12.別れ
遂に学園への入学が目前に迫ってきた。
真面目に授業を受け、剣術や魔法の訓練を重ねてきたのはこの日のため。まず間違いなく荒れるであろう学園生活に向けて思いつく限りの準備をして備えてきたつもりだ。後はこれから会うであろう学生たちの反応に因るところが大きいと思う。
「それにしてもここを通る度に思うんだが、もう少し何とかならないものかな……」
お父様が苦い顔でぼやいている。
私たち家族と侍女のニーナを乗せた馬車は学園のある王都に向かうために、中央山脈と樹海の間にある険しい山道を進んでいた。馬車がどうにかすれ違える程度の道幅しかないこの道の山脈側は垂直な壁で、樹海側は断崖絶壁とまではいかないものの、「転がる」というよりは「落ちる」に近いレベルの急斜面になっている。
恐らく下からなら見上げるほどに高い樹海の樹木たちが遥か眼下に広がっている光景は非常に壮観ではあるのだけれど、今にも人が落ちそうで気が気でない。実際年間で何人もの死者が出ているというのだから全く笑えない。いきなり馬車が傾いて崖に転落するのではないかと思うとまったく寛げる気がしない……。
「王都へと繋がる交易面でも重要な道ですから、交通量が多くて整備や拡張をするのも容易ではないのでしょう」
ニーナの言う通り、先程から頻繁に王都側からくる馬車とすれ違っており、その度に慎重に動かなくてはならない為、思うように進まない。完全に現代の高速道路の渋滞のような様相を呈している。
それでもまだ雲が出ていて日差しがきつくないだけマシなもので、もし快晴だったら日光を遮るような場所すらないので、馬車の外にいる人は干からびてしまっていただろう。
ちなみに今回何故いつものアンナではなくニーナが一緒なのかというと、これまで世話をしてくれていたアンナが妊娠し、去年の夏にめでたく男の子を出産したため、現在は屋敷で育児休業中なのだ。
私もその赤ちゃんの様子を何度も見に行っているけれど、とにかく可愛い。全身がすべすべぷにぷにしていて触り心地がたまらない。前世で弟が産まれた時を思い出す気分だった。
「ここを通らないと山脈を北側から大回りしないといけないからな……。わかってはいるけど気が重いよ」
「あなた、流石にこの道を侯爵様に任せきりにするのは可哀想よ。皆が使う道なのだから私たち周辺の領地も協力して差し上げるべきではなくて?」
「……そうだな。一応これまでにもその話が持ち上がったことはあったんだが、色々と利権が絡むのもあって、あちらさんも他領の介入には消極的だったんだ。でも今はレナのおかげで以前よりもずっと良い関係を築けていることだし、改めて進言してみても良いかもしれないな」
私としてはただ同年代の女の子を怪我させたくなかったから守っていただけだったのに、社交面でめちゃくちゃ活躍していたみたいだ。
そういった打算込みで動ける方が貴族らしいんだろうなとは思う。ただ、貴族らしい立ち回り方に関しては前世の記憶はまるで役に立たないので、こればっかりは自力で覚えていくしかない。
(でも私って前世関係なくあまり貴族に向いてない気がするんだよねぇ……)
窓の外を眺めながら心の中で溜め息を吐いていると、何やら道の向こうが騒がしいことに気付く。
「……うん?」
「どうしたんだいレナ?」
この場では景色を見るか、お喋りするか、寝る以外で暇を紛らわせる手段がないので、私が違和感を感じたことに敏感に反応するお父様。
「この先で何かあったみたいです。人が騒いでいるような声がします」
「……ふむ、念のため探らせてみるか」
お父様は護衛の一人に指示を出し、この先の様子を見に行かせた。人の波をかき分けて進んで行く護衛の後姿を何の気なしに目で追いかけてみるが、ものの十秒ほどで兜しか見えなくなる。
「さて、この調子では麓までに馬車の中で何泊することになるやら……」
事故か何かで立往生する未来を想像して家族全員でげんなりしていると、しばらくして護衛の人が血の気の引いた様子で戻ってきた。
「た、大変です! どうやらこの先の道にレッドドラゴンが出現したようです!」
「レッドドラゴンだと!? 何故そんなものがこんな場所に!?」
「わかりません……。しかし道の前方はもう既にパニックになっており、逃げ惑う人々がじきにこちらにも押し寄せてくるかと思われます」
「それは不味いな……。こんな狭い場所では他に逃げ場もないし、馬車では身動きが取れそうにない。……捨てるしかないか」
お父様は真剣な顔で馬車の中の私たちに語り掛ける。
「ここに残っていては危険だ。徒歩での移動になり苦労をかけるが、理解して欲しい」
「もちろんよ! 舐めないで下さいませ!」
「はい、お父様」
「承知いたしました」
