93. 追手、逃走
テオニタスは追われていた。護衛についているはずのレオンの姿が見えない。
戦えるはずの自分があの男の影を恐れ、護衛が見えないと言うだけで怯えてしまい立ち向かう気力を削がれる。ただその場から転がるように逃げ続ける。
(でも俺は変わると決めた。イチカのために)
自分のことを命をかけて守ってくれた彼女は、それまで見てきた女性達とは全く違っていた。掛け値無しに自分を見てくれて、何も望まず、ただ友達だから助けると言う。
「イチカに会いたい・・・」
口に出してしまえばもうそれは消えることのない自分への呪いとなり、何も手につかないほど彼女のことを思ってしまう。
建物の影に隠れ、息を整える。イチカのように気配を強く読み取ることはできないが、足音くらいは耳を澄ませば十分に捉えられる。
(俺は、ここで立ち向かった方がいいのか?それともやっぱり逃げた方がいいのか?わからない・・・どう変わればいいのか、どうすれば彼女を守れるのか)
足音が近づいてくる。しかも一人ではなく複数の足音だ。もうとっくに仲間を呼ばれてしまっていたのかもしれない。
「イチカ・・・俺があいつらのところに戻ってここからいなくなれば、君を守れるのか?」
テオニタスが思い詰めた表情で隠れていたその場所から立ち上がり、足音のする方へと体を向けた、その瞬間。
「ん!?」
コートの背中側をグッと引っ張られて後ろに倒れ、尻もちをつく。
「イチカ!?」
「しー!声を出さないで!!」
テオニタスは小声になる。
「どうしてここに?」
「事情は後で話す!とにかくこっち!!」
イチカに連れられるまま建物の隙間を通って奥へ進む。狭くて通れないかと思っていたそこには小さな箱が置いてあり、そこに載ってイチカは器用に塀を越えていく。
「テオも早く来て!」
「あ、ああ。」
そうして二人で塀を越えて他人の家の敷地をこっそりと抜けると、少し緑の多い住宅街に入っていく。
「イチカ、どこに行くんだ?」
「うん、悩んだんだけど、やっぱり慣れた場所に行こうと思って。」
「え?」
イチカはあちこちを走り回って汚れた顔でテオニタスに笑顔を向ける。
「私の生まれ故郷!」
「森の中に行くのか!?」
イチカは頷いて前を向く。テオニタスは、彼女の後を追って歩き続ける。ついていくのが精一杯のガタガタした道をどんどん突き進み、景色が変わっていくことすらよくわからないまま進み続け、そして気がついた時にはそこはもう、鬱蒼とした木々が生い茂る森の中だった。
「こんな深い森に立ち入って大丈夫なのか!?」
「大丈夫。私にとっては庭みたいなものなの。たぶん他の人にとってはそうそう近寄れる場所じゃないけど。」
「そう、か。」
イチカは迷いもなく、獣道のような場所を足を休めずに歩いていく。一時間近く歩いたところで、突然イチカが足を止めた。
何もないその深い森の中で、なぜか彼女は地面に降り積もった落ち葉をかき分け始めた。
「イチカ!何してるんだ!?」
「ああ、大丈夫大丈夫、ここにほら、隠れ家があるのよ。」
そう言って彼女はあっさりと地面に埋まった木の扉らしきものを上に上げた。落ち葉がうまくくっつくようにするためか、蔦のようなものがその扉に絡み付いている。
テオニタスがその内側を覗き込むと、何やら大きな瓶の中に入った本やランタン、蝋燭、カップなど、雑多なものが置かれている小さな部屋が見えた。
「狭いけど中へどうぞ。結構深く掘ってあるから案外快適なの。」
「ああ、ありがとう。」
梯子を降りると、思っていたよりも広いスペースがあってテオニタスは驚く。そしてその部屋には木や土の香りが充満し、不思議と気持ちが落ち着く場所だった。
「テオ、大丈夫?」
テオニタスはその言葉にショックを受け、ため息をついた。イチカに心配されてしまうほど、自分は何もできなかったのかと。
「ここにたどり着ける人はほとんどいないわ、だから大丈夫。安心してね。」
「なあ、このこと、シオンは知っているのか?」
「え?ああ、そうね。たぶん知ってると思うよ。彼のことだから。」
「・・・信じてるんだな。」
イチカはテオニタスに背を向けて棚をいじっている。
「そうね。そうだと思う。」
「そうか。」
そうして二人は静かな森の中で、ただ木の揺れる音や小鳥達の鳴き声だけを感じながらその場にあった椅子に座って時を過ごした。
「たぶん今頃シオン達が彼らを捕まえているんじゃないかな。」
「そうか、わざと泳がされたのか、俺は。」
「レオンさんは気配を消すのが上手いから、テオは気づかなかったんじゃないかな。ずっとテオのすぐ側にいたよ。私が誘導する時もしばらく見守っててくれたし。」
「俺はただ怖いって気持ちで逃げてただけだったのに、その間にイチカの仲間達は俺の気持ちも行動もわかっててどんどん先回りして動く。そしてあんな恐ろしい組織に当たり前のように立ち向かっていくんだな。」
イチカはテオニタスの方を向いてランタンに火を灯し、木の扉を閉めた。
「怖いなら閉めておく。でも大丈夫。今度は私がテオを守るよ。」
イチカの顔にランタンの仄かな光が当たり、美しいその顔立ちを際立たせていた。
「イチカは強くて、綺麗だな。」
「え?そ、そう?照れるな!」
ふざけた調子でそう返すイチカを、テオニタスはただ愛おしく感じて見つめていた。
