56.嫉妬(レベッカ・メイアン視点)
エマと話している間に見失ってしまったのではと心配したけれど、暗闇の先にぼんやりと小さな明かりが見えてほっとする。暗すぎて向こうの歩みも遅いようだ。
身体強化を強めて手を前にかざしながら、多少壁にぶつかっても構わず突き進む。
しかし、あまりにもその明かりとの距離が縮まるのが早い気がする。
(あの場から動いていない……?)
そう疑問に思いながら近づいてみれば、その明かりは男が手に持っていたものではなく、小さな小さな魔法の光だった。
(あの男が自分で逃げた方向をバラすような馬鹿な真似はしない、つまりこれはミーティアが……)
その場から周囲を見回すと、離れた位置にまた小さな明かりが見える。
(……ありがとう)
まだ薬で身体の自由が利かないはずの同僚が助けてくれていることに、鼻の奥にツンと込み上げるものを感じる。今度は私が彼女を助ける番だ。
私は魔石に魔力を込めて足元に軽く放り投げ、すぐに次の明かりを目指して駆け出した。
いくつもの魔法の光を通過し、手持ちの魔石を使い切ってしばらくした頃、ようやく男が手に持っていた明かりを視界に捉えた。
「待て! このまま逃げたところでお前に逃げ場などないぞ!」
「うるせえ! こっちに来るんじゃねえクソ女!」
それでも男は悪態を吐きながら奥へ奥へと逃げていく。
(往生際の悪い……!)
こいつのせいで一体どれだけ地中深くまで進んできてしまっているのか。まだ魔物に遭遇していないのが奇跡としか言いようがない。
しかしこの追いかけっこもあと少しで終わる。残り四メートル、もう捕縛は目前だ。
『ゴゴゴゴ……ガラガラガラ……』
すると突然、それを阻止するかのように足元が大きな音を立てて崩れ落ち始めた。
「うおわっ!?」
「くっ……!」
この場にいた全員が暗闇の中、宙を舞う。
音の反響具合からして相当大きな空間のようだ。
(この高さではそのまま落ちれば無事では済まない……あいつは着地出来るの!?)
私の少し先を落ちる男は明らかに取り乱している。魔法が使えると言っても大したことは出来ないのだろう、こいつに任せていてはミーティアが危険だ。
私は魔法の風を使って、自分とミーティアたち両方の落下の勢いを殺し、ゆっくりと高度を下げて着地する。最近訓練に取り入れられた魔法の使い方が早速役に立ってしまった。
続けて大きめの火球を浮かべて空間を照らすが、広すぎてそれでも照らしきれていない。上を見上げたところで落下してきた穴すら見つけられなかった。
(これじゃどこかに抜け道でもないと帰れないわね……。それを探すにしてもまずはミーティアの解放と、この男の捕縛が先か)
腰を抜かしたらしい男の元へと歩いていく。
「お前程度の腕では落ちて死ぬだけだったんだから、感謝しなさい」
「くっ……くそぉ……」
『ギチギチギチギチ』
――するとそこに金属同士が擦れるような不快な音が紛れ込んだ。目の前の男の歯ぎしりの音ではない。
周囲を見渡してみても暗闇ばかりで何も見えない。しかし間違いなく大きなものが蠢いている気配を感じる。まず魔物に見つかったとみて間違いないだろう。
(……あぁもう最悪!)
