03.家庭教師
今日はこれからお父様の言っていた家庭教師たちとの顔合わせだ。
応接室に入ると既に一組の男女がソファーに座っていた。彼らは私たちの入室に気付いてすぐに立ち上がって頭を下げて、こちらを待っている。
初めての屋敷の外の人間に緊張しながら、お父様と一緒に近づいていく。
「レナ、彼らが家庭教師の先生だ。教わる側であるお前からまず挨拶しなさい、それが礼儀というものだ」
お父様がいつもの優しい雰囲気とは違う、伯爵家の当主らしい威厳を放ちながら私に前に出るように促す。
「……ヘンリー・クローヴェルの娘、レナ・クローヴェルと申します。ご指導、ご鞭撻のほど宜しくお願い申し上げます」
私はそう挨拶をしながらワンピースの裾を持ち上げ、膝を下げてお辞儀をする。確かカーテシーとかいう奴だ。もし間違っていたならこれから教わればいい、大事なのは気持ちなのだ。
それに対して二人はすぐさま柔らかい笑みを浮かべる。これでは合っていたのか間違いを生暖かい目で見守られたのかわからないじゃないか。
「私はブレンダ・ノーグ。礼儀作法やダンス、音楽といったものの指導を担当致します。宜しくお願いします」
ブレンダ先生は四十代くらいの細身で背の高い女性だ。濃いめのグレーの髪をピッチリと纏めていて、なるほど、確かにダンスの先生っぽい。
「儂は地理や歴史といった座学と、魔法を担当するホルガー・ルブライトと申します。こちらこそ宜しくお願いします、レナお嬢様」
もう一人のホルガー先生は見るからに優しそうな、恰幅の良い身体に立派な白髭を蓄えたお爺さん先生だ。それっぽい服装をすれば誰が見てもサンタクロースだと思うだろう。
――というか今、聞き逃せない単語があった気がする。
「魔法……ですか?」
「御存じありませんかな? 人間はその誰もが魔法を扱える才能を持っているのですよ。ただ、何の知識もなく自力で使いこなせるようになるのはとても難しいので、儂のような者がその手助けをするのが通例となっておるのです」
ホルガー先生はこちらの反応を見て優しく説明してくれる。
だというのに私の頭の中ではこれまでにないほどの騒ぎが巻き起こっていた。
(記憶の中の世界には魔法なんてないわ……!)
私はここにきて初めて、頭に入り込んできた記憶との大きなギャップを感じていた。
ホルガー先生はごく自然に語っているし、家庭教師を手配したお父様も魔法を教えることを了承しているに決まっている。それだけ一般的なものならインターネットの普及した世界であれば存在を知らないはずがない。
これではもう常識どころか世界の理から違っているとしか思えない。つまりこの記憶の持ち主の井野原麗緒奈は別の世界の住人だということになる。……まぁこうやって別の世界だとすぐに呑み込めているのも、彼女の漫画やゲームの知識の影響が大きいのだけれど。
一緒の世界であれば、調べていけば何かわかることがあったかもしれない。しかしそうでないのならお手上げだ、私にはもうどうしようもない。
(この記憶に関しては割り切ってしまった方が気が楽かもしれないわね……。私の前世とでもしてしまおうか……)
もちろんこの記憶が前世のものだなんて確証はどこにもない。あくまで私の心の持ちようの話だ。それでも何かしら私と関連付けないと、この記憶によって心に刻まれた感情と価値観に納得がいかないというだけ。
記憶の中で感じた苦悩を、後悔を、繰り返したくはない、幸せになりたいという感情が私の心を激しく突き動かしている。この感情は偽物なんかじゃないと……それだけは断言できる。
頭の中で整理がついてきて、ようやく目の前の魔法という要素に目を向ける余裕が生まれ始めた。
魔法であれば火を出したり出来るということだろうか。使い方次第で男女の力の差を埋められるのであれば、これほど素晴らしいものはないのではないか。
「私も使えるようになるでしょうか?」
「お嬢様も努力すればきっと立派な魔法使いになれることでしょう」
「……とても楽しみです」
それは心の底からの言葉だった。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
挨拶も終わり、具体的な時間割について説明を受ける。午前にブレンダ先生の授業、午後にホルガー先生の座学の授業と魔法の授業があるようだ。
日によって科目の内容を入れ替えながら行う中、魔法の授業だけはほぼ毎日ある。そして休みは週に一日だけ。これまでの毎日が休みだった生活との落差が酷い。
今日は初日ということで変則的にはなるが、午後から礼儀作法と魔法を学ぶことになった。礼儀作法の授業は貴族令嬢らしく、綺麗な姿勢でゆっくりと歩くところからだった。
