139.★説得(ウィリアム・ナーフェ視点)
古びた教会でみすぼらしい格好の子供たちに囲まれて困った顔をしていたクローヴェル卿は、格好だけ見れば普段と何ら変わりなかった。
しかしそれはあくまで格好だけ。これまでの彼女を知っている人間からすれば本当に同一人物なのかと疑ってしまうほどに、身に纏っている雰囲気が違っていた。
弱々しく、自信なさげで、いつもの堂々と我々を従えて引っ張ってくれていた時のような覇気がまるで感じられなかったのだ。
「何故ここに来たのかくらいは想像がついているだろう。話がしたい」
「……はい」
状況が理解出来ずに不思議そうな顔をしている子供たちを残して教会を離れる。村の入口へと歩く間も村人たちが、見慣れぬ集団が彼女を連行しているような様を不安気な顔で眺めている。
――空気が重い。
俺はてっきり卿と再会した殿下は胸を撫でおろし、いつも彼女に向けている優しい口調で国に戻るよう諭すものだと思っていた。だがこの張り詰めるような空気ではそれとは違うのだと俺でも容易に察せられる。
集団は無言のまま村の入り口に掛かっている、古びてはいるが頑丈な作りの石橋までやってきた。ここならば村人たちに聞かれることはないだろう。
足元では切り立つ崖の間を風が低い音を立てて吹き抜けている。
「――では聞こう。其方は今、何をしている?」
殿下が卿を真っすぐ見据えて問いかけるが、一方の彼女は身の置き所がなさそうに顔を逸らし、俯いている。
「魔物が出現したこの村を誰も助けようとしないことに居ても立ってもいられず……。討伐後は復興の手伝いをしておりました」
彼女は助けを求めた少年に対して、その場の人間が誰一人取り合おうとしなかった状況を語る。『虚杯の民』――寄付金が足りないせいで不信心者と扱われている者たちへの差別を目の当たりにして居ても立ってもいられなかったのだろう。
自国にはそのような恐ろしい寄付などないので、その状況に憤りを覚えることに違和感はない。ひとりで魔物を殲滅出来るかは別として、俺も同様の心境になることだろう。
「そもそもの話として、何故国を出た?」
「……私がいると大切な人たちに理不尽が降りかかってしまうからです」
「其方の使用人の一人が被害に遭ったそうだな、報告は受けている。顔も知らない相手ではあるが気の毒な事件だった」
「……ッ!」
完全に他人事のようにしか聞こえない殿下の返事に対して、彼女は堪えるように奥歯を噛み締め、両の拳を硬く握りしめている。
何故殿下はこのように堅苦しく突き放した物言いをなさるのだろうか。俺が予想していたように優しく諭してはいけないのか。これでは逆効果のように思えるのだが……。
しかしひとまず彼女の考えを直接聞いてようやくこれまで抱いていた疑問に納得がいった。大切だからこそ、自ら身を引いて距離を取ることで理不尽から皆を遠ざけようとしているらしい。
(だが果たして本当にそれで良いのだろうか……?)
話を聞いても尚、俺の考えは変わらない。
この村のように魔物の襲撃があっても、物理的な距離があってしまえばもう気付いて助けに行くことすら叶わないではないか。彼女が原因で振りまかれる理不尽とやらが今後もどれだけあるのかは知らないが、近くに置いておいた方がよほど安全ではないだろうか。
「其方は騎士長という立場の身だ、そのような漠然とした理由で国を飛び出してはただの職務放棄としか言いようがない。それで、これからどうするつもりだったのだ?」
「………………わかりません」
「わからないまま、また大切な人を増やそうとしているのか?」
「う……」
殿下の言う通り、俺の知る彼女であれば、いずれこの村の人々も彼女にとって大切な者たちになってしまうだろう。この人は困っている人々を見過ごせない情に篤い人なのだから。
「まったく、其方ほどの人間がここまで自分を見失うとは嘆かわしい……」
「何よ、人のことをわかった風に……」
彼女が押し黙ったのを見て殿下が溜め息を吐く。そしてそれを見て彼女は苛立った様子でぼそりと呟いた。
「……わかるさ。理解するためにこれまで努力をしてきたのだからな。とにかくローザリアに帰るぞ。己の立場や使命を思い出すのも、反省するのもあちらですれば良い」
殿下は身を翻しながら国に戻るよう促すものの、納得がいかないのか彼女は動かない。俯いて立ち尽くしたままだ。
「こうやって理不尽を言い訳にただ逃げているだけでは其方の大切なものは守れない。其方のそんな情けない姿など俺は見たくないし、今後も改められないのであれば俺のこれまでの努力は全て無駄だったということになる」
(……ッ!?)
