50.故郷
翌日、私は二人に勧められたイングラードの街に独りで来ていた。皆には真っすぐエルグランツに向かってもらっている。
先に行ってくれて大丈夫だと説明するために魔法を使って空を飛んで見せると子供たちは大興奮で、その様子が少し前の殿下にあまりにそっくりで思わず笑ってしまった。
そうして久しぶりに眺めるイングラードの街は随分と様変わりしているように感じた。
街並みはとても美しく整っており、行き交う人々の表情もとても穏やかで優しい。大通りは活気がありながらも、一つ奥に入れば前世でいう郊外の高級住宅街のような落ち着きがある。昔の元気な田舎町ではない、とても上品な街といった印象になっていた。
(……やっぱり十年も来ていなければ変わるものよね。もう私の知るイングラードの街じゃないみたい。良い意味で変わっているから、それだけ豊かになっている証拠なんだけど)
私が昔馬車の中から見た街並みと違っていることが少し寂しくもある。だけどそれは過去の記憶にしがみついている私のエゴだ。街の人々は一生懸命に生き、発展させてきているのだから、部外者の私にどうこう言う資格なんてない。
そんな現実と過去の記憶との狭間で、実感が湧かずふわふわとした気持ちのまま、遠目からでも見えていた屋敷のある丘の麓までやってきた。
(ここは昔と変わらないのね……)
それが少し嬉しくて、口元を緩ませながらゆっくりと坂を上っていく。見覚えのある屋敷が少しずつ近づいてくるにつれて、次第に鼓動が激しくなっていくのを感じる。
――わかっている。あそこは今は別の領主が暮らす屋敷であって、もう私たちの屋敷ではないことくらいは。
そういえば私が屋敷を買う際に不動産屋さんが言っていた。貴族は大抵自分の理想の物を欲しがるので、既存の物を使わずに新しく作るのだと。
それなのにあの屋敷はそのまま残っている。実は使われずにどこか別の場所に屋敷を構えているのだろうか。それとも私のような考えの変わり者が今の領主だったりするのだろうか。
そんなことを考えているうちに遂に門の正面まで来てしまった。……本当に、まるで変わらない。外観は当時のままだ。
「ここは領主様のお屋敷だ。見たところ貴族や商人でも無さそうだが何用か?」
門の手前から屋敷を眺めていると門番に声を掛けられた。周囲に私以外の人間はいないのだ、当然気にもなるだろう。
「あら、ごめんなさい。立派な建物だと思ったら領主様のお屋敷だったのね。ただこの辺りを散策していただけだから、特に何か用があるわけじゃないの」
疑問にこそ思ったものの、今の領主に関して別段興味はない。あればとっくの昔にどこの誰なのかくらいは把握していただろう。
「そうか。ならば良いが、あまり怪しまれるようなことはしないように」
「えぇ、気を付けるわ。ありがとう」
実際もうこれ以上ここには用はない。簡単な会話を済ませて踵を返す。
(あら……?)
するとこれまで屋敷の方にばかり気が向いていたので気が付かなかったけれど、木々の間に更に丘の上へと続く小道を見つけた。こんなところに小道があるなんて、当然子供の頃の記憶にもない。
この丘の更に上に何かあるのだろうか。
「こっちも領主様の敷地なの?」
「いいや」
「進んでみても大丈夫?」
「好きにするがいい」
ぶっきらぼうだけど聞けば律義に答えてくれる門番さんにほっこりしつつ、小道を進んでいく。
屋敷までの坂道では街が見下ろせていたが、小道では木とその隙間から遠くに見える空以外なにも見えない。そこそこ高い場所になるからか、風が強くて揺らされる枝葉の音が少しうるさいけれど、まるで海岸で波の音を聞いているような感じもして、これはこれで悪くない。
そうして五分ほど歩いたところで急に視界が開けた。……展望台のようだ。
「うわぁ~……!」
足元にはレンガが模様になるように敷き詰められており、崖の手前には柵が巡らせてある。そしてその崖の向こう側には一面の葡萄畑が広がっていた。今の季節は初夏、実をつける前の木々には青々とした葉が生い茂っている。
ブルデラへ向かう途中にも上空から見ていたはずなのに、受ける印象が全く違う。低い視点から見ることで畑のその広大さが際立って見えるようだ。雲が葡萄畑に点々と陰を落としており、ゆっくりと風に流され移動している。
(――む、あれは何だろう?)
