94. シオンの憂鬱な一日
シオンはその日、朝からずっとイライラしていた。
「シオンさん、あの・・・」
「ああ、ミシェル、何?」
近くに来ていたミシェルが一枚の紙をシオンに手渡す。
「なるほど。五人追加で来てるのか。例の男の名前は?」
「ごめんなさい、そこまではちょっと。」
「そうか、休みだったのに悪かったな。ありがとう。」
「いえ。・・・あの、シオンさん。」
ミシェルが困ったような顔でシオンの近くに立っている。人気のない事務室には暖炉に火も入っていないため少し寒い。ミシェルも寒そうに体を縮こませている。
「どうした?今日は少し寒いから、もう帰っていいぞ?」
シオンが不思議そうな顔でそう返事をすると、ミシェルはぎゅっと閉じていた口を開いた。
「シオンさんは、イチカさんという方とお付き合いされてるんですか?」
「え?」
シオンは予想していなかったタイミングでのその質問に、イライラしていた気持ちを一瞬忘れかけた。
「あー、まあプライベートなことだからあんまり詳しいことはここで言いたくないんだけど。」
ミシェルはあたふたしながらそれに答える。
「あ、そうですよね!ごめんなさい!!あの、ただちょっと気になっただけで。」
「そう。」
シオンはあえてそれ以上追求せず、再び受け取った紙を見て悩み始めた。眉間には自然と皺が寄っていく。
「シオンさん、私、あなたが好きです。」
シオンはあまりにも突然の告白に、声も出さずに驚き、持っていた紙を落とす。そして目を瞑って下を向いたまま立っているミシェルを見て小さなため息をつき、紙を拾ってからミシェルの前に立った。
「ミシェル、もうわかってると思うけど、俺はその気持ちには応えられない。」
シオンは淀みなく自分の気持ちを彼女に告げる。
「どうしても、だめ、ですか?」
「ごめん。」
「・・・」
ミシェルは目を潤ませながらシオンに抱きついた。シオンは彼女を受け止めることも拒絶することもせず、そのまま立っている。
「私の方がイチカさんていう方よりずっと長くあなたを見てきましたし、あなたのお役に立てればと全力で仕事も頑張ってきました。シオンさんだって私の気持ち、知ってましたよね?これまでもシオンさんがたくさんの女の人達と遊んでいたのを私知っています。その人達とイチカさん、何が違うんですか?私の方が、私の方があなたのこと・・・」
そう言ってシオンに縋り付くように泣き崩れるミシェルを、シオンはただじっと見ているだけで、声もかけず触れもしない。
シオンが全く反応してくれないことにショックを受けながら、ミシェルはしばらく泣き続けた後、シオンの体を押すようにしてゆっくりと離れた。
「私じゃ駄目な理由を教えてください。」
シオンはもう一度大きなため息をついてから口を開いた。
「俺は、ミシェルを仲間だとしか認識したことがない。」
「じゃあ、イチカさんじゃなきゃいけない理由はなんですか!?」
「それは彼女と俺だけが知っていればいいことで、君に話すことじゃない。」
ミシェルは涙を拭いながらシオンを軽く睨む。
「・・・びっくりするほど冷たいこと言うんですね、シオンさん。私に諦めさせようとしてそんな態度を取ってるんですか?」
「いや。これが素の俺だけど。」
ミシェルはその優しさや思いやりの感情のかけらもないシオンの瞳を見て、がっくりと肩を落とした。
「私は優しくて頼り甲斐のあるシオンさんも、女の人と遊んだりしているシオンさんも、仕事には厳しいシオンさんも、全部魅力的で素敵だなって思ってましたけど・・・そんな風に冷酷なシオンさんを・・・私はとても、受け入れられそうにない・・・」
シオンは一言「すまない」とだけ告げる。
「いえ、いいんです。憧れるようにあなたが好きだったんですから、こういうことになっても仕方ないんです。」
シオンは最後に一言だけ付け加えた。
「イチカはこういう俺も、今の俺も、全部受け入れてくれたんだ。だから、ごめん。」
ミシェルはその言葉にビクッと肩を震わせた後、大きく息を吐き出した。
「そんなの、どう足掻いたって勝負にならないじゃないですか。はああ。しばらく失恋休みをください!!」
「なんだよそれ。じゃあレオンに申請してよ。」
「そんなこと彼に言いにくいじゃないですか!」
「あー、じゃあ腹痛で三日休みって事で。」
「シオンさん、仕事はちゃんとしてるのにそれ以外適当なのは相変わらずですね・・・」
シオンは苦笑しながら真面目な口調で言った。
「ミシェル。いいから三日、ちゃんと休んでこいよ。」
ミシェルは悲しげな微笑みを浮かべて頷く。その目にはまだ涙が少しだけ残っていた。
「わかりました。じゃあ明日から三日間、めいいっぱい遊んできます!!」
