02.目覚め
「……とにかく一度整理してみよう」
突然頭の中に入り込んできた記憶は井野原麗緒奈という女性のもので、少なくとも同じ国の人間ではないみたいだ。というかここローザリア王国すら知らないらしい。ただ私も屋敷の外の世界については正直まったく知らないので、あまり人のことは言えないか……。
そんな見知らぬ国の人間であっても共通している事柄がいくつもあった。具体的には私がこれまで使ってきた言語は彼女の記憶の中のものと全く同じなことが挙げられる。
正確には日本語ではなく公用語であるアルメリア語なのだけれど、その中身は何も変わらない。庭に咲いている花の名前も、昨日の夕食の料理の名前だって一緒だ。
「お互い、相手の国を知らないだけなのかな……?」
これだけ共通する部分が多いのであればそう遠い場所ではないだろう。彼女の中の世界地図も曖昧だしきっとそうだ。記憶を得た理由こそわからないけれど、それならいずれこの不思議な現象の謎を解くヒントに出会えるはず。
最初こそ訳がわからなくて混乱していたけれど、希望が見えてようやく少し落ち着いてきた。
立ち上がって自室のドアを開けて廊下に出てみる。部屋のカーテンは閉められていて気付かなかったが、廊下の大きなガラス窓からは既に夕日が差し込んでいた。
「もう夕方だったんだ……」
お昼を食べたあと庭で愛犬のポムと遊んでいたところまでは覚えている。しかしそれからどうなったのかの記憶は残念ながら一切ない。とにかく誰でも良いから何があったのかを聞きたいところだ。
しかし普段最も身近にいる侍女のアンナは忙しくしているのか、珍しく部屋にその姿はなかった。……まぁ私がこの時間にベッドに寝ていた時点で普通じゃないのだから、いつも通りを期待してはいけない。
ひとまずお父様たちに会いに行ってみることにしよう。いつもこのくらいの時間なら執務室に居るはずだ。
夕日でオレンジ色に染まる静まり返った廊下を突き進む。
そのまま中央の玄関ホールに差し掛かると、階下の厨房の方から賑やかな声が微かに聞こえてくる。おそらく夕食の準備のためにみんな忙しくしているのだろう。
人が居るならあっちでも良かったかなとも思いつつも、階段を降りるのも面倒だということで結局続けて廊下を五メートルほど歩いたところ、目的地である執務室の方向の曲がり角から二人の女性が姿を現した。
それはアンナとお母様の侍女のニーナだった。
「レナお嬢様!」
こちらの姿を認めたアンナが慌てて駆け寄ってくる。一方のニーナはすぐさま踵を返してまた曲がり角の向こうへと消えていった。おそらく両親に私が目覚めたと伝えに戻ったのだろう。
「お目覚めになられて本当に良かったです。どこか具合の悪いところはございませんか……?」
「特に悪いところは無いみたいだけど……何が起こったの? よく覚えてなくて……」
私がそう尋ねるとアンナは神妙な顔つきで、ゆっくりと話し始めた。
「昼食の後、ポムと一緒にお庭で遊んでいらしたところに突然空から雷が降り注ぎまして、それがお嬢様に……」
「えぇ……何それ……?」
あまりにも現実味のない出来事に呆然と聞き返すことしか出来なかった。青天の霹靂なんて本当に起こり得るものなのだろうか……。
アンナも困ったように目を伏せて首を横に振る。
「こんなことは初めてでして……。旦那様も奥様もあれが何だったのかは御存じないようです」
「――そうだった、これからお父様とお母様に会いに行こうと思ってたの」
「それでしたら今ニーナがお目覚めになられたことを伝えに戻りましたから、きっと飛んでこられますよ。大変心配しておられましたので……。ですからお嬢様は部屋でお待ちになるのがよろしいかと」
やっぱりさっきの予想で正解だったみたいだ。こちらに来てくれるというのであれば、お言葉に甘えて部屋で待たせてもらおう。
そのまま部屋に戻ってベッドに寝かされて待っていると、アンナの言う通りすぐに両親が部屋に飛び込んできた。どちらも不安気な顔で慌ててこちらに駆け寄ってくる。
「レナ! 大丈夫か!?」
「目が覚めて本当に良かった……!」