足を止めて振り返りながら、こちらが思ってもみなかったことを口にする殿下。
レッドドラゴン討伐の時に再開してから、あれだけ好意を示し続けてきた殿下が初めて彼女を突き放したのだ。これには俺だけでなく他の護衛騎士三人も唖然としている。
「逃げるなですって!? そんなこと貴方にだけは言われたくないわ!」
そしてそう言い放たれた彼女は不快感を露にし、声を荒げて言い返し始めた。
「学園で現実を直視せずに目の前のフェリシアを蔑ろにしたのは誰よ! 平民として生きようとしていた私を取り込もうと接触してきたのは誰よ! 皆の前で王太子妃候補だとバラしたのは誰よ! 誰のためにリヴェール領に赴いて、公爵夫妻に利用されるだけされて、結果的にエマが襲われることになったと思ってるのよ!!!!」
「……ッ!」
怒涛の勢いで責め立てられ、流石の殿下も言葉に詰まる。俺はもう殿下の発言から脳の処理が全く追い付いておらず、その内容までは頭に入ってこなかったのだが……。
「ここまで私に関わってきておいて、その結末から逃げてるのはどっちよ! ……貴方が私に一目惚れなんてしなければ、こんなことにはならなかったのに!」
俯いたまま息を切らせてそこまで言い終わった彼女は、ハッとして殿下の顔を見た――が、すぐさまバツが悪そうにまた目を逸らした。
その殿下は目を見開いて、言葉もなく立ち尽くしている。
長い沈黙が流れる。
「……あれだけ守ってみせるって息巻いておきながら身内一人守ることすら出来ない私に価値なんて無いのよ」
その沈黙を打ち破ったかと思えば、自虐的に吐き捨てて身を翻すクローヴェル卿。
――彼女が遠ざかっていく。
しかし、肝心の殿下は動かない。当然俺も今の彼女を説得するための言葉など持ち合わせていない。
このままでは彼女を国に連れ帰ることなど出来そうにない。
二人の関係に大きな亀裂が入ったままでは、尊敬する殿下と、クローヴェル卿が共に幸せになろうとしていた未来が崩れてしまう。これまでに周囲が思い描いた未来からも大きく外れてしまう。
だというのにただ遠ざかる背中を眺めることしか俺には出来ない……。
「ふざけないで!」
すると、先程の卿に負けないくらいの怒気を含んだ声が横から上がった。その声の出所は彼女を追いかけるように二つに結んだ髪を揺らしながら歩く小さな人物――ミーティアからのものだった。
『パァン!』
なんと次の瞬間、その声に反応して振り向いたクローヴェル卿の左頬を、ミーティアが右手を思い切り振りかぶって叩いてしまった。その渇いた音が我々の間を一瞬で駆け抜けていく。
動きを見ればわかる、あれは間違いなく全力だった。
不意を突かれたクローヴェル卿はバランスを崩し、尻餅をついた。何が起こったのかわからないのか、呆然としながら自らの左頬を押さえてミーティアを見上げている。
「さっきから何よ!? 『守る』『守る』って! 一体何様のつもりよ!?」
「ぇ……?」
「確かに貴女からすれば戦えない平民たちは勿論、私たちも守らないといけないか弱い存在でしょうよ! でもね! 四六時中守ってもらわないといけないほど私たちは弱くないわよ! 一体何年ローザリアの歴史があると思ってるのよ!」
そして卿に続いてミーティアまでもが、これまでに見たことがないような怒りを湛えて目の前の相手に言葉をぶつけ始めた。
「そりゃ誰だって守ってもらえたら嬉しいわよ、自分を気に掛けてくれる人がいるなんて心強いに決まってる! でもだからといって、出来もしないことを求めたり、ましてや失敗を論うような恥知らずな真似なんてしない! 守れないから価値がない? そんなことない! 貴女は既に沢山の人を守り、そして救っているわ! 私だって実際に命を助けられた! もうそれだけで充分過ぎるほどに救われているの! 貴女が私たちを守ろうとしてくれると行動と態度で示してくれているから、私たちはそれに報いようと頑張れるのよ! 仮に死んでしまおうとも、悲しんでくれるってわかっているから頑張れるのよ! 貴女はそんな皆の心の支えなの!」
