干引き攣った殿下の顔を見ていくらか溜飲を下げ、私はパトリック様の言う通りに準備のために席を立った。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
使用人たちに指示を出してから自室に戻ってきた私は、披露宴用のドレスから人前に出られる範囲で楽な格好へと着替えていく。
「いくら王太子様が相手といえど、結婚したばかりの妻を置いて殿方だけで盛り上がるというのはいかがなものでしょう……」
「王太子様には早くお帰りいただいて、夫婦の時間を優先すべきですよねぇ……」
それを手伝うネフラン家から連れてきた侍女たちがパトリック様の行動に苦言を呈している。
「そう言わないの。パトリック様のことだから何か考えあってのことよ。それに殿下もそれにすら気が回らないほど野暮な男ではないわ」
「そうでしょうか……。結婚した途端に豹変する殿方もいると聞きますし、もしそうであれば私共はこの命を擲ってでも若奥様をお守り致しますわ……!」
心配してくれている、その気持ちは素直にありがたい。ただこのままだと妄想が膨らみすぎて、逆に変なことをしでかさないか心配になってくる……。
「……まぁ最終的にどうするかはパトリック様の言っていた『私の喜ぶもの』次第かしらね。碌でもないものであればお義母様に言いつけてやるわ」
公爵夫人である義母のヴィクトリア様は優しく面白いお方で、私もとても良くしていただいている。王妃陛下の親友であると公言されているお義母様には流石のパトリック様も頭が上がらないのだ。
「それがよろしいかと!」
これには侍女たちも笑って同意してくれる。
『バタバタバタバタ』
「……あら?」
「何かしら……やけに騒がしいわね……」
少しゆっくりしてしまったが着替えも終わり、応接室の準備のために戻ろうと思ったところで、突然廊下から大勢の忙しない足音が聞こえてきた。
片付けのために侍女たちの殆どが傍を離れていたので、私の隣に居て唯一手が空いていた侍女頭が確認のために扉に近づいていく。
『バタンッ!』
「ひゃあっ!?」
彼女がドアノブに手を掛けようとした瞬間、勢いよく外から扉が開かれ、黒ずくめの集団が部屋に押し入ってきた。それらは瞬く間に部屋中に広がっていき、扉を開けようとしていた彼女はもちろん、他の侍女たちも成す術もなく捕らえられ、拘束されてしまった。
「何者です!? ここが何処だかわかっているの!?」
取り囲んできた集団に問いかける。しかしそれに答える者はおらず、ただ静かに包囲してくるだけだった。
それが逆に不気味に感じて相手を睨み付けながら密かに身震いする。
「危ない危ない……何とか間に合ったようだ。奴の手垢が付いてしまっては台無しだからな……」
すると遅れて一人の男が部屋に入ってきた。その男はマントこそ他と同じ黒のものをつけているがフードは被っておらず、その顔には見覚えのある気持ちの悪い笑みを浮かべていた。
「お前は……ッ!」
「やぁ、愛しのブリジット。迎えに来たよ」
その男はロートレック子爵令息。学生時代に全く相手にしていないにも関わらず、何度も私に迫ってきていた身の程知らずだ。
卒業してそれらはパタリと収まったのでいい加減諦めたと思っていたのに、まさかこのような強硬手段に出てくるとは……。こんなことなら多少大人気なくとも在学中に侯爵家の力を使って上から押さえつけておけばよかった。
「君も強情だね。僕は家族にも知られないように水面下で君との結婚の準備を進めていたというのに、まさか奴と結婚して俺への気持ちを無理矢理諦めようとしてしまうだなんて……。待たせてすまなかったと思っているよ」
馴れ馴れしいのは学園の頃から変わっていないのでこの際どうでも良い。それにしてもこいつは一体何を言っているのだろうか。こちらを向いて話しているが、内容はとてもじゃないが私に向けているものとは思えない。そのあまりに独りよがりで自己中心的な思考のおぞましさに鳥肌が立つ。自分にとって全て都合の良いように捉えられるなんて、さぞかしこの男の人生は幸せで溢れていることだろう。
だが弱気になってはいられない、それではパトリック様に笑われてしまう。グラハム家の一員として堂々たる振る舞いをしなければ。
私は震えそうになる身体にぐっと力を入れて声を張り上げる。
「何を自分勝手につらつらと! 礼節どころか常識すら弁えられない男など、こちらから願い下げよ! ネフラン家とグラハム家、その両方を敵に回したことを後悔させてやるわ!」
「あぁもう強情だなぁ……。そんな君には少々乱暴にでも理解してもらうしかないか」
私が徹底的に抗う姿勢を見せると、奴は苛立ちの混じった溜め息を吐いた。
「――捕えろ。我が屋敷の地下にお連れするのだ」
これまでと違う低い声で黒ずくめたちに指示を出すロートレック子爵令息。
すぐさま男たちが襲い掛かってくる。
「――ッ!!」
私は常に身に付けている守りの魔道具に魔力を込め、風の壁を作りだして男たちの接近を拒む。弾かれて体勢を崩した者たちは最初こそ驚いたようだが、すぐに冷静さを取り戻してじりじりと風の壁を取り囲んでくる。
「チッ、往生際の悪い……。だが魔道具に頼っているということは、己の力だけでは大したことは出来ないと言っているようなもの、攻め続ければ魔力切れで大人しくなる。多少は強く攻撃しても構わん、やれ!」
(パトリック様たちが異変に気付くまで耐えなくては……! お父様、お母様、どうか力をお貸し下さい……!)