お父様はこくりと頷くと、御者や護衛、後続の人間に対して指示を出しはじめた。
馬車を捨て、荷物をまとめて今来た道を歩いて戻っていく。既に後方からはもうハッキリと悲鳴や興奮した馬の鳴き声が聞こえてきている。
「通してくれ!」
何も知らずに先へ進もうとする人や戸惑って足を止めている人の間を掻き分けながら進む。先頭を行く護衛たちの後ろをお父様が、その後ろを私とお母様がしっかりと手を繋ぎながら、そして更に後ろにニーナも続く。
そうやってしばらく黙々と歩き続けるものの、その速度は酷く遅く感じる。山脈の麓の宿を朝早くに出発して既に四半日以上かけて進んできた道だ、安全な場所へたどり着くには一体どれだけ掛かるのか想像もつかない。
後方を振り返れば、ちょうど少し真っすぐで緩やかな坂道を進んでいることもあって、こちらへ逃げてくる人々の様子がよく見える。まだ襲ってきているというレッドドラゴンの姿は確認出来ない。
それでも焦りがじわじわと、確実に私を包み込んでくる。恐らく一緒にいる皆も同じなのだろう、どんどんその表情が険しくなってきている。
緊張と周囲の熱気で喉が渇く。しかし水を欲している余裕などありはしない。
とにかく前へ前へと進むうちに、いつの間にか空はどんよりと曇り、ぽつりぽつりと雨が降り出してきていた――。
そんな中突然、ひときわ大きな悲鳴と衝撃音が響き渡る。
思わず後ろを振り返ると、曲がり角の先から吹き飛び、崖の向こうへと落下していく馬車の様子が目に飛び込んできた。
その非現実的な光景に唖然としていると、続いて縦の大きさが馬車の三倍はゆうにある大きな赤い塊がぬるりと姿を現した。
「あれがレッドドラゴン……」
それは大きな翼と二本の黒い角を持ち、下顎からお腹にかけて以外を真紅の鱗で覆った、これぞドラゴンといわんばかりの見た目をしていた。翼を広げずともこの山道の横幅を埋め尽くしているサイズ感が、これまでに授業で習ってきたどの魔物よりも危険であると強烈に主張している。
「ゴアアアアアアアアアアアアアア!!!!」
そのドラゴンが咆哮する――たったそれだけの動作で人々は更なる恐慌状態に陥り、同じ人間を飲み込む波となって勢いを増して私たちに迫り始めた。
「まずい! 急いで離れないと!」
お父様の言う通り、あれに飲み込まれてしまえば一巻の終わりだ。しかしこの道は元々渋滞していたくらいなので、意思一つでそう簡単に行動に移せるものではないのが現実だった。
「ゴアアアアアアアアアアアアアア!!!!」
ドラゴンが吠えると、逃げなければならないのについ反射的にそちらを向いてしまう。
――次の瞬間、目に飛び込んできたのは、こちらに向かって宙を舞う人と、馬と、荷車だった。ドラゴンが逃げ惑う人々の中に突撃し、その頭でかち上げたのだ。
それらは軽々と私たちの手前五メートルくらいの位置に落下する。その落下地点にはまるで地獄のような光景が広がっていた。
「ひぃ……!」
私のすぐ後ろのニーナから悲鳴にもならない声が漏れる。……当たり前だ、人間があんなに簡単に潰れたり、千切れたりするなんて私も知らなかった。
「う”っ……」
刺激が強すぎるものを見てしまったせいで身体の奥から酸っぱいものが逆流してくる。
しかしこんな状況では吐いている時間すら惜しい。私は涙を浮かべながら必死にそれを飲み込む。
(……?)
この喧噪の中、何を呟いていたのかはわからなかったけれど、お父様が悲痛な面持ちでこちらを見ていた。
――がその視線はすぐに上を向いた。
「危ない!!!」
お父様がすぐ後ろの私とお母様の手を思い切り引っ張ったことで身体が前に移動する。その拍子に後ろを振り向くと、目の前に大きな何かが降ってきた。
『ドガシャーン!』
「ぐあああああっ!」
その何かと共に土埃が舞い上がって視界が塞がる。
一瞬の出来事に呆然としていると、次第に視界がクリアになっていく。降ってきたものは車輪らしきパーツが見えたので馬車か何かのようだった。
「あなたっ!!!」
そういえばお父様の声がやけに下の方から聞こえていたような気がする。お母様の声につられてゆっくりと目線を下げると、そこには馬車に足を挟まれたお父様の姿があった。
「足の感覚がない……。どうやら私はここまでのようだ……」
「あなた……っ!!」
「シェーラ、君に頼みがある」
そう言って何故かお父様は傍に座り込んでいるお母様に耳打ちをしだした。私はただ呆然と立ち尽くしてその様子を眺めるだけ。
(……足の感覚がない?)
耳に入ってきた情報が何度も、何度も、繰り返し頭の中を駆け巡る。驚愕の連続で思考力が落ちているのか、それでもそれを理解するのに酷く時間が掛かってしまっている。
(……それってもう逃げられないってこと? お父様は死んでしまうの!?)
