13.追跡者
「うぅ、頭がクラクラする……」
目覚めてからずっと、動きの止まった土の壁の暗闇の中でおかしくなった三半規管とそこからくる吐き気を相手に格闘している。あの高さから落ちるように転がったのだから無理もない。
両親との別れに大声をあげて泣きたかったけれど、崖を転がり始めるとそれも叶わなかった。舌を噛まないように口を閉じ、頭を抱えて、中で動かないように足と背中で踏ん張る――ただそれ以外に何も出来なかったのだ。
『ガコン……ガラガラ……』
じっと動かず安静にしていると、私を包んでいた土の壁の天井部分が前触れもなく突然崩れ出した。雨はいつの間にか止んでいたようで、真っ暗だった土の中に夕日が差し込んでくる。
そのおかげで今自分が包まれているものが、外側はカッチリとした岩で固められているが、内側はふかふかの土で覆われている二重構造になっていることに気が付いた。
こんな土の壁ひとつにも私の身体を気遣う両親の愛情を感じられると共に、それが崩れていく様が、二人が遠いところへ行ってしまったのだということを否が応でも連想させられてしまい、どうしようもなく胸が苦しくなる。
「お父様……お母様……ううぅ」
少しでも頭の中に両親が浮かんでしまえば、もう寂しい気持ちが止められない。これまでの暮らしや最後の両親の顔を思い出してしまい涙が溢れてくる。
ここは樹海のどこなのか。
私はここから出られるのだろうか。
出られたとしてこれからどうなるのだろうか。
そんな不安が浮かびはするものの、悲しみに埋め尽くされた頭ではそれ以上考えられない。
ただひたすらに泣き続けた私は、いつの間にか泣き疲れて眠ってしまっていた。
両親が最後に私のために作ってくれた土の壁に包まれながら――。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
目を覚ました時にはもう夜が明けていた。樹海の木々に遮られてわかりづらいが、おそらく七時前後だと思われる。
すっかり崩れてしまった土の壁から抜け出し、辺りを見渡す。
(うぇっ……!?)
周囲の状況は凄惨なものだった。これまで土の壁の中にいたから全く気付かずにいられただけで、今も変わらず非日常の中にいたのだ。
私と同じように上から落ちてきたのであろう馬車の残骸や、人や馬「だったもの」が無数に転がっている。中にはレッドドラゴンの炎で真っ黒に焦げたものまであった。
雨だろうが関係なく燃やし尽くしているその恐ろしさに身震いする。
(このままだと匂いを嗅ぎつけて獣が集まってくるわよね……すぐに離れないと……)
本当なら崖沿いを進んでいけたら良いのだが、この調子では恐らくずっとこんな光景が広がっているだろう。流石に危険過ぎる。
私は辺りに散らばるものの中から積み荷として運ばれていたであろうリンゴを見つける。その大半がぐちゃぐちゃに潰れていたものの、比較的傷の少ない物が数個あったので、まだ食べられそうな部分だけを剣で切り取っていく。
「勝手に持って行ってごめんね……。無駄にはしないわ」
ほんの少しだけ抱いた罪悪感を吐き出すために、誰に向けて言うでもなく、そう呟いた。
「進む方向はこっち……かな?」
上の山道に対して、樹海は西から南にかけて広がっている。つまり崖を正面にして左側の方向にルデン侯爵の街フュレムがあるはずだ。
剣を片手に、黙々と樹海を歩き続ける。
最初は崖を遠目で視認できる距離を維持するつもりでいたのだけれど、実際の樹海は崖の上から眺めていただけでは想像出来ないほど地形の起伏が激しく、それすらも難しい。
都合よく道があるはずもなく、巨大な岩や大型の魔物のせいで大きく迂回せざるを得なくなり、そうこうしているうちに方向もわからなくなっていく。
――結局私は自分でも驚くほど、あっという間に迷子になってしまう。
休憩を挟み、拝借してきたリンゴに齧りつく。
もう昼過ぎにはなっているはずだ。ここまで歩いてきて他に食糧になりそうなものはまだ何も見つかっていない。
この世界の植生は何故か前世と変わらないとはわかっていても、市場に並ぶようなポピュラーな食材がこんな樹海にあるわけがないし、野草やキノコについても本で読んだ知識がごく僅かにある程度で、とてもサバイバルが出来るようなレベルではない。
動物の解体の経験はないけれど、この際下手で不格好だろうと構わない、何か動物がいれば魔法で強引に捕まえて食べることが出来るのに、不思議と大型の魔物しか見つけられていない。
もう喉もカラカラだったので、齧りついたリンゴの瑞々しさに感動してしまう。
魔法で水を出したところで、それはあくまで魔力で出来た水であって本物の水ではない。飲めば一時は潤った気分にはなれるけれど、込められた魔力が消えた瞬間に跡形もなく消えてしまい、瞬く間に渇きも元通りになる。
過去に魔法で作り出した水だけで生活しようと試みた研究者がいたらしいけれど、結局彼は脱水症状で倒れてしまう結果に終わってしまったとホルガー先生から教わった。
魔力で作り出した水を使った魔法は難しい。水を直接利用するなら良いが、水を消費して何かをするというのが出来ない。なので私にはあまり他に良い使い道が浮かばなかった。
じっくりと味わうつもりでいたのに飢えと渇きには抗えず、リンゴはあっという間に胃に収まってしまう。
(人間って絶食しても数日は生きられるけど、水は飲まないとすぐ死んじゃうらしいから何としてでも水場を探しださないと……!)