柵に手を掛けながら周囲を見回すと、ここから少し離れた位置に石碑のようなもの建てられているのが目に入った。何となく興味が湧いたので近寄ってみることにする。
「……おや、先客がいるとは珍しい」
するとその石碑のようなものを目前にして、突然横の林から声がした。驚いてそちらを見ると、五十は過ぎているだろう男性がこちらに歩いてきていた。
服装は平民のものだけれど、正直似合っているとは言い難い。明らかに身に纏っている雰囲気が平民ではなかった。
(それにどうしてそちらから? 私の後に来たのなら位置的に後ろからになるはずなのに……)
「このあたりでは見ない顔だね。旅の方かな? こんにちは」
その男性は穏やかに挨拶をしてくる。
「こんにちは。ブルデラに住む知人に会いに行った帰りなんです。なんとなく散策していたらここに辿り着きまして」
「そうかそうか。良い場所だろう? 私もここが大のお気に入りでね」
「えぇ、とても壮大で美しいですね」
「それもこれも彼らのお陰さ」
「彼ら……?」
私の問いかけを受け、男性は石碑の方へと顔を向けた。
「君の目の前の墓に眠っておられる、前領主殿とそのご家族さ」
(お父様とお母様の!?)
すぐにでも駆け寄って確認したい衝動を抑えて、努めて冷静に近づいていく。でないとあまりに不自然過ぎるからだ。
墓標を確認すると、確かにそこにはお父様とお母様、そして私の名前が刻まれていた。
「どうしてこんなところに……歴代の領主様のお墓は別にあるのでは?」
「それは、前領主殿がこの領地の発展に心血を注いで下さっていたからだよ」
「どういうことでしょう……?」
それでどうしてここにお墓があるのか、まだいまいち私の中で繋がってこない。
「前領主殿のおかげでこの領地は豊かになり、領民の暮らしは格段に良くなった。人々は感謝の気持ちを込めて、領地の繁栄の象徴である葡萄畑を一望できるこの場所に墓を建てることを望んだのだよ。『これからもこの領地を見守っていて欲しい』とね」
(繁栄の……象徴……)
聞き覚えのある単語を耳にして、腰のショートソードの鍔に施されている装飾を左手でそっと撫でる。お父様たちは一体どのような気持ちでこの装飾を施していたのだろうか。
「それほど前領主様は領民に愛されていたのですね……?」
「そうだとも。あの事件で亡くなられたと知らせが入った時には、全ての領民が涙を流し、その死を悼んだと聞いているよ」
「そうだったのですか……」
その一言だけで喜びで胸が一杯になっていく。それこそこの場で泣きだしたいくらいに。
しかしそんなことをしては目の前の人を困惑させてしまう。顔を背けて唇を強く閉じ、大きく鼻で息を吐いて必死に泣かないように我慢する。
それだけ両親が領民に愛されていたということが自分のことのように嬉しかった。
……そして私は間違っていた。
ここは私の知らない街なんかじゃない。私の知っている、両親の愛したイングラードの街そのものだった。
「ここは温かくて良い街ですね、領主様」
私に領主と呼ばれた男性は苦笑いを浮かべる。予想は間違ってなかったみたいだ。
「やはり似合わないかね? 家族や屋敷の者にも辞めろとよく言われる」
「ふふふ。失礼を承知で申しますと、私のような余所者にもバレバレです。しかしわざわざそのような格好をしなくても良いのではないですか?」
街の発展具合や領民たちの表情から考えても、私には充分良好な関係を築けているようにしか思えない。そこまで歩み寄る必要はないのではないか。
「それはそうなのだがね……」
私もそのご家族と同じことを言ってしまったのか、頭に手をやって困ったように笑う領主様。
「私がそうしたいのだよ。私も尊敬する彼らと同じように、領民と共に在りたいのさ」
目を細めながらお墓を眺める領主様のその顔は、誇るような、悲しむような、そんな複雑な感情が入り混じっているようだった。
「素晴らしい心意気だと思います。きっと前領主様も喜んでおられることでしょう」
「そう言ってもらえると嬉しいよ。――さて、私はそろそろ屋敷に戻ろう。君はゆっくり堪能していくと良い」
「ありがとうございます」
そう言って領主様は林の中へ消えていった。私が上ってきた小道を戻っていかないのは、きっと屋敷から私も知らない秘密の道が伸びているのだろう。
私は改めて両親のお墓に向き合う。……しかしどうもこのまま拝むのは違和感がある。前世ではお墓参りなら花やお供え物を用意し、掃除をしてから拝んでいたから。
(……そうだわ!)