凄まじい気迫。怒りに任せてぶつけられる言葉の洪水。
しかしそれも時間を経るごとに勢いが失われていく。
いつしかミーティアの目からは涙が溢れ、紡がれる言葉がみるみる弱々しくなっていく。
「なのに何でそんなに自分を追い詰めるの……? 貴女に報いないといけないのはこっちの方なのに……。たった一度の失敗で、まるで助けられた私たちとその感謝の気持ち全てが、最初から存在していなかったみたいに言わないでよ……!」
そこまで一気に言い切ったミーティアは膝をつき、クローヴェル卿に抱き着いた。背中に回している腕が卿の身体に強く食い込むほどに強く。
そして顔を卿の身体にうずめ、肩を震わせて静かに泣き始めた。
クローヴェル卿は尻餅をついたまま、両腕をだらりと下げて、呆然と己を抱きしめているミーティアを見下ろしている。
「……レオナ様。今、エマがどうしているか知っていますか?」
そこにレベッカがミーティアとは対照的に落ち着いた優しい声で問いかける。クローヴェル卿は表情が抜け落ちた顔のまま、レベッカを見上げて小さく首を振る。
「彼女は婚約者と一緒にもう仕事に励んでいるのですよ。少しでも商会を大きくして、レオナ様が帰ってきたら驚かせるのだと意気込んでいました」
「エマがそんなことを……」
「……彼女たちが嫌いですか?」
「そんなわけない! 今だって大好きに決まってる!」
そう大声で必死に訴える彼女の目から大粒の涙が零れ落ちていく。彼女の涙を見るのはこれで二度目になるが、こうしているとやはり特別でも何でもない、同い年の普通の女性でしかなかった。
「ならローザリアに帰りましょう?」
「私……またみんなと一緒に居ていいの……?」
「貴女がみんなのことを想ってくれているように、みんなも貴女の帰りを待っていますから」
「うっ……うぅ、うわぁぁぁぁぁぁ!」
「あぁぁぁぁぁん!」
クローヴェル卿は既に抱きしめてきているミーティアを抱きしめ返し、二人で大声を上げて泣き続けた。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
彼女たちが落ち着くまで、その様子をじろじろ見ないようにハロルドと共に少し離れた位置で待つことにした。
「どうした? お前まで泣きそうな顔してるぞ」
「……む? そうか……。こういった話になるとあまりにも役に立たないものだから、知らず知らずのうちにショックを受けていたのかもしれんな」
わかっていたこととはいえ、やはり俺には難しい話だった。今回は特に殿下の心境が読めずに戸惑ってしまった。
「お前にはピンと来ないかもしれないが、共感性が高すぎるとか、気持ちを推し量りすぎるようになるとそれはそれで大変なものだぞ」
「そういうものなのか……?」
「あぁ、今回のクローヴェル卿は相手を想うばかりに迷惑になると思い込んで逃げてしまった。その相手はそんなことを望んではいなかったというのにな」
守りたい者の傍から離れるべきではない、という俺の考えは結果的には間違っていなかった。何事も過ぎたるは及ばざるが如しということなのだろう。
「ならその彼女に殿下は何故あんな突き放し方をしたのだ?」
ちらりと顔を向けると、殿下はひとり離れた場所で遠くを見つめて佇んでいた。しかし続けて安易に質問したせいか、ハロルドに溜め息を吐かれてしまう。
「別に俺の考えが常に正しいってんじゃないんだがな……。とりあえずお前の考えを言ってみ?」
「『この場では憎まれても良いから、とにかく連れて帰りたかった』だとは思うのだが……それはともかくとして、そうすることを選んだ理由がわからないのだ」
回答としては中途半端であるにも関わらず、珍しくハロルドは深く頷いて返した。