苛立ちながら暗闇を睨みつけていると、火球の光を反射してオレンジ色に煌いた物体がぬるりと姿を現した。それは私の背丈よりも巨大な蟻の魔物だった。
「アーマーアント!? う……嘘でしょ!?」
アーマーアントーーそれは鉛色の巨体に、並の攻撃では傷をつけることすら難しいほどの尋常でない硬度の外殻を持ったA級相当の強力な魔物だ。
これはまずい……事前の想定を大きく超えた大物じゃないか。通常であれば一体倒すためだけに出動要請が出されるような相手が目の前に五体もいる。レオナ様が殲滅しにいったジャイアントホーネットといい、こんな強力な魔物がエルグランツのような大きな街のすぐ傍に潜んでいたなんて明らかに異常である。一体何が起こっているというのか……。
そんな強敵がその巨体に見合わない速度で襲い掛かってくる。あのギロチンを思わせる形と輝きを放つ顎に掴まったら最後、容易く身体を真っ二つにされてしまうだろう。
「うわあああああああああああ!!!」
不意に男の悲鳴が空間に響き渡る。見れば五体のうち一体がそちら目掛けて突っ込んでいた。
『旋風』
咄嗟に風の壁を二人との間に滑り込ませ、蟻の攻撃を受け止める。
そのたった一撃だけで魔力を大きく奪われたのがわかる。この調子で攻撃され続ければ、あっという間に魔力が枯渇してしまうだろう。
『ガキィン!』
後ろから斬りつけ、狙いをこちらに向けさせてミーティアたちから距離を取る。奴らの注意を引き付けて身体強化で躱し続けるのが一番時間を稼げるはず。
斬りつけた感触でこいつらを倒すのはすぐに諦めた。一対一で全力で挑めるならともかく、この数相手に、二人を守りながら倒すなどまったく現実的ではない。この暗闇と迷路では逃げることも叶わないだろう。
それならば、とにかく耐えてレオナ様の到着を待つ方が下手に戦うよりよほど生存確率は高いように思う。レッドドラゴンですら瞬殺してしまえるあの方ならばきっと――。
……問題は、その到着がいつになるかわからないということだけ。
最初の一体は正面から襲い掛かってきても、残りはその巨体のせいで視界には収まってくれない。すぐに横や後ろに回り込もうとしてくる。
凄まじいスピードで、喰らってはならない凶器を携えて、暗闇から突如現れる蟻の顔が恐ろしくて仕方がない。震える足に鞭打ちながら、ただひたすらにこの空間を動き回る。
自身の回避ばかりを気にしていると、いつの間にか狙いが二人に逸れた奴が現れて余計な魔力を使わされる。あの男が襲われそうになる度に喚くお陰で気付けているけれど、とても心臓に悪い。
一瞬たりとも気が抜けないせいで時間の感覚もわからない。既にどれだけ続けていて、あとどれだけ続けなければならないのだろうか。
攻防の終わりが見えない一方で、確実に終わりに近づいていく魔力の残量が、私の心をじわじわと不安で満たしていく。
(レオナ様、私はここです……助けてください……っ!)
アルメリア教のお祈りですら、ここまで真剣に祈ったことはない。
果たして私の願いは届くのだろうか。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
魔力切れの兆候である頭痛や眩暈、吐き気を我慢しながら、それでも必死に蟻たちを引きつけ、逃げ回り続ける。
魔力も体力も既に限界が近いのが自分でもハッキリとわかる。
(うぅ……意識が朦朧としてきた……)
薄れゆく意識の中、浮かんだのはミーティアの姿だった。
連れ去られた彼女を追い掛け、助けるのが私の役目だというのに。
このままいつの間にか気を失い、そして蟻に殺されるのだろうか。
(ミーティア……情けない私でごめんなさい……)
「レベッカ!!!!」
半ば挫けかけていたその時、待ち焦がれていた声が聞こえた。
「……ッ!! レオナ様!!!!」
はっとした私は、可能な限り声を振り絞る。自分でもまだこんな声が出せたのかと驚いたくらいだ。
「レベッカに――触れるなぁぁぁ!!!!」
突如大きな稲妻の塊が頭上に出現し、その光によって空間が青白く照らし出される。
同時に浮かび上がった人影が大きく腕を振り抜くと稲妻の塊が急速に落下を始め、上空を見上げていた蟻たちを纏めて押し潰した。
『ズドオォォン!』
『ギィィィィィ!!!!』
苦悶の混じった鳴き声とバチバチという音がけたたましく鳴り響いた後、稲妻の塊が消え失せ、蟻の死体を残してこの場に静寂が戻ってくる。
(あはは……本当に一撃だ……)
なんという圧倒的な強さだろうか。
魔物を相手にした際の一切の遠慮のなさ、その非常識な魔力量から繰り出される魔法の威力、訓練では見ることの出来ないこの人の本当の実力の断片。
その力の価値はもちろんのこと、何より私はその美しさに見入ってしまっていた。
「レベッカ!」
張り詰めていた身体から力が抜け、へたり込んでいた私をレオナ様が優しく抱きしめてくれる。柔らかな感触とその温もり、微かな薔薇の香りが私を落ち着かせていく。
「凄いわ、よく頑張ったわね……」
「ふふふ……来てくれるって信じてましたから……」
