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97. 束の間の休息

 テオニタスが去ってしまった後、イチカは一人、シオンの家に戻った。


 その日は朝から暖かな日の光が降り注ぎ、春らしい一日が始まろうとしていた。町の中を歩く人々も心なしか春の訪れを感じながら心も浮き立っているような、そんな印象を受ける。


 ふと思い立ってあの日初めてシオンと出会った本屋にふらっと寄ってみたが、ドアは閉まっていて『本日休業』と書かれたプレートが掛かっていた。少し寂しい気持ちのままそこを通り過ぎ、結局イチカはどこにも立ち寄らず家に帰ることとなった。


 家に着くと着替えなどの支度を整え、この間のように共同浴場に向かう。汗を洗い流しさっぱりすると、帰り道では前日までの疲れがどっと出てしまった。そのまま何もする気が起きずダラダラと歩き、ぼんやりとした頭のまま見慣れた煉瓦の家に帰っていく。



「イチカ!」


 シオンの家の前まで来た時、後ろから声がかかった。


「シオン?あれ、仕事が残ってたんじゃ・・・」


 そこには少し疲れた顔のシオンが立っていた。


「レオンに今日は帰れって追い出された。さすがに俺もちょっと疲れてたから、言うこと聞いて帰ってきたんだ。ちょっと風呂にでも入ってくるよ。」

「そっか。私はもう入ってきたよ。家でのんびりしてる。」

「ああ。・・・なあイチカ、午後からその、デート、しないか?」

「え?」


 イチカはシオンが照れながらそう話す姿が可愛く感じて、ついにやけたような笑みがこぼれていく。


「ふふ、いいよ。じゃあ今日だけはデートって名目で。」

「イチカ!!」


 シオンの顔がパアーッと明るくなる。イチカはその表情を見てさらに顔をほころばせると、嬉しそうに近寄ってきたシオンと並んで家に入った。




 そして約束の午後。


 二人は手を繋いだまま、町を歩き始めた。初めはただ何となく歩いていた二人だったが、シオンから提案があり、少し見晴らしの良い場所まで歩こう、ということになった。


 イチカが生まれ育った森とは反対側にピクニックなどで人々がよく行くという丘があり、山よりも草原に近い風景が広がっている場所らしい。


 イチカは「少し体がだるいなあ」と文句を言ってみたけれど、子供達でも行けるような歩きやすい道だからとシオンに説得され、まあいいかと飲み物だけ調達してそこに向かった。



 その丘はすでにかなり緑が増え始め、丘全体に爽やかな春の風が流れていた。新緑の香りが広がり、空には霞がかかっている。


「イチカ、ほらあそこがもう頂上なんだ。今日は平日だから人もいないし、あそこでお茶を飲もうよ。」

「うん、気持ち良さそう!行ってみよう!」


 シオンに手を引かれながらゆっくりとそこまで登っていく。緩やかに、少し曲がりくねったその土の道を踏み締めていくと、二十分ほどで頂上までたどり着いた。


「うわー、気持ちいいー!!」


 あえて振り返らずに取っておいたその景色は、ザインの町や辺りの山々が一望できる、素晴らしいものだった。


「どう、気に入ってくれた?」

「うん!シオン、ありがとう!!」

「どういたしまして。」


 そしてイチカはしばらくその美しい風景をうっとりと眺め、風をその身に受けながら二人だけの静かな時を満喫していた。


「なあイチカ。」

「んー?なあに?」


 イチカは景色をぼーっと眺めたまま気の抜けた返事をする。


「ずっと、側にいろよ。」


 シオンの低く心地よいあの声が、イチカの心を震わせる。


「関係はこれ以上進めない。イチカの納得できる時が来るまで。それは約束する。」


 シオンはそう言いながら、ゆっくりとイチカの目の前に小指を差し出した。イチカはその小指に自分の小指をそっと絡ませる。


「でも、どんな関係であれ、ずっと俺の側にいることだけは約束してくれないか?」

「シオン・・・」

「俺はイチカが側にいてくれるなら頑張れる。デートじゃなくても一緒にいるだけでもいいんだ。そりゃあ昨日みたいにああいうお礼は・・・いつでも歓迎だけど。」


 イチカは思わず噴き出してしまう。


「こら!こんな話してる時に笑うな!」

「ふふ、ごめん、つい!」

「全く!どうして俺らってこうふざけちゃうかな?」

「それがいいんじゃない!」

「はあ。この間はいい雰囲気の時にお前のお腹が鳴るし・・・」


 シオンはガッカリしたような顔で肩を落とす。


「あはは・・・」


 イチカは小指を外すとそっとシオンの手を握った。


「イチカ?」

「側にいる。何があっても。世界中で一番信頼してる相棒だから。」

「・・・ああ。俺も。イチカは俺のたった一つの光だから。」


 シオンのその真っ直ぐで強い想いを秘めた瞳が、イチカの瞳を捕らえていく。そんな二人の間に突然強い突風が吹き込み、ゆるく繋がれていた手が離れた。


「わっ、すごい風!!」

「イチカ!?」


 風の勢いで少しよろけたイチカをシオンが慌てて支える。腰に手を回された状態で支えられ、イチカは焦ってそこから逃れようともがいた。


「こら、逃げるな!」


 シオンはイチカを離そうとせず、そのまま腰を引き寄せて抱きしめる。それはゼキラムのあの家でイチカが出て行こうとした時のシオンのように、普段とは違う、熱のこもった抱擁だった。