レッスン用の部屋にブレンダ先生の手拍子が響く。
「淑女たるもの笑顔を絶やさない! 背筋を伸ばして顎を引くの、良いですわその調子!」
前世で告白された時には笑顔でやり過ごしてきたので、笑顔を貼りつけるのは割と得意だ。露骨に嫌がって断ると、後々面倒な奴に変わってしまう可能性があるからだ。
笑顔でやり過ごしたらやり過ごしたで相手が調子に乗ったりするのだけれど、敵に回すか調子乗らせるかの二択であれば選ぶのは後者になる。前世同様その機会は多そうなのだから、今のうちに貴族らしく断れるように練習しておかなければ。
普段とは違う筋肉を使うようで、授業が終わる頃には足だけでなく背中や腰回りまでプルプル震えていた。この程度でこの有様だとダンスの授業がヤバそうな気がしてきた……。
単純な体力だけなら結構自信があったつもりなのだけれど、筋力となるとそうもいかない。お嬢様というのはイメージと違って、案外逞しくないといけない生き物なのかもしれない。
ちなみにさっきのカーテシーは足の位置が少し間違っていたらしい。……無念。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
そしてお待ちかねの魔法の授業の時間だ。私のために用意された勉強机の椅子にブレンダ先生に言われた通りに、腹筋に力を入れながら背筋を伸ばして座って、プルプルしながらホルガー先生の言葉に耳を傾ける。
「魔法とは人の体内に流れる魔力を使って、頭の中のイメージを具現化するもの。そのイメージする力が強いほど、つぎ込む魔力が多いほど強力なものになります」
そう言いながらホルガー先生は右手にゆらめく火を、左手に透き通るような水の玉を浮かべた。前世では有り得なかった光景が今、目の前で繰り広げられているとあって少し興奮してしまう。
「具現化されたものは魔力が込められている間、その性質を保ち続けるのです」
先生は今度はそれらを一瞬で消してしまった。
「性質というのは?」
「どういうものをイメージしたかによりますが……では火を例にするとしましょう。暖炉の火を想像してみなさい。自然界に存在する火ならば明るく、近づけば暖かく、触れれば火傷するほどに熱い。薪をくべればどうなりますかな?」
「燃えてしまいます」
「そう、それらが火が持つ性質です。なので『普通の火』を魔法で生み出そうとすれば、その性質を持った火になるわけですな」
「今の言い方ですと、そうでない火も生み出せるということですか?」
「その通り。どれ、この火に手をかざしてみなさい」
先生がまた右手に火を浮かべて、それを差し出してきた。手を近づけても何も温度を感じない。
「全然熱くないです」
私の素直な感想に、先生はとても嬉しそうに頷いている。
「火の温度を儂が今肌で感じているこの部屋の温度と同じにしています。イメージさえ出来ればこんなことも出来るのです。……まぁそれが役に立つかは別ですがね。一方で、明るくない火というのは生み出せない。儂にはイメージが出来ないからです」
明るくない火……確かに言われてみれば、私にもぱっとイメージ出来そうで出来ない。
「一見何でも出来そうですが、結局は元のイメージに引っ張られてしまいます。しかし元になるイメージすらなければ、それはもう子供の落書きのようなもの、確としたイメージが無ければ大したことは出来ないのです」
「難しいですね……」
「そうですとも。説明の為に披露しましたが、そもそも性質を変えるのは応用編です。火を扱うにしても大抵は自然界そのままの火で事足りる。扱おうとした時点で、元の性質に期待している面が大きいですからな」
何かを燃やそうと思ったら、元から燃やす性質を持っている火を思い浮かべるのが普通だということか。それでもとても面白い話だ。イメージさえ出来ればとても便利な使い方が出来るかもしれないのだから。
「先生、私にはまだ早いことはとりあえずわかりました。ですが、一般的に他にどのような性質の変化が活用されているのかは知りたいです。教えていただけませんか?」
「勿論いいですとも。そうですな、例えば――――――」
初めての魔法の授業は、それはそれは楽しいものとなった。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
初日の授業を終えて夕食の時間になった。この記憶との付き合い方も自分の中で定まってスッキリしたし、人から新しくなにかを教わるというのはとても充実感がある。
おかげで今日もご飯が美味しい。
「魔法の授業はとても新鮮で面白かったです!」
「レナは頑張り屋さんだね。実生活でも使える場面はあるから、その調子で頑張りなさい」