すぐさまお母様が抱きしめてくれて、私と同じ明るい金髪がさらりとこちらの頬を撫でる。同時にふわりと大好きなお母様の匂いが鼻孔をくすぐり、こちらの気持ちを落ち着かせていく。
本当に心配してくれていたのだろう、二人とも顔色が悪い。それなのに一方の私は体力的にはピンピンしていると言っても過言ではなく、なんだか逆に申し訳ないくらいだった。
「お父様、お母様、ご心配をおかけしました」
「身体の具合は大丈夫かい? 倒れてからもう四時間も意識がなかったんだ」
「雷に打たれたと聞きましたけど、本当に何ともないのです……」
自身の両手やお腹あたりに視線を落としてみても特に異常は見当たらない。普通人間が雷に打たれた場合、心臓が止まったり、火傷を負ったりと、とにかく無事では済まないはずなのに。強いて言うなら記憶が少々……とは流石に言えないけれど、普通ではないのは確かだった。
下を向いて頭が下がっていたところを、お母様が優しく撫でてくれる。
「不思議だけど無事ならそれで良いわ。食欲はある? 何か軽い物でも運ばせる?」
『……ぐぅぅ』
食事の話になった途端、私の小さなお腹が大きな音を立ててしまう。私はもちろん、両親もその音に目を丸くしている。
「えっと、お腹が空きました……」
顔が赤くなるのを感じつつ、自然と表情がふにゃりと緩んだ。それを見て両親の顔にもようやく笑みが戻ってくる。
「ふふっ、じゃあ今夜は御馳走にしないとね。準備が出来たら呼ぶから、それまではゆっくり休んでおきなさい」
「また後でね!」
二人は私の額にキスをして笑顔で小さく手を振って退室していく。入れ替わりでアンナが心底安堵したようにこちらにやってくる。
「本当にご無事で良かったです。生きた心地がしませんでしたよ……」
「心配掛けちゃってごめんね……」
目を離していたわけでもないのに、いきなり気を失われたら誰だって焦るだろう。いつも仕事をそつなくこなす彼女の顔には疲労が浮かんでいる。
「いえ、奥様の仰られた通り無事であれば我々もそれで充分です。さぁさ、お召し替えに致しましょう。夕食の準備にはもうそこまで時間は掛からないはずですから」
彼女に着替えを手伝ってもらいながら、自然と目覚めてからのやり取りを振り返る。
両親も、アンナたち使用人も、皆が私のことを大切にしてくれている。これまではそれが当たり前だと思っていて、疑問を抱いたことすらなかったと思う。
そこに気付けた理由はわかりきっている、突然頭に飛び込んできたこの記憶のお陰だ。彼女が求めて止まなかった理想の家庭がここにあるから。
……あぁ、私はなんて幸せ者なのだろうか。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
お父様はああ言ってはいたものの、やはり心配はされているらしく、夕食は消化の良さそうなメニューになっていた。私のような何でも美味しいと感じる貧乏舌でなくとも、どれも紛れもない御馳走だ。全てペロリとたいらげてみせる。
特別に急遽用意してくれたらしい大好物のイチゴのタルトをじっくりと味わう私を見て両親も嬉しそうだ。
「その食べっぷりなら本当に大丈夫そうだね。予定通り家庭教師を呼んでも問題ないだろう」
「家庭教師?」
「レナももう七歳だからね。学園に入る十歳までに勉強しておかないと」
「入ってから恥をかかないように準備しておかないとね~」
彼女の国ならもう学校に通っている年齢だけれど、どうやらこちらの国ではもう少し後になるらしい。私も流石に大人になるまでずっと今の調子で遊んでいられるとは思っていなかったし、何であれ学べる場所があるというのはとてもありがたいことだと思う。
「卒業したらもう相手を見つけて帰ってくるんだろうなぁ……レナはシェーラに似て美人だから……」
すると突然お父様が諦めの入った表情とともにがっくりと肩を落として呟いた。
「相手、ですか?」
……嫌な予感がする。
「そうさ、十五歳で卒業したらすぐに成人式だからね。在学中に将来の伴侶を見つけて卒業後に結婚するのは貴族なら別におかしなことじゃない」
(十五歳でもう結婚の話になるの!?)