思い立った私はこっそりと飛翔の魔法を使って街中へと戻った。
そして花屋を探しだして、真っ先に手に取ったのは赤いバラ。『いばら姫』と呼ばれている今の私を象徴する花だ。
この世界だとどうなのかは良くわからないけれど、前世だとバラは棘があるのが良くないらしく、お供えにはあまり適さないとされていたので、一応棘はお店の人に頼んで落としてもらった。
次に向かったのはワイナリー。ワインの製造元なら、同時に販売もしていると思ったからだ。都合よく小さくて可愛らしいボトルがあったので三本購入していく。
それらを抱えてまたこっそりと展望台に戻り、洗浄の魔法でお墓を綺麗にして二本のボトルと一本の薔薇を供える。
この薔薇はお供え物というよりは私の分身。お父様とお母様が寂しくないように、私の代わりに二人の傍にいてもらおうと思う。
「あのね、私またアンナたちと一緒に暮らすことになったの。もう二度と放り出したくない。屋敷の皆も、理不尽に泣かされている人々も、二人が愛したこの土地だって、全部私が守ってみせるわ。そして私自身も幸せになってみせるから、だからもうしばらくは、その子と一緒に私を見守っていてね。大好きなお父様、お母様……」
横に座ってお墓にもたれ掛かりながら手元のボトルを開ける。直に口をつけるのはお行儀が悪いけれど、どうか許して欲しい。
そうして初めて味わった故郷のワインはとてもフルーティで、目の前に広がる青空のように爽やかで、とても飲みやすいものだった。まるで両親の明るい笑顔と優しさが詰まっているかのよう。
それ以上何も言わず、その心地良さに包まれながら、両親を近くに感じながら、ただ静かに目の前に広がる葡萄畑を眺め、喉を潤した――。
(よし、そろそろ帰ろうか……)
気付けば三十分は過ごしていた。あまりに長くいると離れがたくなってしまいそうだ。
言葉にして祈ったお陰か、不思議と涙は溢れてこなくて気持ちがすっきりしている。二人が見守ってくれていると思えば何だって出来るような気さえしてくる。
お葬式なんかは生きている人の為にするっていうのを聞いたことがあるけれど、案外本当なのかもしれない。それとなく薦めてくれたアンナたちに感謝しないと。
帰りはちゃんと歩いて帰ろう。飛んで帰ったせいでいつまでも降りてこないとなると門番さんが心配するかもしれない。
「……楽しめたか?」
なんて思いながら門の前まで戻ってはきたものの、まさか向こうから話しかけてくるとは。
「えぇ、とても素敵な時間を過ごせたわ。ありがとう」
「……そうか」
相変わらずぶっきらぼうだけれど、この時だけはその声が心なしか嬉しそうに聞こえた。




