98. ささやかな日常
町長の家で働き始めて約一ヶ月が経った。イチカはそろそろまた次の仕事を探さなければと思い立ち、久しぶりに商会へと足を運ぶ。
その日もいつものように商会の掲示板を確認していると、珍しい人がイチカに話しかけてきた。
「イ、イチカさん!」
「え、レオンさん?どうしたんですか、血相変えて?」
振り返ると、見たこともないほど焦った表情のレオンが目の前に立っていて、イチカは驚いてメモ帳を落としそうになる。彼はなぜかその腕にバラバラになった書類を抱えており、事務仕事で何かやらかしてしまったのかしらとイチカは訝った。
「書類整理、お手伝いしましょうか?またシオンにうるさく言われちゃいますよそれ・・・」
レオンの手元をチラッと覗き込むと、レオンはああ、と言いながら書類を持ち直す。
「こ、これはあの、少し動揺して落としただけですから大丈夫です!それよりその、イチカさんに折り入ってご相談があるのですが・・・」
「え、私にですか!?」
「はい。お願いします!」
そう言うとレオンはその場でいきなりイチカに頭を下げた。当然レオンを本部の人間だと知っている待合室の登録者達は、いったい何事が起きたのかとざわざわし始める。
「え、ちょっとやめてください!こんな所で頭を下げたりしないでください!!とにかくあの、会議室にでも行きます?」
「はい・・・」
すっかり意気消沈しているレオンを引き連れ、イチカは周りの視線に耐えながら会議室に向かった。
中に入るとイチカはレオンに椅子を勧めたが、彼は首を振って項垂れたまま奥の壁に寄りかかった。イチカも少し離れた場所に立って話を聞く。
「イチカさん、あの、ミシェルが今日、男性と会うというのは本当でしょうか?」
イチカは仕事に全く関係の無い話が切り出されたことに呆気に取られ、まじまじとレオンの青くなった顔を見つめた。
「てっきり仕事の話だと思ってたんですけど、まさかミシェルの話とは・・・。というかどうしてそれ、知ってるんですか?」
「たまたま他の人が話しているのをさっき聞いたんです!じゃあ本当なんですね!?ああ、シオンさんのことを諦めたばっかりなのに、どうして!!」
「・・・レオンさん、もしかしてミシェルのこと好きなんですか?」
レオンが真っ赤になって書類を落とす。イチカはさらにバラバラになってしまったその書類を拾い上げ、話をしながらテーブルの上で勝手に整理をしていく。
「ごめんなさい、そんなこととは知らなかったので、私が彼女に紹介したんです。いつもお世話になっている近所の大きな洗濯屋さんがあるんですけど、そこの息子さんがすごく素敵な人で、ミシェルのことを話したらぜひ会いたいって言うものでつい。」
イチカの言葉にレオンは「すごく素敵な人・・・」と繰り返したまま固まってしまう。イチカは小さくため息をついてフォローを入れる。
「まあでも、その人がミシェルの好みから外れているかもしれませんし、今日が初めて会う日なので今後のことはまだわかりませんよ?・・・はい、書類。」
「あ、ありがとうございます・・・」
壁から離れてテーブルに近づき、素直に書類を受け取ったレオンは、もう片方の手でテーブル表面の木の模様を指でなぞっていく。
(・・・お前は恋する乙女か!)