続く攻撃に備えて、ぎゅっと目を閉じて魔道具に魔力を込める。
「どっけえええええっ!」
「ぐわっ!?」
「何だ!?」
すると扉の方向から何かが咆哮を上げながら黒づくめの集団を押しのけて突っ込んできた。しかもそれは風の壁をも突き破り、掻き消して、私のすぐ足元に滑り込んでくるではないか。
そのあまりのスピードに、それが殿下が連れてきた特務騎士団のあの仮面を付けた女性騎士であったことに気付くのに時間が掛かってしまう。
「貴女……っ!?」
彼女は驚愕する私に構わず立ち上がり、部屋を見渡して状況を確認しながら、さりげなく私をその半身で隠すように前に出る。
「ロートレック子爵令息、何故ここにいる? 貴様は今、何をしているのか理解しているのか?」
披露宴前のやり取りの時とは全く違う低くて冷たい声。彼女の問いかけには奴に対する明確な敵意が籠められていた。
そんな彼女が背筋を伸ばし、その身で私を庇おうとしているその様はとても同じ女性とは思えないほどに勇ましく、独りで心細かった私にとてつもない安心感をもたらしてくれている。
「邪魔をするな! ブリジットは僕が妻として貰い受けるのだ!」
「……ふん、身の程を知らぬ愚か者が。父親と同じく屋敷で縮こまっていれば良いものを」
「やかましい! あんな根性無しと一緒にするな! お前たち、あの女を殺せ!」
ロートレック子爵令息が激昂し、男たちをけしかけてくる。
いくら挨拶の際に騎士団一の実力者と聞かされているとはいえ、相手は十人以上いるのだ、流石に彼女一人では多勢に無勢なのではと頭によぎり、思わず身体が強張ってしまう。
すると彼女はこちらの不安を察してか、優しく私の腰に腕を回して抱き寄せた。こんな危機的な状況でありながら、まるでダンスで殿方がこちらをリードするかのような気遣いを含んだ動きに内心ドキりとする。
「……大丈夫よ。絶対に守るから安心して」
そして前を見据えたまま、耳元でそう囁いた。同時にふわりと薔薇の香りが漂ってくる――。
「……ッ!?」
聞き覚えのある台詞――そう、忘れもしない。あの日、あの人が今のように私を外敵から庇いながら安心させようと囁いたのとまったく同じもの。
あまりにも状況が似すぎているせいで私の中にひとつの希望が芽生えてしまう。しかしそんなはずはない、有り得ないと必死にそれを振り払う。
「やれーっ!!」
そんな私の混乱などお構いなしに、奴らは一斉に様々な魔法を放ってきた。
『旋風』
しかしそれらは彼女がまるで蒲公英の綿毛を飛ばすかのように軽く吹きつけた息で作られた風の壁に全て遮られてしまう。そんな簡単な動作だけで私の魔道具以上の壁を作り上げたのだ。
これにはどよめく男たち。
しかしその壁は何故か攻撃を防ぐだけ防いですぐに消え失せてしまう。てっきり増援が来るまでそのまま耐えるものだと思い込んでいた私は慌てて彼女を見上げる。
すると彼女はおもむろに左腕を持ち上げたかと思えば、その手をグッと握り込んだ。次の瞬間にはその手首から先が稲妻を帯びてバチバチと音を立てていた。
そしてそのまま力を抜いたゆったりとした動作で腕を前に伸ばし、パチリと指を弾いた。
『伝播する稲妻』
彼女がそう呟いた瞬間、その優雅とも取れる緩慢な動きからは想像も出来ないほどの速度で、青白い稲妻が一筋撃ち出された。
私にもかろうじて捉えられたその稲妻は、黒ずくめの男たちだけに次々と襲い掛かり、有無を言わさずに痺れさせていく。誰もその不規則な軌道と凄まじい速度に防御が追い付いていない。
気付けば、たったそれだけで私たちを囲んでいた者を一人残らず無力化してしまった。
先程まであれだけ騒がしかった室内がしんと静まり返る。
(これでは本当に……あの時と同じ……)
今の稲妻の魔法も見覚えがある。あの時よりも洗練されているとはいえ、あの人がコウモリたちを無力化させたのと同じものだ。
「風の壁……稲妻の魔法……まさか、そんな……!」
彼女を見上げて改めて確認すれば、その結い上げられた髪は明るい金髪。私を見つめるその仮面の奥に見える瞳は深い赤色で、私の知るあの人と全く同じ。私の考えを肯定する証拠が次々と積み上がっていく――。
「ブリジット様、無事で良かった……!」
彼女はその声に喜色を湛えながら、遂にその仮面に手を掛けた。
そうやって目の当たりにしたのは、美しさに磨きがかかりながらも、あの頃とまるで変わらない優しい微笑み。
もう疑いようもない。私の大好きなあの人が生きていて、また私を救ってくれたのだ。
――どうして今まで気付けなかったのだろう。
