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88. 新たな約束

 その日、エリアスはレオンの家に泊まることになり、テオニタスは商会本部近くの宿に部屋を取った。そしてイチカは今、シオンの住む家に向かっている。


 黙ったままシオンの後ろを歩き続けていくと、賑やかな通りを外れた場所にある小さな平家に到着した。庭などはなく至ってシンプルな煉瓦造りのその家は、一人で住むには十分な広さがありそうに見えた。


「どうぞ。ここが俺の家。」

「うん。お邪魔します。」


 いつものシオンがイチカを笑顔で迎え入れる。中に入ると家の中は綺麗に清掃され、整理整頓が行き届いていると感じた。まるで商会の中のように・・・と考えたところで、イチカはそれがどちらもシオンの手が加わっているからなんだと気付かされる。


「そっか、商会もここも、シオンが目をかけているから綺麗に整頓されてるのね。」


 シオンが驚いたようにイチカの顔を見て微笑んだ。


「そうだよ。俺は本部寄りの人間だから、そういうことにも関わってる。」

「そっか。」


 そしてシオンはそのまま廊下の奥のドアを開き、リビングへとイチカを案内してくれた。


「イチカ、お茶でも淹れるからそこに座ってて。」

「うん、ありがとう。」


 その部屋は二人掛けのソファーとテーブル、そして一人掛けのソファーが一つ置いてあり、壁には大きな本棚と小物を飾っている棚が置かれていた。どれも古いものではあったが、見ただけでもその質の良さが伝わってくる。


 イチカは二人掛けのソファーの方に座り、目の前の窓から外を眺めた。日が暮れ始める時間帯になり、外の風はようやく収まってきているようだった。カタカタと窓を揺らす音は微かに鳴っていたが、強い風の音はもう聞こえない。


「イチカ、お待たせ。」

「うん、ありがとう。」


 シオンがそっとイチカの前に紅茶を差し出す。彼は自分の分をテーブルに置いて、近くに立ったままイチカが紅茶を飲むのを待っていた。


 変なシオンと思いながら、イチカはふうふうと少しだけ冷ましてからお茶を口に含む。そしてそれが以前ウォーレスの屋敷で飲んだ紅茶と同じものだと気づいた。


「これ、あの時の紅茶?」

「そう。俺、好きなんだ。」


 そう言ってなぜか紅茶のカップではなくイチカを見る。


「そ、そう。美味しいものね。」

「ああ。」


 素知らぬふりをして笑顔を浮かべるシオンが少し憎らしい。そしてイチカは、彼の胸に再びあのペンダントが光っていることに気づいた。


「イチカ、もう安心した?」


 イチカはカップをテーブルに置く。ペンダントを再び身につけてくれた、そんな些細なことが嬉しくて、つい顔がほころんでしまう。


「うん。」

「そう。よかった。」


 そして立っていたシオンがイチカの隣に腰をおろした。


「なあイチカ。今だけ、あいつのいない今だけ、約束を破ってもいい?」


 イチカはその言葉に一気に硬直してしまう。


「今、は、たぶん駄目。」

「どうして?」

「わからないけどとにかく駄目、ってシオン!?」


 結局その言葉は受け入れてもらえなかったようで、イチカはあっという間にシオンの腕の中に閉じ込められていた。


「ごめん。でも今日はもう限界だった。イチカ、悲しませてごめん。でも悲しんでくれて嬉しかった。俺のことで頭をいっぱいにしてくれてるイチカが可愛くて、嬉しくて俺・・・」


 その先に言葉は続かなかったが、イチカにはシオンの気持ちが手に取るようにわかってしまった。それは彼の温もりから伝わってきたのかもしれないし、単にイチカの勝手な想像だったのかもしれない。だがもうそんなことはどうでもよくなるくらい、イチカは彼が自分の側にいてくれることを、ただ素直に嬉しい、と感じていた。


「シオンのいじわる。ペンダントまで外して!」

「うん、わざと外した。意地悪をした自覚はあるよ。」

「こんなことまでして、そんなに私を困らせたかったの?」

「うん。困らせて、俺への自分の気持ちを自覚して欲しかった。」

「・・・ずいぶん自信があるのね。」

「見てればわかるだろそんなの。」

「・・・」


 イチカは大きく息を吸い、ここに来るまでに決心していた想いをシオンに告げた。


「ねえシオン。もし嫌じゃなかったらもう少し、もう少しだけ、待っててくれる?」


 シオンがバッとイチカから体を離し、イチカの両腕を手で掴んだまま、目を丸くしてイチカを見つめた。


「それ、どういう意味?」


 イチカは今度は目を見つめたまま、シオンの問いに答える。


「私の夫への想いが消えることは、たぶん未来永劫あり得ない。でもシオンが私の心をどんどん占領しているっていう事実からもう目を背けることもできないって、今回のことでよくわかった。年上だからとか、夫を裏切れないからとか自分にどれだけ言い訳しても私は・・・私の中にいるシオンは、どんどんどんどん大きくなって、ずっと苦しいままなの。」