記憶の中の基準では確かに結婚可能な年齢には大差ないけれど、実際に行動に移すのはその倍生きてからでも何もおかしくない。どうやら彼女の国とこちらではその辺りの常識に大きな隔たりがあるようだ。
学園が婚約者探しの場でもあるというのならもう楽観は出来そうにない。学園と聞いてすぐに浮かんだ不安から目を背けてはいられないらしい。
将来彼女と同じか、それ以上の美人になる顔が私にも付いているのだから、ほぼ間違いなく彼女の記憶の中にある混沌とした学生生活よりも更にドロドロとした人間関係になってしまうことだろう。
婚約者探しが当たり前なのであれば相手は更に遠慮がないだろうし、こちらには貴族制度もある。うちよりも階級が上の相手で頭や性格が残念な坊々に気に入られたらもうそれだけでお先真っ暗じゃないか。
条件の良い相手ともなれば他にも狙っている御令嬢は多いはずだし、それらに睨まれたせいで嫌がらせを受けるなんていうのも想像に容易い。それでもまだ良い方で、刺客を放たれて暗殺されるだとか、変な噂で国家反逆を疑われて処刑されるだとか、碌でもない結末しか浮かんでこない。今の時点で既に不安しかない。
「向こうで必ず相手を見つけないといけない訳ではないのですよね……?」
「それはそうだけど……可愛いレナを放っておく男なんていないと思うよ?」
「レナちゃんなら選り取り見取りよね~」
両親はどちらも私がモテることに疑いなど一切ないようだ。……残念ながら私もそう思う。
「……あまり嬉しそうじゃないね。こういう話は嫌いかい?」
お父様は苦笑いしている。どうやら表情に出すぎていたらしい。
「そうですね……。あまり実感が湧かないので私としては当面は学業を優先したいと思います。真面目にしていれば良縁はきっと向こうから舞い降りてきてくれるでしょうから」
少なくとも私から男に近寄るような真似はしないとそれとなく宣言しておく。元々その気はないとはいえ、さっきのお父様の反応からして私がガツガツ行くと言ったところで喜ばないだろう。
「……それとも、お父様は私に愛のない結婚をして欲しいですか?」
「まさか! 僕たちは恋愛結婚なんだ、出来ればレナもそうあって欲しいと願っているよ」
両手を振って慌てて否定するお父様。二人は仲が良いだけあって恋愛結婚だったようだ。記憶の中の彼女が最も望んでいた関係性だけあって正直とても羨ましい。私もこうなりたい。
「そうよね~。私としては結婚せずに屋敷に居てくれても……」
「……シェーラ、それは言わない約束だろう?」
「あっ、そうだったわね。ごめんなさい、つい……」
今の会話を聞く限り、お父様もお母様も何が何でもすぐに結婚しろというスタンスではないようで少しだけ安心した。
「なんにせよお相手次第ですね。今の私に出来ることは入学までの間にちゃんと勉強することだけだと思います」
「うん、そうだね。しっかり頑張りなさい」
お父様もお母様も、私がここまで学園に対して良いイメージを持っていないだなんて思ってもみないだろう。明るく背中を押してくれているだけに学園に行かないという選択肢は出来れば取りたくない。貴族のレールから外れてしまっては二人にも迷惑が掛かってしまう。
焦りを悟られないように気を付けながら、その後も両親と他愛のない会話をして過ごした。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
部屋に戻った私は記憶の中の学生生活を振り返る。こちらの容姿だけを見て舞い上がって告白してくる男子生徒たち、こちらの気も知らずに嫉妬して攻撃してくる女子生徒たち、いやらしい視線を向けてくる教師に、セクハラしてくるアルバイト先の店長、どれも碌でもない思い出だ。
それらが来たる学園生活に激しく警鐘を鳴らしている。
見ず知らずの人間の記憶なんて普通は信用しないものなのかもしれないけれど、私の心に根付いてしまっている憤りと後悔が疑うことを許してはくれない。
「このままじゃいけない、何か対策を考えないと……」
あんな最期は、あの時のような気持ちを抱くのは――もう二度と御免だ。