私は身体強化の魔法だけでなく、聴力強化の魔法も併用することにする。川や池の水音を聞き逃さないようにするためだ。これまで特に必要な場面がなかったので、まともに使うのは初めてだったりする。
移動を再開し、道なき道を進む。
聴力強化をした樹海の中は音で溢れていた。むしろ溢れすぎていて、精神的な疲労が思っていた以上に大きい。
大量の葉っぱが頭上で風に揺れ、擦れ合わさった波のような音が絶えず聞こえる。時折、耳を劈くような魔物の鳴き声が行き交ったかと思えば、大型の魔物が歩く地響きのような低い音が空きっ腹に響く。足元の落ち葉や小枝の音なんて距離が近いせいで物凄く煩い。もはや自身の息遣いでさえ不快だった。
正直すぐにでも聴覚強化を切りたいくらいだけれど、それでも命が懸かっている以上辞めるわけにはいかない。
苦痛を伴いながらも懸命に歩き続ける。
そして元々薄暗かったこの場所が更に薄暗さを増してきた頃、ようやく一本の川にたどり着いた。人の手の入らない樹海だからなのか、その水は憎たらしい程に澄んでいる。
「もう見つからずにそのまま死ぬかと思った……」
私は脱力し、近くの大きな岩の上にその身を投げ出した。
川の付近は開けていて空がしっかりと見える。恐らく今は午後四時くらいだろうか、真っ暗になる前にやることをやってしまわないといけない。
起き上がり、身をかがめて水面に口をつけようとした瞬間――ふとあることを思い出す。
「……あ、自然の水って直接飲んだらダメなんだっけ……。確か一度沸騰させないとお腹壊すんだよね。でも沸かすための入れ物なんてないしどうしよう……」
しばらく座り込んで、うんうんと唸る。
その結果出した答えは「沸かすのは無理だから抵抗の魔法に賭ける」だった。
可能な限り抵抗の魔法の出力をあげて、改めて水面に口をつける。
「ぷはっ! あ”あ”あ”あ”生き返るぅ~」
そのあまりの美味しさに思わず天を仰いだ。下手したら後で酷い目に合うかもしれないけれど、今の私にとってこれほど美味しいものなど他にはなかった。
「――っといけない、薪を集めないと!」
ぼさっとしているとすぐに暗くなってしまうだろう。そうなってしまえば薪を集めることすら出来なくなる。こんな状況で一晩中、光源のために魔法を使い続けたくはない。
魔法で出した火であっても、一度何かに着火させられれば、それはもう自然界の火となる。これは私自身が魔力で火をつけるライターみたいなものなのだと解釈している。燃えるきっかけがガスの火だろうが魔力の火だろうが、燃え移ってしまえば関係ないらしい。
魔法で作った水よりは幾分扱いやすくて助かるのけれど、逆に自分の意志では消せなくなるので火事には気を付けないといけない。
「よし、薪集め終わり! 最後は腹ごしらえね。魚っているのかな……?」
試しに雷をイメージした魔力を両手に作り出してみる。いわゆる「ビリ漁」という奴だ。
その手を川に突っ込んでみたその瞬間、複数の魚が水面から飛び跳ね、すぐに動かなくなった。……うまくいったようだ。
「でもちょっとやりすぎちゃったかな」
気絶させただけで殺してはいないはずだけれど、ここは川なので意識のないまま流されていくのはさすがに忍びない。目に付いた魚を回収し、食べる分以外は川縁に石を置いて水たまりを作り、そこに放しておくことにする。
今回は食べがいのありそうな奴を二匹いただこう。何を食べて育っているのかわからないので、岩の上で剣を使って内臓を取り、枝を剣で削って作った串で刺して、たき火でシンプルに焼いていく。
「リンゴ切ったり、魚捌いたり、全然剣として使ってあげられなくてごめんね……。こんなことならナイフをお願いした方が良かったかしら……」
大切で思い入れのあるものだからついこんなことを考えてしまうけれど、実際のところ剣があって本当に助かっている。
「そろそろ焼けたかな?」
串を手に取り、恐る恐る齧りついてみる。ほろりと身がほぐれ、咀嚼するたびにじんわりと口の中に旨味が広がっていく。夢中で味わっているうちにストンと空っぽの胃に落ちていってしまう。
「うん、思ってたよりも泥臭くもないし、身もふんわりしてて美味しい……! お塩があればもっと美味しいんだろうけど、こんな場所じゃ無理よねぇ……」
多少味気ないにしても、飢えと渇きが満たされるならそれで充分だった。昼のリンゴ同様、あっという間に平らげてしまう。
お腹も膨れてようやく一息つけたことでどっと疲労感が押し寄せてくる。
一日中歩き回っていたので、たき火の炎を眺めているだけで眠気が襲ってくる。こんな場所で何もせずに眠って大丈夫なのかという疑問が浮かんではくるものの、それすらもうまともに考えられそうにない。
まさに寝落ちする瞬間――突如これまでに感じたことのない違和感に襲われてハッと周囲を見回す。
(どこからか見られてる……?)