「イチカ・・・」


 シオンの目が微かに潤んでいく。


「だけどお願い、もう少しだけ時間をちょうだい。まだ私はこの世界では若いし、学ばなければならないことも解決しなければならないこともたくさんある。しょうちゃんのことも、まだ心の整理がついていないし。」

「うん。」

「もう少し私がこの世界で大人になって、もう少し安心して暮らせるようになるまで、シオンにまだ言わせていないその言葉を、待ってもらうことはできる?もし待ってもらえるなら・・・私の秘密を、全部シオンにあげるから。」


 イチカは再び彼の腕の中に優しく包まれていく。そしてその手がイチカの髪をゆっくりと撫でてくれて、イチカはまるで自分が彼の宝物にでもなったような錯覚を覚える。


「待つ、待つよイチカ。何があっても、何年でも待つから。」

「うん。たった一言を言わせないことに何の意味があるのかって思うかもしれないけど、今それを聞いてしまったら、私は全てを投げ出してしまいそうになるから。」


 シオンは頷きながら髪を撫で続ける。イチカは胸がいっぱいになり、おずおずとだがシオンの背中に腕を回した。


「わがままばかり言ってごめん。でもシオン、もう離れていかないで。私シオンがいないと・・・もうどうしていいかわからないのよ。」

「イチカ!!」


 彼の腕にグッと力が入り、イチカは苦しいよと背中を軽く叩く。


「イチカ、俺のイチカ・・・わかった。もう離れたり意地悪したりしないから。ちゃんとイチカの一番近くで待ってるから。」

「ちょ、ちょっと!俺のって、気が早いんじゃない?」

「いいんだよ!こういうのは早い方が!」

「何それ!?」

「イチカの秘密、予約したからな?」

「・・・うん。」


 そうして二人は決定的な言葉は何一つ口にしないまま、互いの想いと温もりを受け入れていく。


 ソファーの上で長い時間手を繋いで語り合い、たわいもない話でただ笑い合う。たったそれだけのありふれた時間だったけれど、イチカにとってそれはかけがえのない二人だけの時間となった。


「イチカ、今日はうちに泊まって。大丈夫、寝室は別にもう一つあるから。」

「うん。ありがとう。」

「もちろん添い寝してもいいけど?」

「ダメ!」

「はあ。じゃあそれは将来に取っておくか!」

「もう!」

「いいだろ?本当のことだから。」

「バカ!」


 照れてしまったイチカの頭を優しく撫で、シオンが寝室に案内してくれた。リュックを置きランタンに火を灯すと、部屋をゆっくりと見渡した。


 シオンが綺麗に部屋を整えてあるのが薄暗い状態でもよくわかる。そんな彼の几帳面さに何だかほっとしながら、イチカは部屋を出てシオンに声をかける。


「シオン、夕飯どうする?」

「あー、そうだなあ。近くにちょっと食べたり飲んだりできる店があるから、そこに行くか。」

「うん。楽しみ!」

「・・・俺とも、酒を飲もう?」

「うん、いいよ。」


 イチカがつい嬉しくてふわっと微笑みかけると、シオンは顔を赤くしてじっとその顔を見つめた。


「やばい、今日のイチカは優しすぎる!これは夢か!?」

「バカ言ってないで早く行こう?お腹すいたー!」

「ああ、いつものイチカだった。」

「もう!」

「あはは!」


 いつものふざけたやりとりを楽しみながら、シオン推薦の店に足を運んだ。


 どの料理も程よい塩加減と風味の良い食材で大変美味しく、イチカはワインやビールに近い飲み物と一緒にそれらを一つずつ味わっていった。シオンもいつもより饒舌で、イチカとの時間を全力で楽しんでくれているのが伝わってくるようだった。


 そんな夜を過ごした二人は、シオンの家に戻るとなぜかお互いに少し照れてしまって、ぎこちなく挨拶をしてそれぞれの部屋のドアに手を掛けた。


「イチカ、おやすみ。」

「うん。おやすみ。」



 その日イチカは、ただ彼の側で過ごせたことが嬉しくて、そんな自分をシオンに全部明らかにされてしまったことが気恥ずかしくて、ベッドの上で呻いてしまう。


「ううう、恥ずかしい!今さら自分がこんな甘酸っぱい思いをするとは思わなかった・・・」


 そして考える。これから先自分はどう生きていくべきなのかを。


(しょうちゃん、どうか見守っていて。私はこの人生を諦めないから。まだ気持ちに整理はつかないけど、ちゃんと前に進んでいくから・・・)


 祈りのようなその言葉を心の中で翔太に送り、イチカはゆっくりと目を閉じて深い眠りの中へといざなわれていった。


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