同じ年頃の貴族女性が騎士になっていれば、他二人の女性騎士同様、その物珍しさが話題になって耳に入ることくらいあったはずだ。それが騎士の中でもエリート集団の特務騎士団で一番の実力者ともなれば猶更だ。しかしそんな話はただの一度も耳にしたことはない。
普段なら顔合わせの時点でその程度のことにはすぐに気付けたはずなのに……やはりそれだけ今日という日に緊張していたのだろうか。
今回、殿下が護衛を捻じ込んできたのにも合点がいった。「大事な友人二人の安全のため」だと仰っていたが、どう考えてもこちらが本命だ。仮面までさせて明らかにこの状況を楽しんでいるではないか。どうりでパトリック様もあんなに楽しそうにしていたわけだ。
「レナ……さ……」
そこまで瞬時に理解出来たというのに……沢山の感情が一気に押し寄せたことで頭がパンクした私は意識を手放してしまった。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
気付けば別室のベッドの中にいた私は、慌てて傍に控えていた侍女に今の状況を尋ねた。まさか夢だったのではないのかと気が気でなかったのだ。
喜ばしいことに侍女の説明と私の中の記憶に違いはなく、夢ではないようだ。
(まさか気を失うなんて私としたことが……!)
こうしてはいられない。彼女には聞きたいことも、話したいことも山程あるのだから。
私はすぐにベッドから出て、皆が待つ応接室へと急いだ。
応接室に到着すると、彼女は今回の襲撃についてパトリック様たちに説明している最中のようだった。私はすぐにでも駆け寄りたいのを我慢して、努めて平静に彼女をそこから連れ出した。殿下や他の騎士たちの目があったからだ。
しかしその我慢も別室で二人きりになった瞬間に容易く限界を迎えた。再開の喜びに涙が溢れて止まらなかった私を、彼女は落ち着いた様子で泣き止むまで待っていてくれた。
彼女は今「レナ・クローヴェル」ではなく「レオナ・クローヴェル」と名乗っているようだ。その理由はわからない。でもそれはこれから聞けばわかること。
そこからこれまでの出来事全てを教えてもらった。『火竜事件』で両親を亡くし、自身も樹海で死に掛けたところを助けられ、助けてくれた者の元で復讐のために力を付け、成人後はハンターとして活動を始めたという。貴族との関係を断つつもりだったが、復讐を成した際にその存在を知られてしまい今に至る……と。
彼女には本人にも把握しきれないほどの人並み外れた魔力があり、それを隠して生きていた。私にあの時周囲に内緒にさせたのはその為だったようだ。先程の魔法もどう考えても手加減している風だったのに、奴らが手も足も出なかったのを考えればすんなりと納得がいった。
一通り話を聞いた私は正直なところ「彼女にもっと頼って欲しかった」というのが素直な感想だった。どんな事情があろうと、私は喜んで協力したであろうことに疑いがなかったからだ。
しかし私は両親を亡くしてもいないし、自身が死の縁に立たされたこともないので、彼女の心境の変化に物申せる立場にはない。
それに仮に失踪後すぐに生きていたことを知ってしまっていたとしたら、きっと私は学園で『女傑』と呼ばれるまでに成長出来なかっただろうし、パトリック様と結婚することもなかったのではないか。
だからきっとこれで良かったのだろう。――そう、彼女が生きていてくれただけで私にとっては充分過ぎることだと考えるべきだ。既に国の宝と呼んでも差し支えない力を持つ存在である彼女の今後の方が、私の感情などよりよほど重要である。
当時から殿下がレオナのことを好いていたのは明白だったのだから、生きていたとあればいずれ必ず行動に移すだろう。
既に両陛下もそうなるよう仕向けているようだし、魔力のことも含めれば将来的なレオナの地位が女男爵のままのはずがない。いずれ必ず地位も私に並び立ち、そして追い越してくれることだろう。
そんな彼女の親友として、今後も仲良くやっていけることが嬉しくてたまらない。私にとってのヒーローは、じきに全ての国民にとってのヒーローとなるだろう。
私はそれを彼女の身近で支えたい、守りたい。この役目は他の誰にだって譲ってやるものか。
レオナや殿下が城を去った後、私は新しい家族全員に今日起きた出来事と得られた情報、そして今後の姿勢を明確に伝えた。
攫われかけたことなどお構いなしに話す私を見てどなたも苦笑いを浮かべておられたものの、元より聡明な方々ばかりなので、最終的には私の考えに理解を示して下さった。
その後も寝室で夫と二人してこの国の未来に思いを馳せ、お互い上機嫌で眠りについた。
(あぁ、こんなにも幸せで良いのかしら……!)
次期公爵夫人としての栄えある初日は、私にとって恐ろしいまでに希望に溢れた幸せな一日となった。