イチカのそんな心の中のツッコミなど当然聞こえるはずもなく、レオンはグリグリとテーブルをなぞりながら言葉を続ける。
「そう、そうですか。じゃあまだ二人がどうなるかはわかりませんよね・・・」
イチカはじーっとそのうねうねと動き回る手を目で追っていたが、見るのも面倒になって無理やりそれを止めた。
「ほらそこ!ウジウジしない!!ミシェルのことが好きならはっきりそう言えばいいじゃないですか!?ミシェルはちょっと強引なタイプの方が絶対に好きですよ。洗濯屋の彼も結構強気でいくって言ってたから、のんびりしてると彼女、そっちに決めちゃうかもしれませんよ!!」
「そ、それは困る!!」
イチカは眉間に皺を寄せ、その手に落ちないようにしっかりと書類を抱えさせて、ドアを開け無理やり外に追い出した。
「ほら、じゃあ早く仕事を終わらせて、彼女に会いに行ってあげてください!今日のデートは夕方には終わりますから。最近できた本屋の近くのカフェに行くって言ってましたよ!はい、じゃあ私からは以上です!!」
そう言って背中を押すと、レオンは申し訳なさそうに頷き、決意を固めた様子で小走りに事務所に帰っていった。
「はあ。レオンさんてああいう感じの人だったのかあ。ミシェルの好みでは無さそうだけど大丈夫かな?」
「さあ、どうかな。それよりお前はこの部屋であいつと二人っきりになって何してたのかな?」
イチカは久々に気配を読み取れずに近づかれてビクッとしながら後ろを振り向いた。
「シオン!?」
そこには意地悪そうな笑顔を浮かべて立っているシオンの姿があった。
「相変わらずフラフラしてるな。しかも自分からこの部屋に男を連れ込むとは。何、そんなに俺にいじめてほしいの?」
「シオン・・・もう意地悪しないって約束したよね?」
「意地悪はしない。いじめるって言っても優しくするよ?」
そう言って本当に優しい笑顔で微笑む彼は、獲物を確実に追い込み、舌なめずりしてトドメを刺す瞬間のハンターのようにイチカには見えた。
「いやあの、私そろそろ・・・」
「イチカさん、俺今日はミシェルが休みだから結構自由なんだ。さあ、もう一回会議室に行こうか。」
「え!ちょっと、ちょっとシオン!?」
ずるずると腕を引っ張られ、会議室に戻されたイチカは、後ろ手にシオンが鍵を閉めた音に気づき、青ざめる。
「なんで鍵閉めたの?」
「さあ。なんでかな?」
ジリジリとイチカを壁際に追い詰める。
「・・・ち、近いよ。」
「近づいてる。ねえ、そんなに俺にやきもち妬いて欲しいの?」
そう言いながらシオンはイチカの手に指を絡ませた。いつものように手を握るわけではなく、まるでイチカに絡みつくかのような指の動きに、抱きしめられている時よりも恥ずかしくなりイチカは顔を真っ赤にしていく。
「そ、そんなつもりは無いって!!ねえこれなんかダメ、離して!」
「何がダメなの?ただ手を繋いでるだけだよ。いつもと同じだろ?」
「・・・この意味がわからないほど子供じゃないのよ。」
「そうだね。知ってる。」
「またそうやって私を困らせる!」
「最近イチカと触れ合えてない。なのにイチカはレオンと二人っきりでここにいた。」
シオンの目がイチカをじっと見つめている。その目にゆらゆらと映し出される彼の蠱惑的な光が、イチカの心臓の音を一気に速めていく。
「ごめん、そんなつもりじゃなかったけど、不安にさせたなら謝る。」
「うん。だからほら、お詫びをちょうだい?」
シオンは手をゆっくりと離すと、両手でイチカの腰をグッと引き寄せた。イチカはシオンの胸に両手を当てて体ごと直撃することだけは防いだ。
「ちょっと!びっくりするでしょ!?」
「ほら、お詫びは?」
「・・・何をご希望で?」
「うーん、そうだなあ?」
シオンは上を見上げて少し考える。そしていいことを思いついた!という顔でイチカの方に再び顔を向けた。
「今日は左の頬がいいな。」
そう言って左の頬をイチカに向けた。
「・・・関係、進めないんじゃなかったの?」
「これくらいたいしたことじゃないだろ。それとも本当に」
「わかった!!・・・もう。」
イチカはそのままの勢いでシオンの左の頬に軽く唇を寄せた。ほんの少し触れるだけだったが、唇から体中に何か痺れるような感覚が流れていく。
「うん。お詫び、受け取った。」
「バカ!」
「バカで結構。こういう息抜きもしないと俺爆発するよいつか。」
「・・・それはごめん。」
シオンはいつもの優しい表情で微笑みながら、いつものようにそっとイチカを腕の中に包み込む。
「俺もごめん。大人げなかった。」
「イジワルしないで。」
「イチカ、その言葉は俺を煽るだけだからやめろ。」
「イジワルするなら夕食抜き!」
「それは本当に俺が泣くからやめろ!!」
「ふふっ!」
「はあ。イチカには敵わないな。とにかく今日は仕事が早く終わったから、一緒に帰ろう。」
「うん!」
そうして二人は久しぶりに肩を並べて何気ない普段の話をしながら、ゆっくりと歩いて家に帰っていった。