「シオン、これ、よくないよ。」

「イチカ・・・わかってる。」


 腰に回していない手は、ゆっくりとイチカの後ろ髪をなぞっていく。


「シ、シオン!?」

「もう少しだけこうしていたい。今だけ。今だけでいいから、イチカを俺だけのものだって感じさせて。」

「もう・・・仕方ないな。」


 イチカは真っ赤になりながら、シオンのその手を、いつもよりも熱く感じるその体を、抱えきれないほどの喜びと共に受け入れていった。


 そうして二人は日が暮れ始める直前まで、お互いの体温の高さを、もうとっくに隠しきれなくなっている互いへの強い想いを、今だけという言葉で包み隠しながら感じ続けていた。


 だがその束の間の穏やかな時間を奪おうとする何かがすぐ側まで近づいてきていることに、この時の二人は全く気付いてはいなかった。



 二人だけでゆっくりと外で過ごせたのはその日だけで、翌日からシオンは本部での仕事に追われることとなった。レオンに数日拘束された後、休み明けのミシェルにも大量の仕事を押し付けられて辛い、と嘆く日々が始まっていった。


(あれは絶対ミシェルの仕返しよね・・・)


 きっと彼女の告白を断った時相当冷たくあしらったんだろうなあと想像し、イチカは「シオン、諦めた方がいいよ」と言って今日も笑顔で送り出した。



 そしてイチカは自分自身も家事を終えると商会へと向かう。いくらシオンがいらないと言っても、やはり彼の家にお世話になる以上しっかりと生活費は入れておきたい。そこでまだしばらく滞在予定のこの町でも家事代行の仕事をしようと決めて、掲示板を確認するために足を運ぶ。


 待合室はいつも以上に人で溢れていて、今日は女性の登録者も多く集まっているようだった。暖かい時期になってきて、町の週辺の農作業の仕事なども増えているかららしい。



「イチカ!」

「あ、ミシェル!」


 可愛らしい声に気づいて振り向くと、ミシェルがあのカールした髪を揺らしながら笑顔でイチカに近づいてきた。


「どうしたの?シオンさんに用?」

「ううん、今日は仕事を探しに来たの。まだしばらくここで暮らすから、しっかり働かないとね!」

「そうなのね。あ、じゃあお勧めの働き口があるのよ!今入ったばっかりなの!」


 そう言ってミシェルがちょうど今から掲示板に貼り付けようとしていた紙をイチカに見せる。


「へえ、町長さんのお家の家事全般・・・臨時なのね。」

「そうなの。あのお宅は普段はメイド達が数名いてうちに依頼が入ることはまず無いんだけど、どうもそのうちの二人が喧嘩になって二人して大怪我をしたらしいのよ。それで彼女達が戻ってくるまで、一ヶ月くらいかなあ、臨時でできる人を探しているんですって。割りのいい仕事だし、町長さんも奥様もとても良い方達だから安心していいわ!」


 イチカは紙を持ってしばらく悩んだ後、ミシェルにその紙を返しながら「この仕事やりたい!」と元気に答えた。


「良かった!すぐにでも来て欲しいみたいだったから、イチカが即決してくれてうちも助かる!じゃあすぐに受付に来て。私が手続きするわ。」

「ミシェルありがとう!」

「いいのよ!ねえそれよりも近いうちに今度新しくできたカフェ、一緒に行かない?」

「わあ!行きたい!」


 そんな何気ない女子トークを楽しみながら、イチカは速攻で決まってしまった新しい仕事のことを考え始めていた。



 イチカは翌日から早速町長の家での仕事を始めた。料理人は別に雇われているため食事は作る必要はなく、洗濯、掃除を中心とした家事を担当することになった。


 食器の片付けや書類、本の整理なども指示通り以上のことができたので、町長の奥様からは重宝がられ、イチカはとてもやりがいのある仕事だと感じ始めていた。



「イチカさん、あなたは読み書きもそれ以外の教養もとてもあるのに、さらに上の学校へは進学しなかったのね。」


 ある日の午後、町長の奥様であるナタリアのお茶を淹れている時、ふいにそんなことを言われてイチカは戸惑った。


(そもそも勉強は父に教わっていたから、この世界では学校にすら行ってないのよね・・・)


「あー、はい。ちょっと事情がありまして。」

「まあ、そうなの?もったいないわ。時々こうしてあなたとお話をすると、驚くほどに色々知っているし知性も感じられるから、なんだかもったいないように感じてしまうのよ。」

「奥様、ありがとうございます。私などたいしたことはございません。ただ本は好きなので、お金が貯まったら新しい本を買いたいとは思っています。」


 ナタリアは「まあ!」と言った後、お茶を一口飲んでからイチカに笑顔を向けた。


「それなら我が家の書斎の本を片付けてくれる時に少し時間をとって読んでみたらどうかしら?」


 イチカは身に余る提案に驚き、頭をぶんぶん振りながら遠慮する。


「そんな!とてもそんなこと申し訳なくてできません!それに読み始めると没頭してしまって、仕事になりませんから・・・」

「まあ、そう。じゃあ今度主人に許可を取ってあげるからぜひうちから本を借りて行きなさいな。あなたのことは主人も信頼しているからきっと大丈夫だと思うわよ。」


 ナタリアの優しい気遣いに感激しながら、イチカは深く頭を下げお礼を言った。



 こんな日常生活は淡々と、だが充実して過ぎていき、五月を迎える頃にはイチカはすっかり新しい生活に馴染んだ自分を感じていた。


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