ようやく理解出来たのは、そんな受け入れ難い結末――。
私の愛する家族が、共に過ごす幸せが崩されてしまうことを認識した瞬間、頭の中が沸騰した。
「あのクソトカゲ!!! ぶち殺してやる!!!」
「待ちなさい!!!」
「……ッ!?」
お父様の放った鋭い一言が、身体強化を全開にし、腰の剣に手をかけて今まさにドラゴン目掛け飛び出そうとしていた私の理性を呼び戻した。
「レナ、君が警備隊長に勝てるくらい強くなったのは知っている。でもあれは騎士団の人たちが力を合わせて集団で戦うような相手だ。レナ一人ではまだどうやっても勝てない。……だからやめてくれ」
「それでも倒さないとお父様がっ!」
「いや、いいんだ……。それよりここに座りなさい」
そう言いながら自身の正面の地面を軽く叩くお父様。
(何故……? 戦えとも逃げろとも言わない……お父様が何をしたいのかわからない……)
周囲が悲鳴をあげて逃げ惑う中、馬車の残骸の影で私は戸惑いながらお父様の正面に座る。皮肉にも馬車のお陰で人の波に飲まれずに済んでいるようだ。
同時にお父様がこの位置にいるということは、ニーナはもう帰らぬ人になってしまっているのだと今になって気付かされる。
「思いついたんだ、レナをこの場から生かす方法を……!」
お父様が力強く地面に両手をついた瞬間――魔力の反応と共に周囲の土が私一人を囲うように盛り上がり始めた。ふと横を見ればお母様まで地面に魔力を流しているではないか。
(私だけを守ろうとしてる……? でもこの形は……)
出来上がっていく土の壁はまん丸の球状、つまりこれは転がすことを想定して作られているように見える。しかし人々が逃げ惑う山道ではそう簡単に転がれるはずもない。
(じゃあこれって……!)
道の反対側、崖の方へと目を向ける。ここからでは濃い灰色の雨雲しか見えないが、その下に広がっている樹海に私を逃がそうとしているのではないか。
私は慌てて声を上げる。
「待って! これなら私にだって出来ます! 魔力量だってあるんだから、二人の分だって私が作ってみせます!」
しかしお父様は地面に手をついたまま、静かに首を横に振る。
「……いいや、レナにはまだ出来ない。これだけの高さから落ちるんだ、相応の出力で強化して固めないといけない。いくらレナが豊富な魔力を持っていて、日々凄い勢いで成長しているといっても、出力に関してだけならまだ僕たちに一日の長がある」
やはり予想は間違っていなかった。しかしお父様に反論出来ず、それ以上言葉が出てこない。
悔しくてぎゅっと両手を握りしめる。
(どうしてっ……!)
もしかしたらあと一年、必死に毎日訓練していれば両親に追い付けたかもしれないのに。成人する頃には誰も敵わないくらいに強くなれると言われているのに。
別に襲ってくるなら私が成人してからでも良かったじゃないか。それなら同じ方法で両親はもちろん、この場の大半の人々を助けられただろう。もしかすると返り討ちにすることだって出来たかもしれない。
――なのにどうして、今なのか。どうしてこれほどまでに理不尽なのか。
これでは前世と何も変わっていない。ナンパ男をやり過ごすことすら出来なかった私、ドラゴン相手に両親に護られるだけの私、どちらも理不尽にいいようにされているだけ。
ただただ、己の弱さを思い知らされるだけ――。
「嫌っ! 私もお父様お母様と一緒が良い!」
もはや駄々をこねるだけでは両親の考えを変えるには至らない。ゆっくりと顔を横に振るお母様。
「……ダメよ。私も、ヘンリーも、レナが死ぬのだけは耐えられないわ」
「そうさ。立派な大人になるのを見届けることが出来ないのは残念だけど、死なずに生きていてくれるなら……それ以上はない」
「そんな……!」
どんどん私を包む土の壁が出来上がっていく。それでもまだ完成していない今なら壊して抜け出すことだって出来るだろう。
ただ、それだけはどうしても出来なかった。
お父様とお母様の命懸けの決意を無駄に終わらせるなんていう選択は……。
「お父様……お母様ぁ……」
もう私の顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃだ。
「泣かないで、レナ。あなたは笑った方が素敵よ」
そうこうしているうちに顔の正面部分以外はほぼ土の壁に包まれてしまう。
「生きて。そして幸せになってね。……愛してるわレナ」
そう言ってお母様は私の頬にキスをしてくれる。
「……愛してるよレナ」
動けないお父様も腕を伸ばしてそっと頭を撫でてくれる。
大好きなお母様の匂いも、大好きなお父様の手の温もりも、もうこの先感じることが出来なくなる……それがたまらなく寂しい。
「わだじも……ふだりが大好ぎです……ッ!」
私がかろうじて絞り出した言葉に、二人は涙を流しながらも精一杯微笑んでくれた。
「……元気でね」
――――それが私が最後に見た、両親の顔だった。