「そうだな、普段の殿下ならあそこまでキツい言い方はしないだろうから意図的なものだろう。正直俺にも理由はわからん」
「お前でもか……」
「俺たちがリヴェール領に行っている間に何かあったと見るのが妥当だが、教えていただけない以上はな……」
殿下にその気がないのであれば、我々にはその先を知ることは不可能だ。王族の本気のポーカーフェイスに敵うはずがない。
「しかしあれだけ言い返されて関係修復は可能なのだろうか……」
「あ~……」
ハロルドは困ったように後頭部を掻きながら、卿と殿下にそれぞれ視線を向けた。
「……まぁ大丈夫だろ、結構な言い掛かりも中にはあったからな。クローヴェル卿なら冷静になれば自分の発言がおかしかったことにはすぐに気付くだろうし、放置もしないと思うぞ」
少々投げやりな気もするが、そこはクローヴェル卿が気持ちを推し量れる人物であるという信頼から来ているのだろう。確かに俺が心配することではないのかもしれない。
何か頼まれごとがあればしっかりと応えるくらいの心持ちでいておこう。
「――さて、そろそろ落ち着いたんじゃねぇかな」
そう言って欄干にもたれ掛かっていたハロルドが彼女たちの方へと歩き出した。俺もそれに続くと、一人離れた場所にいた殿下もこちらに歩き出していた。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
クローヴェル卿と殿下、それぞれが男女の騎士に付き添われながら向かい合う形になる。待機していた時間がそれなりにあったせいか、二人の向こう側では夕日が空を朱く染めはじめていた。
「我々民の上に立つ者は逃げずに戦い続けなければならない。それは騎士長も例外ではない。以前俺に語った『強者の筋』を今一度思い出せ」
「……はい。大変お見苦しいところをお見せして申し訳ございませんでした」
立ち直った彼女が頭を下げるが、これまでずっと冷淡だった殿下はどこか居心地悪そうにしている。
「バルゲルも言っていた。いずれ其方でもどうにもならない理不尽がやってきた時に、心が折れないように傍で支えられる者が必要だと」
「お師匠様……」
「この際、俺のことはいい。其方にはその理不尽に立ち向かうための仲間がいる。――それだけは忘れないでくれ」
その言葉を聞いて俺もほっとする。やはり殿下も彼女のことを突き放したくはなかったのだろうなというのが伝わってきたからだ。
「……承知致しました」
再度深々と頭を下げたクローヴェル卿は、その後おもむろに欄干の方へと歩き出した。
俺を含むこの場の全員がその様子を不思議そうに目で追いかける。南国と言えど太陽の力が弱まってきたところに崖沿いの風が吹き抜けると、日中にはなかった肌寒さを感じる。
すると彼女は突然腰に下げたナイフを抜き、左手に持ちながら両手で髪を後ろ手で纏めはじめ――
『ザシュッ』
なんと髪の束を右の片手に持ち替えた次の瞬間、ナイフで横にひと撫でして切断してしまったではないか。
予想していなかった行動に固まる一行。その誰もが無言のまま彼女の右手に掴んだまま揺れている髪束を見つめている。
『――――わああああああああ!!』
止まっていた時が動き出したかのように、レベッカとミーティアが絶叫する。
しかし彼女はそれを気にする様子もなく、その髪束を橋の向こうへとばら撒いた。
その美しい長髪は夕日に照らされてキラキラと金色に煌きながら、風に吹かれてあっという間に見えなくなってしまった。その幻想的な光景には絶叫していた二人も言葉を失い、見入ってしまっている。
風の音だけが聞こえる中、一度深呼吸をした彼女が振り返る。
肩より少し短いくらいの長さの髪になった彼女のその顔は――――いつもの美しく、優しく、それでいて自信に満ちた凛々しいものに戻っていた。
守護者はもう揺るがない。