「はい! ……ということはお父様もお母様も、普段から魔法を活用しているのですか?」
「んー……いつも使っているのは毒を効かなくする魔法くらいかしら?」
私の問いかけにお母様は少し考えたあと、苦笑いを浮かべながら答えた。思っていた以上に使っていなかったということだろうか。
「そうだね、僕もそれくらいだ。騎士のように戦うのが仕事の人なら重宝するんだろうけど、僕たちのように領地経営や社交が仕事だと出番は少ないかもしれないね」
魔法で毒が効かないので国王ですら食事の際に毒見は必要ないらしい。まだ魔法を扱えない子供だけは成長するまでは一応警戒するけれど、毒での暗殺は古臭い手法扱いされていて今ではまずないのだとか。
というか聞く限りでは確かに魔法は戦闘向けで、便利に使うのは難しいのかもしれない。屋敷で暮らしていて魔法が欲しくなる場面は正直まったくない。貴族よりむしろ使用人や下働きの人間の方が上手く扱えそうな気さえする。厨房で働いている者なら火を出せると便利そうだ。
「でも傷を癒したり、素早く動いたりといったことも出来るから、いざと言う時にはしっかり使えるように普段から魔力は鍛えているよ。それはシェーラも他の貴族も同じだと思う」
お母様もうんうんと頷いている。
(……あ、いざと言う時で思い出した! 忘れずにお願いしなきゃ)
「ねぇ、お父様」
「うん?」
「魔法に関してはもちろん地道に頑張っていくつもりですけど、武芸に関するお稽古、例えば剣術などは習えないのですか?」
屋敷の警備の人たちを見ていても手に槍を、腰に剣を下げている。つまりここはファンタジーよろしく、剣と魔法の世界なのだ。それならば今の内に扱い方を覚えておきたい。前世だって格闘技や護身術を身に付けていれば何か結末が変わっていたかもしれなかったのだし。
それを聞いてお父様も、お母様もぎょっとしている。
「レナ、急にどうしたんだい?」
「そうよ、剣術だなんて危険よ? 貴女のような女の子が習う必要はないわ」
二人共これには反対のようだ。まぁこのような反応になるだろうと大方予想はついていたので、予め用意しておいた台詞でこう主張する。
「私は強くて、賢くて、美しい、完全無欠のレディになりたいのです!」
これならば子供の抱く夢らしくて警戒が薄れるのではないか。まさか可愛い自分の娘が厄介な男を自力で追い払えるように本気で強くなってやろうと考えているとは夢にも思わないだろう。
「あら、それはとても素敵ね! うふふ……」
「おいおい……」
簡単に折れたお母様に呆れた視線を向けるお父様。自分で言っておいてなんだけど、お母様も折れるのが早すぎる気がするので気持ちはわかる。まぁまだ反対しているお父様だって押せば絶対イケるはずだ。
――だって私のことが大好きだから。
「授業の時間には影響が出ないように、朝の早い時間にしますし、寝坊せずにちゃんと起きますから! お願いしますお父様!」
こんなに可愛い娘からのお願いを断れるだろうか。私も逆の立場なら無理だと思う。
「ぬぅぅ……わかった。ただ新たに講師を呼ぶのは無理だから、屋敷の警備の者を一人指導につけてもらうよう警備隊長に話してみよう」
しばらく考え込んだお父様も最後は力無く頷いてくれた。
「お父様ありがとう! 大好き!」
席を立ってお父様に向かって走り出し、笑顔で抱きつく。お父様はこれを一番喜んでくれると私は知っているのだ。
「一生懸命頑張りなさい」
感謝の気持ちは充分過ぎるほど伝わったようで、お父様の顔は最早デレデレで台詞と全くあっていない。正直なところ、ちょっとだけ気持ち悪い。いつもの優しい雰囲気を纏いつつも凛々しいお父様の方が好きだ。
「あなた、ズルいわよ!」
お母様が椅子をガタリと鳴らして立ち上がり、ぷりぷり怒りながら速足でやってくる。
「未来の完全無欠のレディちゃん、私もぎゅってして欲しいなぁ~?」
私に目線の高さを合わせて可愛らしくおねだりされる。お母様は本当に美人なので、それは女の私にとっても破壊力抜群だった。
「うん! お母様も大好き!」
「あ、ちょっ……」
お父様がしょんぼりするのを横目に、今度はお母様に抱きついた。
「はぁぁ~もう可愛すぎるわぁ~」
私を抱きしめ返し、うっとりするお母様を恨めしそうに見るお父様がまた面白い。
お父様も、お母様も、本当に大好きだ。それは前世と扱うことにした記憶を得る前からずっと変わらない。むしろ片親で育てられてきた記憶を得たことで、今のこの状況のありがたみが痛いほどにわかるようになった。こんなに幸せで良いのかとすら思ってしまう。
きっと私はこの幸せのために、これからも努力していくのだろう。