(でもこんな風に助けられてばかりの俺が、イチカに触れることなんてとてもできない)
伸びそうになった手を必死で押さえ、テオニタスはイチカから目を逸らした。
「これからどうする?」
「今日はここで夜を明かすしかないわね。」
「・・・二人で?」
「こら!変なことは禁止です!」
「わかってる。助けてもらっておいてそんなことしないよ。」
「そう。あ、そうだ、一応パンと水は持ってきたから、ここで食べよう!」
二人は暗くなり始めた森の中で、簡単な食事を終えて椅子で寛ぐ。イチカはそこに置いてあったペンでぶ厚い紙に何やら書き始め、うんうんと唸りながら考えては書いてを繰り返している。
「さっきから何をやってるんだ?」
イチカは顔を上げた。
「ああ、これ?そうだなあ、魔女のお守り強化版、ってところかな?」
「へえ。効果が高そうだな。」
「うん。じゃあ、はい、これはテオに。」
綺麗に折り畳まれたその四角い紙を、イチカから受け取って眺める。
「これは?」
「怪我をしたり体調が悪い時に、体に当てて回復することをイメージしてみて。きっと効果があるから。」
「イチカ、ありがとう。」
「うん!・・・ちなみに、襲ってきた人が吹き飛ぶやつもあるけど、いる?」
申し訳なさそうにハート型に折り畳まれた紙を見せてくるイチカがおかしくて、テオニタスは思わず噴き出してしまう。
「ぷっ、あっはははは!なんだい、人が吹き飛ぶって!本当にイチカは規格外だよね。全然普通の女の子じゃない。君みたいに面白くて優しくて素敵な人にはもう絶対に、二度と、出会えないんだろうな・・・」
「テオ!?やだどうしよう、泣かないで!」
オロオロとするイチカに何も言葉を返せないまま、テオニタスはただただイチカの前で涙を流す。
「イチカ、愛してるんだ。どうにもならないのはわかってる。弱くて逃げてばかりでいい加減な俺だけど、それでも俺は・・・イチカに相応しい男になってもう一回君に向き合いたい。」
「テオ・・・」
テオニタスはイチカをじっと見つめた。
「駄目なのはよくわかってる。君の気持ちが今の俺に向かないことも。でも、今だけ、君のこと抱きしめてもいい?」
「え!?いやそれはだって」
「ごめんイチカ・・・」
腕の中に無理やり包み込んでしまったその華奢な体は、温かくて柔らかくて、そしてあのハーブティーの香りがした。
「テオ、何もしないって言ったのに・・・」
胸に彼女の声が響き、テオニタスは嬉しくてつい微笑んでしまう。
「俺、イチカの側から一度離れるよ。」
「テオ?」
テオニタスはようやく大きな決断を下した。
「俺は、あの男を止める。」
イチカが「え?」と声をあげた。
「組織には戻らない。でも俺だからこそできることがあると思う。あの男は俺に情なんて一欠片も持ってないけど、なぜか母のことは大事にしていたみたいなんだ。だからそう簡単には殺されないはず。」
「いったいどうするつもりなの?」
「内情を知らないって言ったけど、本当はある程度把握してる。幹部の顔と名前はわかる。それぞれが別の組織のように動いてるけど、あの男・・・父の指示には絶対服従なんだ。どうしてそんなことが可能なのかはわからないけど。だからまずは幹部を一人ずつ潰していく。」
イチカは不安げな声で聞く。
「そんな無謀なことを一人でやるつもり?」
テオニタスは笑って言う。
「もちろん一人じゃ無理だと思う。仲間も増やすし、時には君達の力も借りるよ。でも今は一緒にいられない。このままイチカの側にいたら、何も考えずにただ君をさらって逃げるだけになってしまうから。」
テオニタスがイチカを腕から解放すると、イチカが少しだけ悲しそうな顔でテオニタスを見ていた。
「そう。それがテオの決めたことなんだね。」
「うん。それが叶ったら、いつかシオンからイチカを奪いにくるから。」
「もう!またそんなこと言って!」
「イチカ、俺、本気だから。」
「・・・」
イチカは顔を伏せてしまう。テオニタスはその小さな頭をそっと撫でた。
「俺に会えなくなるのも少しは寂しいかな?」
「テオのバカ!友達なんだから当たり前でしょ!」
「そっか。じゃあまだ諦めなくてよさそうだね!」
「諦めてください!」
そう言って二人で少し笑い合い、一瞬の静けさが訪れた。
その時。
イチカの様子が変わる。テオニタスにはその顔色が少し青くなったような気がした。
「誰か来る。シオン達じゃない。」
「一人か?」
「うん、たぶん。」
「じゃああいつだな。」
イチカは引き締まった表情を見せながら立ち上がった。
「テオ、私も防御はできる。やり過ぎると吹き飛ぶけど。テオもそれなりに強いんでしょ?今が、怖いものと向き合う時なんじゃない?」
そのイチカの表情を見て、テオニタスもゆっくりと立ち上がり、彼女としっかり向き合った。
「ああ。イチカがいるから、俺は戦える。イチカ、手を貸して。」
「うん、もちろん!」
「それから今本当の右手も貸して。」
「え?」
その右手のひらを開かせて、テオニタスはそこに柔らかなキスを残した。
「何!?」
「唇はまだ奪えないから。代わり。」
「もう!!ほら、行くよ!!」
そうして二人はゆっくりと木の扉を開き外に出ると、追手がやってくるのをその近くで待ち構えることになった。