「ああ。じゃあ、また来週な。」
「はい。」
シオンは紙を手にしたまま事務室を離れ、ミシェルは一人そこに残された。
「シオンさん、もう少しだけ、あなたを好きでいさせてください・・・ごめんなさい・・・」
その涙声はシオンに届くことはなかった。ミシェルは自分に机の上に突っ伏して、家に帰ることもできず、耐えきれない心の痛みと何時間もそこで向き合い続けていった。
事務室を出たシオンは一瞬で気持ちを切り替え、すぐに今日の流れについて考え始めた。そしてミシェルが来る前のイライラした気持ちを再び思い出す。
(イチカにまた押し切られた・・・)
それは昨日、イチカの頬にキスをして舞い上がっていた後、レオンと三人で行った会議でのことだった。
― ― ― ― ―
「じゃあ、私がテオを誘導するわ。」
その言葉にシオンとレオンが同時に声を上げた。
「はあ!?」「え?」
イチカは驚いている二人を交互に眺めながら、もう一度同じ言葉を繰り返す。
「え、だから私が彼を誘導すれば話は早いんじゃない?」
シオンが頭を抱えて椅子に座り、レオンはそんなシオンの様子を心配そうに見つめる。
「イチカ・・・俺はそんなことをして欲しくてエリアスさんの話を聞いてくれって言ったわけじゃない!」
「知ってるわよ。いざという時のためでしょ?でもどう考えてもその話、私が適任だと思うんだけど。」
シオンは顔を上げずに「どこがだよ!」とイチカに問いかける。
「だって二人はテオにある意味囮になって欲しいわけでしょ?だけど今不安定な精神状態の彼は、このままいくとたぶん彼らの元に戻ろうとする。私を守るためにも今のテオならそうする可能性はかなり高いわよね?だとしたら彼が組織に戻らないように、彼を引っ張って逃げていく人が必要でしょ?」
そしてイチカは顔を上げたシオンの目を見ながら、当然だと言うように自分を指差して言った。
「彼が私のために組織に戻ろうとするなら、それを止められるのも私よね。ほら、やっぱり私にしかその役割、できそうもないと思わない?」
「イチカ・・・またお前はそうやって俺が断りにくい方へ話を持っていったな!」
レオンは二人のやり取りをただオロオロと見守っている。
「ごめん。でも今回は一人じゃない。テオだってそれなりに強いはずよ。それに今の私なら前よりは身を守れる。シオン、私はあなたの相棒でいたいの。お願い、この仕事は私にやらせて!」
イチカの決意を込めた言葉に、シオンは口元を手で押さえしばらく悩んでいたが、ふいに立ち上がって言った。
「わかった。その代わり絶対に怪我をするなよ。テオなら多少痛い目にあってもいいから、あいつにお前を守らせるくらいのつもりで行くんだ。」
イチカもその言葉に笑顔を向けて立ち上がる。
「わかった。絶対に自分の身を守る。」
「・・・怪我なんかして帰ってきたらお前の秘密は全部その場で開示してもらうからな。」
「うっ・・・わ、わかったわよ!」
「全力でやれよ。信頼してる、俺の相棒。」
「うん。私も。」
― ― ― ― ―
そうしてシオンの不安をよそに、今朝からイチカは嬉々としてテオニタスの後を追っていった。もちろん内緒で護衛は一人つけてあるが、シオンの不安はいつまでも拭えない。
(イチカめ・・・怪我したりしたら容赦しないからな!!)
シオンは手にした書類の内容を元にレオンの部下達に指示を出した後、自分自身もイチカを追って動き出した。
そしてその日の午後、シオンはそれまで足を踏み入れたことのない深い森の中にいた。
「シオンさん!こっちです!」
「ああ。」
レオンの部下である若いこの男、ピートには、イチカを尾行させる役割を与えていた。彼の先導で森の奥深くに分け入っていき、ある場所で突然立ち止まった。
「あそこです。」
「何もないが?」
「あの落ち葉の下に木の扉が隠れているんです。その中にいます。」
「・・・狭そうな場所だな。」
シオンはふと嫌な想像をしてしまい、それを無理やり振り払う。
「たぶん彼女、俺の尾行に気づいていたと思います。すみません。」
「だろうな。でもそれでいい。イチカは俺の気配も読み取れるんだ。仕方ないさ。」
ピートは驚いて目を大きく開く。
「シオンさんの気配が読み取れる人なんているんですか!?」
「ああ。なんなら今も気づいてるかもな。」
「すごい・・・」
シオンはイチカが潜伏しているであろう場所から五十メートル以上離れた場所に隠れ、ピートにはレオンに報告に行くようにと指示を出して戻ってもらう。
「さて、ここからはテオのお手並み拝見、だな。」
シオンは一本の丈夫そうな木の上に登り、追手が現れるのをじっくりと待つことにした。