押し付けたり、見捨てることもなく駆け付けてきてくれた。
この人が一撃で倒せる相手を一匹も倒せない不甲斐ない私を、罵倒せず褒めてくれた。
外見の美しさや強さだけじゃない、その不器用だけど真っすぐで優しいこの人を好きにならないなんて無理な話だった。
(私が女で良かった。もし男だったら殿下がライバルになるところだったわ……)
「なんでよ!」
私が少しうっとりしているとミーティアの怒りに満ちた声が空間に響いた。
流石に正気に戻った私はレオナ様と一緒に彼女に近づいていく。
「なんで今になって来るのよ! 今まで何処に行ってたのよ!! なんでレベッカだけ独りでこんなに危ない目に遭わないといけないのよ!!! レベッカはなんで笑っていられるのよ!!!!」
レオナ様が蜂の殲滅に向かったことを知らないのは当然なので別に何とも思わない。
……でも後半は違う。
これは私を心配してくれているようで心配していない。純粋に私の無事を喜んでくれているなら、そんな言葉は出てこないはずだ。思考を止め、相手を罵倒するための材料に使われている気がする。
「またドラゴンの時みたいにピンチに駆けつける演出なの!? そんなに自分を良く見せたいの!? 私が、レベッカが、一体どんな気持ちで居たかわかってんの!!?」
先程の私たちのやり取りを見て何故そのような発想になるのか……言いがかりとしか言いようがない。一歩間違えれば死んでいたという恐怖はあったにせよ、嫉妬の心というものはここまで正気をなくしてしまうものなのだろうか。
これだけ滅茶苦茶なことを言われても、不器用なレオナ様はきっと必要以上に相手を想い、自分の責任だと言って我慢してしまうのだろう。
――ふざけないで。
レオナ様は一方的に殴っていい訓練用の人形じゃない、私たちと同じ人間だ。
両親を亡くして悲しみ、使用人たちと笑い合い、両親の仇に怒り、騎士たちとの人間関係に悩み、誤解と知り喜び、泣いてしまう人間なのに。
「ごめんなさ――」
「いい加減にして!」
『パァン!』
我慢出来なかった。
ミーティアの頬を叩いた手がジンジンする……任務や訓練以外で人に暴力を振るうなど生まれて初めての経験だった。
「……レベッカ?」
私の予想通り謝ろうとしていたレオナ様にも少しの苛立ちを覚えたけれど、今はそれよりもこの嫉妬娘の方が先決だ。
「こっちにだって事情があったのよ! ちゃんと理由があって別行動していたの! 私だってそれを承知の上でここまで来ていたのよ! それぞれの責務を全うしていただけよ!」
私たちはそこまで馬鹿じゃない。ミーティアだってそれに気付けないはずがない。
「それなのに何でレオナ様だけが責められないといけないの!? レオナ様も己の責務を全うしただけなのに! 私がもっと強ければ危険なんてなかったのに! レオナ様だって出来ることなら全部自分ひとりでやりたいわよ! でも出来ないから、身体はひとつしかないから私たちを頼ってくれたんでしょう!?」
ミーティアが私の剣幕に呆然としている。
でも一度口に出すともう止まらなかった。
「もう言ってること滅茶苦茶じゃない……いい加減嫉妬の目で見るのをやめようよ……。もっと真っすぐに彼女のことを見てあげてよミーティア……」
感情が昂り、勝手に涙が溢れてくる。
このままでは二人とも不幸なままだ。普段の素直な彼女なら絶対レオナ様とも仲良くなれるのに。今日レオナ様の人柄を知ってしまってからは、そうなっていないことがただただ悲しかった。
「あの……」
自分たちのものではない控えめな声が割り込んだことで、エマもこの場にいたことにようやく気付いた。私は護りきれないから外で待っているように言うしかなかったけれど、レオナ様は身近に置いた方が安全だと考えたのだろう。
「このお姉ちゃん、ずっと二人を助けなきゃって必死だったよ……。あたしを一人で置いておけないから着いてきてってお願いまでして、迷路みたいな道を進みながらずっと二人を心配してたんだよ……」
「うっ……うわああああああああん!!!!」
エマの言葉を聞いたミーティアは大きな声を上げて泣きだした。
どうか自分を見つめ直して欲しい。彼女は嫉妬しなきゃいけない相手ではないことに気付いて欲しい。
ミーティアならそれが出来るはずだから――。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
エルグランツに戻り、誘拐犯を引き渡したあとはレオナ様の屋敷にまたお世話になることになった。
ミーティアは夕食の時間にも顔を出さず、部屋に閉じこもったまま。気持ちの整理に時間が掛かるのは仕方ないと思う。
レオナ様はそれまでゆっくりしてくれればいいと言って下さったけれど、そのご厚意に甘え過ぎるのも良くない。
今日やるべきことを全て済ませて、ミーティアのいる部屋へと向かった。
「ミーティア、入るわよ」
本人の返事も待たず部屋に入る。入っていいか確認したところで嫌がるか無言だろうし、どのみち私には話をする気しかないのだから関係ない。