私は聴力強化を再度使用し、音を頼りに真っ暗闇の周囲を探る。
(……たぶん複数に囲まれてるわね。獣か魔物か、どちらにせよ敵だわ)
危なかった……。あのまま寝ていたらそのまま襲われて死んでいただろう。
いつ襲撃があってもいいように剣を手にして身構える――が、相手は一向に襲ってくる様子はない。しかしその視線と気配は変わらず私に纏わりついて離れない。
この暗闇の中ではこちらから手を出すのは困難だし、この場を離れるなんて論外もいいところ。これではいつまで経っても休めないではないか。
(はぁ……せっかく一息つけたと思ったのに……)
今の私ではそう心の中でぼやくくらいしか出来ない。
ようやく気持ちが上向いたところだというのに、一転して不安で満たされたまま夜を過ごす羽目になってしまった。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
結局、夜が明けるまで無言の戦いが続いた。……いや、今も続いている。
夜と違うのは周囲が暗闇でないことと、私が移動しているという点だ。
「アオオオオオオオオオオン」
相手は夜よりも距離を取って遠巻きに囲んできているが、「俺たちは見ているぞ」と言わんばかりにこれ見よがしに声を上げ、仲間と連絡を取り合っている。鳴き声を聞く限り狼の類のようだ。
こちらから距離を詰めると、向こうはその分だけ下がっていく。真っ向から戦う気があちらには一切ないのだ。ここまで徹底されると倒すのは難しい。
あの場に留まっても状況が改善されないのは明らかだし、敵に囲まれた状態で当てもなく彷徨って水や食料に困るのは避けたかったので、川から離れないことを選択し、今は川下を目指して移動している。
結局『抵抗』の魔法では対策にはならなかったらしく、私はお腹を壊した。それでも川の水を飲む以外に渇きを抑える方法がわからず、今も飲み続けている。
徹夜明けに腹痛を抱えながら歩き回ったものの、特に進展のないまま二日目の夜を迎える。どうやら奴らは私が弱って動けなくなるまで直接手を出す気はないらしい。
水と食糧は何とかなっても、睡眠を一切取らせてもらえず、夜の間は常に警戒しっぱなしというのは体力的にも精神的にも堪える。
二徹までは前世でも経験はあるけれど、大人の身体で命の危険のない環境だから出来ただけで、この小さな身体では既に比較にもならないほど辛い。
こんな状況であと何日持つのだろうか……。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
二日目の夜を乗り越え、遭難三日目の朝――。
変わらず川下へと移動するが、昨日の半分程度のペースでしか進めない。
運動量に対してミネラルが足りていないからか、頻繁に足が攣ったりして踏ん張りが効かず、川岸にごろごろある石の上で何度も体勢を崩した。
それでも剣を杖替わりにしながら、ひたすら歩き続ける。
三日目の夜――。
奴らは相変わらず手出しはせず、ただ取り囲んでくるだけだ。
一方の私は警戒が途切れ、ぼーっとしてしまう時間が増えた。眠くなることを気にして食事も喉を通らなくなってしまった。
長い沈黙の時間、私は気を紛らわせるために頭の中で考えごとをしようとする。しかしこんな状況では得てして思考がネガティブになってしまうものだ。自身が動けなくなる未来ばかりが頭に浮かび、必死にそれを振り払う。
『生きて。そして幸せになってね』
お母様の別れ際の言葉が甦る。
二人が命を懸けてあの場から逃がしてくれたから、私はまだ生きていられているというのに……。
それなのに今の私にはゆっくりと、しかし確実に死が忍び寄ってきている。
折角助けてくれた両親に申し訳なくて泣きたくなるけれど、既に泣く気力すらない。
(嫌だ……まだ死にたくない……)
もはや限界が訪れるのは時間の問題だった。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
四日目の朝――。
もう歩く気力も湧かず、川縁に座ったまま動けなくなってしまった。奴らの鳴き声を聞きながら、気を失ってやるものかと頻繁に川の水で顔を洗う。
ここまで来てしまうと、襲われた時にどう一矢報いてやるかという風に思考が変わってきていた。なのでいつ襲われても良いように剣だけは手元から離さない。
しばらくして、背後の茂みからガサリと音がした。いよいよ奴らも狩り時だと判断したのだろう。
(遂にこの時が来たのね……)
剣を握る手に最後の力を籠める。相手は複数だ、背後以外からの攻撃にも神経を研ぎ澄ませなければ。
……しかし十秒ほどそうしていても一向に襲ってくる気配がない。
不思議に思ってゆっくりと振り返ると、六十は間違いなく過ぎているであろう白髪の男性が驚愕の目でこちらを見ているではないか。
「こんなところに子供だと……!?」
私の脳が狼ではなく人の姿を認識した瞬間、言葉を発するよりも先に意識を繋いでいた鎖が千切れた――。