「レベッカ……」
ミーティアはソファーの上で膝を抱えて小さくなっていた。
私はローテーブルを挟んでその向かい側に座る。
「少しは落ち着いた?」
「少しは。……ねぇ、私が気絶してる間のことを教えて欲しいの」
「えぇ」
私はあのタイミング最悪の出来事を話した。
誘拐と同時に蜂の魔物が襲ってきたこと。
その数から女王がいる可能性が高かったこと。
誘拐犯の追跡は私が行い、レオナ様は殲滅してから後を追いかける手筈になっていたこと。
「……こういう流れよ。貴女から見てこの判断は間違っていたかしら?」
ミーティアは目を伏せ、鼻で大きく溜め息を吐きながら首を振る。
「間違っていたとは思わない。攫われた側としては女王まで倒さずに合流して欲しいっていう気持ちもあるにはあるけど……」
「気持ちはわかるけどね……。でもそれだと可能性の問題とはいえ、貴女と街の人々の両方に危険が残ったままになってしまうわ。その状態で護るべき対象である街の人々よりも騎士である貴女を優先するっていうのは騎士団の在り方としてもどうかと思う」
「うん……」
「そこまで考えて行動したのに、私たちまでしっかり危険な目に遭ってたんだからレオナ様もやりきれないわよきっと……」
本当に運がなかったとしか言いようがない。それでも蓋を開けてみれば、行方不明の原因を全て突き止めて対処できているのだから不思議なものだ。それでもレオナ様がいなければ女王の始末も、誘拐犯の捕縛も手こずっていたであろうことは疑いようもない。
「レベッカは怖くなかったの? あと少しで魔力切れだったんでしょ?」
「もちろん怖かったわよ。心の中で助けてって叫ぶくらいには」
「じゃあなんで……」
「レオナ様がこっちに向かってきてくれているって確信していたから、かな? それでも間に合わなかったらその時よ。誰も責められないわ」
ミーティアはあの時レオナ様を責めていた。どう考えても無理のある妄想で彼女を責めたのだ。
それがどれだけおかしなことか、ミーティアは気付いてくれただろうか。
「いくら怖い体験をしようが、結果的には大きな怪我もなく五体満足で生きてる。私の人生にはまだ先があるの。……それは貴女も同じよ」
一度死に掛けたからこそわかる。それはとてもありがたいことだ。
「せっかくまだ生きてるのに、大した理由もなく嫌って悶々としながら過ごすなんて勿体なくない?」
「大した理由もなくって……」
「前から言ってるじゃない、レオナ様は別に殿下を狙ってないって。ただの勘違いなら大した理由じゃないって言われても仕方ないでしょ」
「本当に……?」
「私じゃなくて本人に直接聞きなさいよ……。嫌な顔もしないし、多分応援されるから」
――そう、あの人であればきっと応援までしてくれるだろう。想像でしかないけれど、私の中では半ば確信に近い。
「いつの間にレベッカはあの人とそんなに仲良くなったの……?」
「張り込み中に少し話をしただけよ。それでもきっと貴女より話した量は少ないんじゃない? もういいから早いところ直接聞いて、勘違いなら素直に謝ってきなさい!」
「許してもらえるのかな……」
「――えぇ、絶対に。貴女に嫌われてるってわかっていても遠ざけずに、こうやって関わりを持ち続けてくれる、不器用で優しい人だから」
「……わかった」
ミーティアはゆっくりと立ち上がり、ぎこちなく歩いて部屋を出ていった。
どうにかその気にさせることが出来たようだ。
(ミーティアもレオナ様に負けず劣らず臆病で不器用なんだから……)
彼女を送り出して部屋に戻ったまでは良かったものの、何故か私までそわそわして落ち着かない。ちゃんと腹を割って話せているだろうか。
……どうやら思った以上に二人のことが気になってしまっているみたいだ。
そんな自分自身に呆れつつ、自室のドアを開いた。
応接室に案内してくれた侍女を制止して聞き耳を立ててみると、あまりに話が進んでいなくて驚いた。送り出してからもう十分近くは経っているはずなのに。
しびれを切らした私はつい、いきなりドアを開けて突入するなんてはしたない真似をしてしまった。あのビンタといい、私らしくない行動が続いていて自分でも驚いている。
最終的にミーティアの勘違いだったとして無事に二人は和解出来た。
誤解が解けて、これまで遠慮していたのが丸わかりな勢いで嬉しそうに絡んでいくレオナ様と、早速それに翻弄されるミーティア。やはり睨んだ通り、二人の相性はとても良さそうだ。
それから残りの時間を三人で過ごし、たくさん話をした。
レオナ様は平民として過ごした時間が長いからか、貴族としては独特の考え方を持っていたりして少し変わった人ではあるけれど、想像以上に人懐こく、やはりとても優しい人だった。
ミーティアもきっとそう感じていると思う。翌朝には昨晩までのギスギスした空気は一切感じられず、私の知るいつもの可愛い彼女に戻っていたから。
楽しそうに笑い合う二人を眺めながら、言葉を交わすというのはとても大切なことだと、そう改めて心に刻み込んだ。




